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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第41話「御影という名前」

第41話「御影という名前」


黒瀬ホールディングスの朝に、大きな変化はなかった。


少なくとも、外から見れば。


オフィスビルは、これまでと変わらない活気に満ちている。書類を手に出社する社員、会議室から別の会議室へ移動する人々、そしてガラス張りの扉の向こうから聞こえてくる、抑えられた会話の声。


しかし、蓮にとっては昨日から一つだけ変わったことがある。


黒瀬ホールディングスは、正式に新しい段階へ入った。


もはや、提案を持ってやってくる企業を受け入れるだけではない。


次々と発生する社内の問題を処理するだけでもない。


これからは、自分たちでどこへ進むのかを選び始める。


蓮は執務室に座り、大型モニターに高橋から送られてきたプロジェクト資料を表示していた。


タイトルはシンプルだった。


Tokyo Commercial Property Acquisition — Preliminary Review.


蓮は、ほとんど表情を変えずに最初の数ページを読む。


場所は銀座。


所有者は複数。


その建物は長年にわたって商業施設として使われているが、一部には一般的な商業利用とは異なる用途が残っている。


展示スペース。


コレクション保管庫。


何年も前に結ばれた文化施設としての利用契約。


そして、最も厄介なのは――


その不動産の中にあるいくつかの美術品が、売主側の資産として登録されていないことだった。


蓮の指が止まる。


一つ前のページへ戻る。


そして、もう一度読む。


「……なんで商業不動産に、こんな問題があるんだ?」


扉がノックされた。


「入れ」


高橋が、薄いファイルを二つとタブレットを持って入ってきた。


「おはようございます、黒瀬様」


「おはよう。もう資料は見た」


高橋は、蓮が同じプロジェクトについて話していることをすぐに理解した。


「それなら、最初から説明する必要はありませんね」


「いや、最初から説明してくれ」


高橋は薄く笑った。


「承知しました」


蓮のデスクへ近づき、メインモニターの横にタブレットを置く。


「この物件は、当初は比較的シンプルな買収案件に見えました。立地は非常に良く、稼働率も比較的安定しています。売主の提示価格も、黒瀬デベロップメントで許容できる範囲に収まっています」


「だが?」


「初期調査を行ったところ、三つの問題が見つかりました」


蓮は椅子に身体を預ける。


「三つ?」


「一つ目は、所有構造が売却提案書に記載されているほど単純ではないこと。二つ目は、建物の所有権が移ったからといって、すぐには解除できないスペース利用権がいくつか存在することです」


高橋は一度言葉を止めてから続ける。


「三つ目が、美術品です」


蓮が顔を上げる。


「数は?」


「まだ確定していません」


「確定していない?」


「建物所有会社の資産台帳に登録されていない物品が、建物内にいくつか存在しているためです」


蓮は数秒、高橋を見る。


「つまり、何が入っているのかさえ明確になっていない建物を買おうとしているわけか?」


「技術的には、そうなります」


「いいな」


高橋は、思わず笑いそうになる。


「黒瀬様ならそうおっしゃると思っていました」


「分かっていたなら、どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」


「普通なら、まずどれくらい利益が出るのかを聞くでしょうから」


「俺は中身が分からない理由を聞いた」


「そこなんです」


高橋はファイルの一つを開く。


「問題は、不動産価値だけではありません」


中から何枚かの写真を取り出した。


一枚目には、銀座の一角にある建物の正面が写っている。


周囲の近代的なビルと比べれば、それほど高い建物ではない。


しかし、そのファサードには独特の雰囲気があった。


何度も改修を重ねながらも、元の姿を完全には失っていない。


蓮は写真を見る。


「古い建物だな」


「はい」


「どれくらい前からある?」


「初期の推定では数十年前です。ただし、現在の改修より前の構造は、さらに古い可能性があります」


「文化施設のスペースは?」


「二階と、三階の一部です」


高橋が次の写真を表示する。


白い壁に囲まれた広い空間。


天井には複数のスポットライト。


片側には、交換された形跡のない古い木製パネルが残っている。


「ギャラリー?」


「以前はギャラリーとして使われていました」


「以前?」


「現在の所有者は、もう積極的には運営していません」


蓮は再び資料を見る。


「なら、なぜ利用権が残っている?」


「契約です」


「古い契約か?」


「古い契約です」


「どれくらい?」


「法務上の確認が必要です」


蓮は息を吐いた。


これが、蓮がビジネスで最も好まない部分だった。


複雑だからではない。


単純に見える一つの決定の裏に、まだ見えていない十個の決定が隠れていることだ。


蓮はタブレットを少し手前へ引く。


「なら、まだ買収とは呼べないな」


高橋は頷いた。


「まだ初期デューデリジェンスの段階です」


「いい。権利関係がすべて明確になるまで、金は動かすな」


「法務チームにも、手続きを止めるよう伝えてあります」


蓮は画面を見る。


そして尋ねた。


「美術品は?」


「そこで、黒瀬様に判断をお願いしたいことがあります」


蓮が高橋を見る。


「何だ?」


「外部のコンサルタントを使う必要があるかどうかです」


「なぜ?」


「不動産チームなら建物の価値を判断できます。法務なら利用権や所有権を確認できます。しかし、美術品については、一般的な鑑定だけに頼りたくありません」


蓮は黙った。


高橋は、少し慎重な口調で続ける。


「いくつかの作品には、通常とは違う年代や来歴があるようです」


「つまり、価値が高い?」


「必ずしもそうとは限りません」


その答えに、蓮の動きが止まった。


高橋もそれに気づく。


「金銭的価値と文化的価値は、必ずしも同じ方向に進むわけではありません」


蓮は背もたれに身体を預けた。


「誰を見つけた?」


高橋はすぐには答えなかった。


そして、先ほどから開いていなかったファイルから、一枚の書類を取り出す。


上部に記されていた名前は、一つだけだった。


御影。


蓮はその名前を見る。


「……御影」


「はい」


「会社?」


「正確には、コンサルティング・ファームです」


高橋がページをめくる。


「御影アート・アドバイザリーです」


蓮はその名前を頭の中で繰り返した。


聞き覚えがないわけではない。


だが、知っている理由もない。


「誰だ?」


高橋は用意していたプロフィールを開く。


「御影莉月です」


蓮は、その漢字を見る。


「日本人らしい名前だな」


「はい」


「このファームのオーナーか?」


「コンサルティングの中心人物の一人です」


「年齢は?」


「まだ若いです」


高橋がタブレットを蓮へ渡す。


画面に簡単なプロフィールが表示される。


御影莉月 — Mikage Ritsuka


Mikage Art Advisory


専門分野:


- アートコンサルティング

- コレクション評価

- 文化資産

- 歴史的建造物

- 展示スペース

- 文化的価値を持つ不動産開発コンサルティング


蓮は、何も言わずにすべてを読む。


高橋はその表情を見ていた。


変化はない。


過剰な興味もない。


明確な疑念もない。


ただ、その名前が本当にこのプロジェクトに必要なのかを考えているだけだった。


「美術の専門家か?」


蓮がようやく尋ねる。


高橋は頷いた。


「そう言っていいと思います」


「その答え方だと、続きがあるな」


「あります」


蓮が目を上げる。


「言ってくれ」


高橋は小さく息を吸った。


「かなり仕事を頼みにくい人物です」


蓮は高橋を見る。


「頼みにくい?」


「契約金額が大きいという理由だけでは、簡単に仕事を受けません」


「それは、いいことじゃないのか?」


「コンサルタントにとっては」


「クライアントにとっては?」


「必ずしも、そうとは限りません」


蓮は、少しだけ笑いそうになった。


「つまり、クライアントを断ることもある?」


「仕事の方針に合わないと判断すれば、あります」


「それでも勧めるのか?」


「だからこそ、勧めています」


部屋が一瞬、静かになった。


蓮はもう一度プロフィールを見る。


高橋の説明には、何か興味深いものがあった。


彼は莉月という女性を売り込もうとしているわけではない。


むしろ逆だ。


なぜ彼女が面倒な相手になり得るのか、その理由まで伝えている。


しかし同時に、その理由こそがこのプロジェクトに合っているのだ。


蓮は指先で机を軽く叩く。


「金だけを求める人間なら、別のコンサルタントを探せばいい」


「その通りです」


「芸術的な価値だけを見る人間なら、俺たちとは合わないかもしれない」


「その通りです」


「じゃあ?」


高橋は薄く笑った。


「だからこそ、黒瀬様には彼女が過去に手がけたレポートを見ていただきたいと思っています」


「会うんじゃないのか?」


「まだです」


蓮は頷いた。


それなら納得できる。


まだ会う理由はない。


そもそも、このプロジェクト自体が決まっていない。


名前が資料に出てきただけで、いきなりコンサルタントを呼ぶのは、むしろ早すぎる判断に感じられた。


「過去のレポートを見せてくれ」


「用意してあります」


高橋がデジタルフォルダを蓮の画面へ移す。


最初の資料には、東京にある古い建物の分析が記されていた。


蓮が開く。


普段読んでいる投資レポートとは、かなり違っていた。


数字だけではない。


建物の面積だけでもない。


改修費用の試算だけでもない。


建物の歴史。


用途の変遷。


過去の所有者に関する記録。


建築状態。


利用履歴。


さらには、特定の空間における小さな変更まで、細かく記録されている。


蓮は数ページ読む。


そして止まった。


「これを本人が?」


「主要な分析の大部分は、本人です」


「鑑定データだけを使っているわけじゃない」


「はい」


蓮は再び読み進める。


その中の一項目には、ある部屋を商業スペースへ変更することを推奨しない、と記されていた。


財務的には、その変更によって収益を増やせるにもかかわらずだ。


理由は費用ではない。


法的リスクでもない。


その部屋が、地域文化の発展における歴史的価値を持つためだった。


蓮が顔を上げる。


「利益になる可能性を断っているのか?」


「ケースによっては」


「なぜ?」


「レポートでは、短期的な利益によって、取り戻すことが難しい価値まで失われる可能性があるため、としています」


蓮はしばらく黙った。


単純な言葉だった。


それでも、なぜか自分が以前言ったことを思い出す。


すべてをもっと多くの金を得るためだけに行っていれば、最後には、なぜそれを築いたのかという理由そのものを失ってしまう。


蓮はもう一度レポートを見る。


「面白いな」


高橋は口を挟まなかった。


「なら――」と蓮が続ける。


「この物件を調べてもらいたい」


「承知しました」


「買うべきかどうかを判断するためじゃない」


高橋が待つ。


「俺たちが実際に何を買おうとしているのかを判断するためだ」


高橋はゆっくり頷いた。


「そのように伝えます」


「それと、黒瀬ホールディングスが買収を決めたとは言うな」


「まだ決まっていないからですか?」


「まだ決まっていないからだ」


蓮は書類を閉じる。


「もし、買う価値がないと判断したなら、その理由を聞きたい」


高橋が微笑む。


「承知しました」


高橋は立ち上がり、ファイルを整理する。


しかし、部屋を出る前に蓮が呼び止めた。


「高橋」


「はい?」


「西園寺との関係は?」


その質問は、声の調子を変えずに発せられた。


しかし高橋には、蓮が単なる一枚の書類について聞いているわけではないことが分かっていた。


「初期提携はすでに動いています。向こうのチームにもプロジェクトの構成は共有済みです」


「麗華は?」


「西園寺様が、先方の主要な窓口になります」


蓮は頷く。


「分かった」


高橋が出ようとしたところで、蓮が再び言った。


「このプロジェクトには、あまり多くの人間を入れるな」


「理由は?」


「基本的な問題が分かる前に関わる人間が増えるほど、誰に責任があるのか分かりにくくなる」


高橋は笑った。


「黒瀬様も、だいぶ社長らしくなってきましたね」


蓮は無表情で高橋を見る。


「勘違いするな」


「はい?」


「後で五十人が壁の色を決めるために会議をするようなことになってほしくないだけだ」


高橋は小さく笑った。


「承知しました。そうならないようにします」


扉が閉まる。


蓮は再び画面を見る。


そこにはまだ、その名前があった。


御影莉月。


その名前の向こうに、どんな人間がいるのか、蓮は知らない。


考える理由も、まだない。


蓮にとって、今の莉月はただ一つのプロジェクトに現れた、専門家としての名前にすぎない。


数字だけでは解決できない問題があるからこそ現れた名前。


それ以上ではない。


そして今は、それで十分だった。


東京の別の場所では、同じ仕事について別の角度から話が進んでいた。


黒瀬ホールディングスの会議室ではない。


西園寺インベストメント・グループのオフィスでもない。


もっと静かなコンサルティング・スペースだった。


壁一面に高い書棚が並んでいる。


そこには美術史に関する書籍、展覧会のカタログ、オークションのアーカイブ、古い不動産資料が並んでいた。


部屋の中央では、一人の女性がレポートを読んでいる。


名前は――


御影莉月。


莉月はゆっくりとページをめくった。


視線が、書類の上部に印刷された企業名で止まる。


黒瀬ホールディングス。


もう一度、最初のページを読む。


それから添付資料を開く。


物件所在地。


所有構造。


買収目的。


開発計画。


文化施設に関する注記。


まだ完全には特定されていない美術品。


莉月は椅子に身体を預ける。


「つまり、ここを買いたいんだ」


向かいに座っていたコンサルティング・スタッフの一人が頷いた。


「初期依頼では、そのようになっています」


「誰から?」


「黒瀬ホールディングスです」


「こちらへ連絡してきたのは?」


「高橋健司です」


莉月が少し眉を上げる。


「オーナー本人ではない?」


「まだです」


「つまり、まだ直接関わるつもりはないということ?」


「そういうことではないと思います。まだ初期調査の段階なので」


莉月は再び資料を見る。


「それなら、いい」


スタッフが少し戸惑う。


「いい?」


「買うと決めてから調査を依頼してきたなら、私は断る」


「なぜ?」


莉月はファイルを閉じた。


「それは、すでに決めたことを正当化するための人間を探しているということだから」


立ち上がり、棚へ向かう。


手を伸ばして、古いカタログを一冊取る。


「こういう案件では、オーナー側が『買わないことが最善の選択かもしれない』という可能性を受け入れられなければいけない」


「それでは、プロジェクトの価値はどうなるんですか?」


莉月は小さく笑った。


「プロジェクトの価値は、建物を本来の姿とは違うものに無理やり変える理由にはならない」


スタッフは黙った。


莉月はカタログを開く。


そこには、同じ建物の写真があった。


撮影された角度が違う。


今より古い。


いくつかの部分は、まだ改修されていない。


「同じ建物?」


「はい」


「何回改修された?」


「まだ調査しきれていません」


「なら、『まだ終わっていない』じゃなくて『まだ確認できていない』を使って」


スタッフはすぐにメモを修正した。


「承知しました」


莉月は、その写真を長く見つめる。


何かが、この建物について価格を考えるより先に、彼女の目を止めさせていた。


窓の形。


内部の木製パネル。


空間の配置。


特定の方向から差し込む光。


そのすべてが、通常の不動産資料には記録されない利用の痕跡を残しているように見えた。


「現在の所有者は?」


「不動産投資会社です」


「それで、黒瀬ホールディングスが買収したい?」


「はい」


「何のために?」


「商業開発です」


莉月は眉を寄せる。


「どんな商業開発?」


「まだ説明されていません」


「なら、こちらもまだ評価を出せない」


「ですが、初期評価を求められています」


莉月は再び席に戻る。


「初期評価は出せる」


ペンを手に取る。


「ただし、価格じゃない」


スタッフが彼女を見る。


「では?」


「文化的リスク」


「文化的リスク?」


「この建物を変えるなら、何が失われるのか」


莉月は、いくつかの項目を書き始める。


建物の歴史。


文化施設としての空間。


美術品。


利用権。


金銭では補えない価値を失う可能性。


そして、手を止めた。


「もう一つ追加して」


「何を?」


「実際に意思決定をするのは誰なのか」


スタッフが書き加える。


莉月は再び黒瀬ホールディングスの名前を見る。


その企業は投資業界ではそれなりに知られている。


成長も早い。


オーナーもまだ若い。


だが、彼女は噂には興味がなかった。


噂では、プロジェクトを評価できない。


彼女が知りたいのは、一つだけだった。


利益の数字と、二度と買い戻せない価値が衝突したとき――


そのオーナーは何を選ぶのか。


莉月は立ち上がる。


「連絡して」


「面談の日程を?」


「まだ」


スタッフは不思議そうな顔をする。


莉月は資料を返す。


「必要な資料の一覧を送って」


「もし、提供してくれなかったら?」


「なら、こちらも続ける必要はない」


「全部提供してきたら?」


「そのときに考える」


莉月は窓へ向かう。


そこからは、銀座がいつも通り動いているのが見えた。


人々が歩く。


車が交差点を通過する。


店が扉を開ける。


そのすべての中で、一つの不動産プロジェクトが、誰にもまだ分からない地点へ向かってゆっくり動き始めていた。


莉月は、もう一度一つの名前を思い浮かべる。


黒瀬蓮。


まだ、その男とは会ったことがない。


話したこともない。


他の誰もいない部屋で、彼がどのように意思決定をする人間なのかさえ知らない。


だから、今の莉月にとって黒瀬蓮は、あくまで見込み客の名前にすぎない。


それ以上ではない。


「それじゃあ……」


そう呟きながらカーテンを閉じる。


「まずは、彼らが本当に何を望んでいるのか見てみましょう」


黒瀬ホールディングスへ戻る。


蓮が最後のレポートを読み終えたところで、スマートフォンが振動した。


美雪からのメッセージだった。


美雪:

今日はあまり遅くまで残らないでね。


蓮はメッセージを読む。


数秒後、もう一件届く。


静香:

それと、昼食を忘れないで。蓮さん、レポートを読んでると時間を忘れるから。


蓮は二つのメッセージを見る。


短く入力した。


蓮:

食べる。


三秒後、美雪から返事が来た。


美雪:

「食べる」は「もう食べた」じゃないよ。


蓮は息を吐く。


「……二人とも、なんで最近こんなに息が合ってるんだ?」


静香からメッセージが届く。


静香:

私たちが言わなかったら、誰が言うの?


蓮はしばらく画面を見つめる。


返信しようとしたところで、新しい通知が表示された。


高橋からだった。


Mikage Art Advisory — Preliminary Contact Prepared.


蓮は資料を開く。


また同じ名前が現れる。


御影莉月。


今度は、その名前の下に短い一文があった。


金銭的利益だけを目的とした案件は受けない。


蓮はその一文を読む。


そして画面をロックした。


「仕事を頼みにくい、か」


しかし、その声に苛立ちはなかった。


むしろ、少しだけ興味があった。


女性としてではない。


まだ。


金銭的に大きな価値のあるプロジェクトであっても、その最終的な目的が間違っていると判断すれば断る。


そんな考え方をする人間が、どんな判断をするのか。


蓮は椅子から立ち上がり、ジャケットを手に取った。


次の会議が待っている。


銀座の物件は、まだ買収されていない。


コレクションの価値も、まだ評価されていない。


利用権も、まだ明確ではない。


そして御影という名前が、黒瀬ホールディングスのビジネスの輪の中へ入ったばかりだった。


このプロジェクトがどこへ進むのか、まだ誰にも分からない。


ただ、一つだけ確かなことがある。


この日から、御影はもう、報告書に書かれた単なる名前ではなくなった。


それはやがて蓮の世界へ入ってくる一人の人間の名前だ。


偶然ではない。


数字からは見えないものを見られる人間を必要とする、一つのプロジェクトがあったからこそ。


そして二人の出会いは、まだ起きていない。


まだ――。


つづく。


次42話「彼女は、数字だけを見なかった」



莉月は、御影アート・アドバイザリーを通して黒瀬のプロジェクトを直接調査し始める。


彼女は、黒瀬ホールディングスが資産価値を重視するアプローチを取っていることを知る。


しかし、他の大口クライアントとは異なる一面もあった。


蓮は、利益のためだけに決断を押し通すことをしない。


そこから莉月は、一つの簡単な要求を考え始める。


黒瀬ホールディングスのオーナー本人と、直接会うこと。

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