第43話「この絵に、いくら払う?」
第43話「この絵に、いくら払う?」
四十三日目。
その朝、蓮は黒瀬ホールディングスへ向かった。
予定はそれほど詰まっていなかったが、銀座の物件資料に記された一つの名前が、何度も彼の意識を同じプロジェクトへ引き戻していた。
御影莉月。
Mikage Ritsuka。
その名前は、以前まで一つの資料の中にあるだけだった。
高橋から推薦されたコンサルタント。
契約金額が大きいというだけでは、簡単に仕事を引き受けない人物だと報告されていた。
そして昨日、彼女が要求した追加資料をすべて受け取ったあと、莉月が求めてきたものは実に単純だった。
直接会うこと。
蓮はタブレットのデジタル資料を閉じ、向かいの席に座っている高橋へ視線を向けた。
「それで、場所は決まった?」
「はい、黒瀬様。銀座にあるギャラリーです。奥にプライベートコレクション用のスペースがあります。仕事の話をするには十分静かで、それほど目立つ場所でもありません」
「彼女が選んだのか?」
「はい」
「ということは、あの場所を知っているんだな」
高橋が薄く笑った。
「そのようです。御影さんは、銀座の物件について話す前に、黒瀬様へ見せたいものがあると言っていました」
蓮は一瞬、言葉を止めた。
「見せたいもの?」
「そういう伝言でした」
「プレゼンじゃない?」
「違います」
「資料でもない?」
「それも違います」
蓮は椅子の背もたれに身体を預けた。
「それなら、たぶん俺を試すつもりだな」
高橋はすぐには答えなかった。
数秒後、慎重な口調で言う。
「私も、そう思います」
「問題ない」
「気にならないんですか?」
「俺がどう判断するのか知りたいなら、会社概要を読むより直接見てもらったほうが早い」
高橋はしばらく蓮を見つめた。
「普通、こういう面談に来る人は、答えを準備してくるものですが」
「俺もする」
「どんな答えを?」
蓮は机の上に置いていたスマートフォンを手に取り、スーツのポケットへ入れて立ち上がった。
「正直な答え」
高橋が小さく笑う。
「それが一番準備しにくいんですけどね」
蓮は否定しなかった。
ただ、隣の椅子に用意されていた薄手のコートを手に取った。
今回の面談は、買収会議ではない。
購入の決定もまだない。
コンサルティング契約に署名する必要もない。
だから、蓮はチーム全員を連れていかなかった。
高橋も同行しない。
このプロジェクトが重要ではないからではない。
むしろ、こういう最初の面談では、人数が多すぎるほど会話が本来の形を失ってしまう。
しばらくして、蓮を乗せた車が指定されたギャラリーから少し離れた場所で停まった。
銀座は相変わらず忙しい。
店へ出入りする人々。
乗客を降ろすために一時的に路肩へ停まる車。
さまざまな方向から聞こえてくる会話の声。
そして、大通りを走り抜ける車の音。
蓮は車を降り、ギャラリーの建物を見上げた。
それほど大きくはない。
しかし、その正面は、通り過ぎる人間が無意識に歩みを緩めてしまうような造りになっていた。
過剰な看板はない。
大きな文字で人目を引こうともしていない。
ただ、正面には簡素な名前が掲げられている。
蓮は中へ入った。
室内の空気は違っていた。
より静かだ。
床や家具から漂う木の香りに、奥のカフェから流れてくるコーヒーの香りが混ざっている。
いくつかの美術作品が、互いに十分な距離を取って展示されていた。
高級感を演出するためだけに物を詰め込んでいるような印象はない。
一人の女性スタッフが蓮へ近づいてきた。
「黒瀬様でしょうか?」
「はい」
「こちらへどうぞ。御影さんがお待ちです」
蓮は頷いた。
二人はカフェスペースを通り抜け、濃い色の木製扉で仕切られた奥へ向かう。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
プライベートコレクションのための部屋は、外から想像するよりも広い。
壁にはいくつかの絵画が飾られているが、それぞれが近づきすぎないように配置されていた。
中央には長いテーブル。
窓際には、一人の女性が立っていた。
彼女はイーゼルに置かれた一枚の絵を眺めている。
莉月だった。
足音に気づき、彼女が振り返る。
二人の視線が、初めて重なった。
「ようこそ、黒瀬さん」
落ち着いた声だった。
堅苦しすぎるわけでもない。
だからといって、まだ存在しない親しさを見せることもない。
「お招きいただいて、ありがとうございます」
莉月が頷く。
「こちらからお願いした面談ですから。来ていただいたことに、こちらがお礼を言うべきです」
蓮は一度室内を見回してから、再び莉月を見る。
「銀座の物件について?」
「最終的には、そうです」
「最終的には?」
「その前に、一つだけ確認したいことがあります」
蓮がわずかに眉を上げる。
「何を?」
莉月はすぐには答えなかった。
絵の近くにある小さなテーブルへ歩き、そこに用意されていた二つのコーヒーカップを手に取る。
「どうぞ」
蓮は一つを受け取った。
「ありがとうございます」
莉月が座る。
蓮も向かいの椅子に腰を下ろした。
ノートパソコンは開かれない。
資料もすぐにはテーブルへ置かれない。
プレゼンテーションもない。
そのことが、今回の面談が普通のビジネスミーティングとは違うという蓮の確信を、さらに強くした。
莉月は両手でカップを包む。
「黒瀬ホールディングスから送っていただいた資料は、すべて読みました」
「どうでした?」
「まだ、何とも言えません」
「全部を見ていないから?」
「違います」
莉月が蓮を見る。
「いただいた数字そのものは間違っていません。ただ、数字だけでは建物の中に実際に何があるのか、すべてを説明できるとは限りません」
蓮は少し黙った。
「だから、実際に物件を見に行った」
「はい」
「何か見つかった?」
「商業資料には出てこなかったものがいくつか」
「例えば?」
「以前、展示スペースとして使われていた痕跡。美術品の保管記録。最新の資料には完全に記録されていない、いくつかの部屋の用途変更。それから、建物に関係する一部のコレクションには、想定されていたより長い歴史がある可能性もあります」
蓮はゆっくり頷いた。
「つまり、その物件の価値は土地と建物だけじゃない」
「その通りです」
「でも、それは俺と会う前に結論を出していたんじゃないか?」
莉月が小さく笑った。
「その通りです」
「なら、まだ知りたいことは?」
莉月はカップを置いた。
「あなたが、どうやって物事を決めるのかです」
蓮はすぐには答えなかった。
「会社資料だけでは?」
「十分ではありません」
「なら?」
「あなたの会社が購入する可能性のある資産について、私は専門家として意見を出すことになります。もし私があなたの価値判断を誤って理解していたら、私の提案も方向を間違える可能性があります」
「筋は通ってる」
莉月が立ち上がる。
「それなら、一つ見ていただきたいものがあります」
彼女は部屋の一角へ歩いていく。
蓮も後を追った。
そこには、一枚の中くらいの大きさの絵があった。
それほど大きくはない。
目立つ額縁でもない。
構図はシンプルだが、光の使い方に特徴があり、絵の中に描かれた一部の物が、キャンバスの表面から少し離れた場所にあるようにも見える。
蓮は絵から数歩離れたところに立った。
莉月がその隣に立つ。
「この絵に、いくら払うと思いますか?」
蓮が振り向く。
「売るなら?」
「例えば」
「俺が買うなら?」
「はい」
莉月は絵を指した。
「この作品には、ある歴史的価値があり、評価の高い画家によって描かれたものだとします。それに、保存状態も非常に良い」
蓮は再び絵を見る。
「今の価格は?」
「教えません」
「じゃあ、当てるのか」
「ただ当ててほしいわけではありません」
莉月は腕を組んだ。
「理由を聞きたいんです」
蓮は少し長く絵を見た。
突然、絵画の技法に興味を持ったわけではない。
彼自身、美術について特別な知識があるわけではない。
そして、自分に知識がないことも理解している。
だから、分かっているふりをする理由もなかった。
「俺が気に入らなければ、ゼロ」
莉月が黙った。
本当に、黙り込んだ。
それまで落ち着いていた彼女の表情が、ほんの少し変わる。
蓮が彼女を見る。
「何か問題が?」
数秒が過ぎた。
やがて、莉月の口元が上がった。
小さく笑う。
嘲笑ではない。
予想していた答えとは違う言葉を聞いたことで、むしろ安心したような笑いだった。
「すみません」
「別に」
「そんな答えが返ってくるとは思っていませんでした」
「普通の答えじゃないか?」
「私にとっては、そうですね」
莉月は再び絵を見る。
「ここへ来る人の多くは、画家の名前、制作年、過去の所有者、希少性、さらには将来的な売却価格について話し始めます」
「俺は、その全部を知らないからな」
「だから面白いんです」
蓮は両手をズボンのポケットへ入れた。
「分からないことを、分かっているふりするのは好きじゃない」
「では、美術には興味がない?」
「そうは言ってない」
「では?」
「市場価格を知らなくても、作品を気に入ることはできる」
莉月が蓮を見る。
「気に入った作品なら、買うこともある?」
「本当に欲しいなら」
「上限は?」
蓮は少し考えた。
「決まった数字はない」
「ない?」
「物の価値は、俺がなぜそれを買うのかによって変わる」
莉月が、より真剣な表情で蓮を見る。
「では、投資なら?」
「それは別だ」
「どう違うんです?」
「投資として買うなら、数字を見る」
「では、その作品が好きだから買うなら?」
「自分の判断を正当化するために、数字を無理やり当てはめたりはしない」
莉月が薄く笑った。
「つまり、個人的な価値と金銭的な価値を分けて考える」
「そのほうが普通じゃないか?」
「全員がそうするわけではありません」
「すべての物事に、報告書へ書ける理由を求める人もいるからな」
莉月が再び小さく笑った。
「あなたも?」
「特に俺は。会社を経営しているから」
その答えに、莉月は一瞬黙った。
そして尋ねる。
「それなら、なぜここへ?」
「会社で、芸術と関係のある物件を検討しているから」
「それは仕事上の理由ですね」
「そうだ」
「ほかには?」
蓮が彼女を見る。
「この面談について?」
「はい」
「本当に、そのプロジェクトを手伝える人なのか知りたい」
莉月が眉を上げた。
「私個人に会いたかったわけでは?」
「まだ初対面だろ?」
莉月が再び小さく笑う。
今度は、先ほどよりも軽い笑いだった。
「そうですね」
蓮には、何がそんなに面白いのか分からなかった。
だが、尋ねることもしなかった。
莉月は再び絵へ近づく。
「では、もう少し聞きます」
「どうぞ」
「気に入らなければゼロと言いましたね」
「ああ」
「気に入ったとしても、実際には市場価値が高くないと私が言ったら?」
「それでも好きでいられる」
「それでも買う?」
「俺にとって妥当な価格なら」
「妥当かどうかは、どうやって決めるんです?」
蓮は静かに息を吐いた。
「場合による」
「何によって?」
「自分にとって、その作品がどれだけ重要なのか。会社の資金を使うなら、購入による財務への影響。購入する目的。リスク。それから、それを手に入れるために何を犠牲にする必要があるのか」
莉月はしばらく蓮を見つめた。
「結局、数字に戻ってきますね」
「購入の話をしているからな」
「面白い」
「会社経営者から聞く答えとしては、それを期待していたんじゃないか?」
「完全には」
莉月はテーブルから薄い資料を一つ取り上げた。
開いてから、蓮へ差し出す。
「現在話している物件の状況をまとめたものです」
蓮は受け取った。
そこには、以前は目にしていなかった情報が数ページにわたって記されていた。
空間構造に関する記録。
過去の使用履歴。
古いコレクション。
そして、いまだ確認が必要ないくつかの使用権。
蓮は注意深く目を通した。
「これは最初の資料にはなかった」
「一部の情報がまだ確認されていなかったからです」
「それを見つけた?」
「手がかりを見つけただけです」
「つまり、まだ仕事は終わっていない」
「はい」
蓮は資料を閉じた。
「どれくらいかかる?」
「初期監査ですか?」
「ああ」
「一人でやるなら、時間が必要です」
「どれくらい?」
莉月は少し蓮を見つめる。
「早い答えが欲しいなら、出せます」
「正しい答えが欲しいなら?」
莉月が笑った。
「そちらのほうが、いい質問です」
蓮は頷いた。
「じゃあ、後者を選ぶ」
再び部屋が静かになる。
しかし、今度の沈黙は気まずいものではなかった。
莉月は何かを考えているようだった。
そして口を開く。
「高橋さんが、あなたは読みにくい人だと言っていた理由が少し分かりました」
蓮がわずかに眉を寄せる。
「そんなことを言ってたのか?」
「だいたいは」
「あとで聞いてみる」
「やめてください」
「なぜ?」
「私がそう言ったと知ったら、もう仕事を一緒にしてくれないかもしれません」
蓮が小さく笑った。
「じゃあ、誰から聞いたかは言わない」
莉月も笑う。
最初は検査のようだった会話が、少しずつ自然なものへ変わっていく。
それでも莉月にとって、最初の目的は変わっていなかった。
目の前にいる人間を知りたい。
単なる黒瀬ホールディングスの所有者としてではない。
短期間で会社を築き上げた、二十一歳の若い経営者としてでもない。
数字だけでは価値を判断できない物を前にしたとき、蓮という人間がどう決断するのかを知りたかった。
そして今のところ、その答えは彼女の予想とはかなり違っていた。
莉月は先ほどの資料を取り戻す。
「では、あなたが会社をどう動かしているのかも見せてほしい」
蓮が彼女を見る。
「どういう意味だ?」
「その物件について、文化的監査を行います」
「それで?」
「初期段階では、あなたのチームと直接やり取りしながら進めたいと思います」
蓮は少し黙った。
「条件は?」
莉月が微笑む。
「黒瀬ホールディングスには、私の報告書に『文化的価値がある』と書かれているからという理由だけで、あの物件を買ってほしくありません」
「筋が通ってる」
「もし調査の結果、それを維持することが会社に対して不釣り合いなほど大きな負担になるなら、それも伝えます」
「そうしてくれ」
「構わないんですか?」
「なぜ?」
「あなたが聞きたくないことを言うかもしれません」
蓮は莉月の背後にある絵を見る。
「俺が自分の好きなことだけ聞きたいなら、そもそもコンサルタントに金を払う必要がない」
莉月が笑った。
今度の彼女の表情には、迷いがなかった。
「分かりました」
彼女は手を差し出す。
「それでは、仕事として協力しましょう」
蓮もその手を握った。
「分かった」
その握手に、特別なものはない。
約束もない。
突然変わった感情もない。
ただ、異なる二つの視点から一つのプロジェクトを検証するために、二人が合意しただけだった。
それでも莉月にとって、一つだけ変わったことがある。
御影莉月は、黒瀬ホールディングスを、単に一つの物件を購入したがっている会社とは、もう見ていなかった。
その所有者を、自分自身の望む答えと異なる結果を受け入れるだけの余地を持った人間として、少しずつ見るようになっていた。
そして蓮にとっても、この面談は一つのシンプルな印象を残した。
莉月は、クライアントが聞きたいことを言うタイプのコンサルタントではない。
だからこそ、彼女は役に立つかもしれない。
蓮はコートを手に取った。
「高橋に、プロジェクトのデータへ完全にアクセスできるよう準備させる」
「古い資料も?」
「全部だ」
「選別せずに?」
「あなたが重要だと思うものがあるなら、見られるようにしておく」
莉月は頷いた。
「分かりました」
蓮は扉へ向かう。
出る直前、彼は立ち止まって振り返った。
「ああ、一つ」
「何ですか?」
「さっきの絵」
「はい?」
「本当に俺に売るつもりなら、最初から高い値段をつけないほうがいい」
莉月が驚いたような顔をする。
「どうして?」
「言っただろ」
蓮は扉を開く。
「俺が気に入らなければ、ゼロだ」
莉月が笑った。
今度の笑い声は、部屋全体に響くほどはっきりしていた。
「分かりました、黒瀬さん」
扉が閉まり、蓮の姿が消える。
莉月はしばらく、その絵の前に立っていた。
そして、テーブルの上に置かれた銀座の物件資料へ視線を戻す。
初めての面談は、彼女が想像していたよりもずっと単純なものだった。
芸術への愛を語る演説もない。
持っていない知識を見せようとすることもない。
自分を賢く見せようとすることもない。
ただ一人の会社経営者が、自分自身がその作品を気に入らないのなら、その美術作品には自分にとって価値がないと言った。
けれど、だからこそ莉月は、もっと先を見てみたいと思った。
黒瀬蓮がどれだけの金を持っているのかではない。
金が、物の価値を決める唯一の方法ではなくなったとき、彼が何をするのか。
廊下の向こうでは、蓮の足音が次第に遠ざかっていく。
その一方で、銀座のプロジェクトは新たな段階へ入ろうとしていた。
そして今度は、数字だけが会社の進む方向を決めるわけではない。
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【次話44――「価値は、値札だけでは決まらない」】
銀座の物件に対する文化的監査が始まる。
莉月は、その建物の歴史が買収資料に記載されているものよりも、はるかに深いことを発見する。
その一方で、物件を単なる高価な土地として見る別の勢力も現れる。
蓮は、そのどれもが異なる結果をもたらす複数の選択肢を前にすることになる。
売却。
改修。
あるいは、保存。
しかし、蓮が選択を決めるより先に、莉月は誰も想定していなかったものを見つけることになる。




