第34話――「数字の向こう側」
第34話――「数字の向こう側」
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33日目。
午前8時10分。
西園寺インベストメント・グループ、銀座。
会議室の片側にある大きなガラス窓から差し込んだ朝の光が、長いテーブルの上に落ちている。
あまりにも綺麗に磨かれたその表面には、モニターの画面がはっきりと映り込んでいた。
そこに表示されているのは、株価チャートではない。
投資予測でもない。
資金調達先を探している企業の一覧でもなかった。
表示されているのは、たった一つの名前。
黒瀬ホールディングス。
その下には、美雪が何度も目を通した数字が並んでいる。
総資産。
キャッシュフロー。
株主構成。
これまでに買収した企業。
現在も再編段階にある企業。
そして、ヤマト物流の事業運営報告。
美雪はゆっくりと背もたれに身体を預けた。
手にはまだタブレットを持っている。
だが、視線はもう画面の数字を追ってはいなかった。
昨日の会話を思い出している。
「興味があることと、必要としていることは別です」
単純な言葉だった。
あまりにも単純だったからこそ、無視することができない。
普通なら、50億円規模の投資話を持ちかけられれば、一度は立ち止まる。
少なくとも、企業価値について尋ねるだろう。
株式構成。
議決権。
出口戦略。
あるいは、その資金を使って事業拡大を早められないか。
蓮は、そのどれも聞かなかった。
ただ、黒瀬ホールディングスに必要なのかと尋ねただけ。
必要ないと分かった瞬間、蓮の中では答えが出ていた。
駆け引きもない。
企業価値を引き上げようとする素振りもない。
自分のほうが上だと言わんばかりの態度もない。
そこが、美雪の頭から離れなかった。
「美雪様」
テーブルの脇にいた秘書の声に、美雪は顔を上げた。
「はい?」
「分析チームから追加報告が届きました」
新しいデジタルフォルダがタブレットに送られてくる。
美雪はそれを開いた。
「ヤマト物流も?」
「はい。最新の事業運営報告と、黒瀬ホールディングスによる買収前のデータも含まれています」
美雪は最初のページで指を止めた。
ヤマト物流。
この会社は、メディアの注目を集めるような企業ではない。
急成長するIT企業のような華やかさもない。
誰もが知っているような消費者向けブランドを持っているわけでもない。
事業そのものも、どちらかといえば地味だ。
倉庫。
トラック。
配送ルート。
契約。
人員。
燃料費。
車両の維持費。
慎重に管理しなければならない利益率。
だが、だからこそ物流会社はプレゼンテーションだけで取り繕うことが難しい。
数字が良すぎれば、逆に不自然に見える。
そして、本当に健全な企業なら、経営者が現場にいなくても事業は回り続ける。
美雪は画面をスクロールした。
「現場を直接見たい」
秘書がわずかに間を置く。
「ヤマト物流を、ですか?」
「ええ」
「正式な訪問として予定を組みましょうか?」
美雪はタブレットを閉じた。
「大げさにはしなくていい。まずは黒瀬ホールディングスに連絡して。デューデリジェンスの一環として、実際の事業運営を確認したいと伝えて」
「西園寺インベストメント・グループが協業を検討していることも伝えますか?」
美雪は少し考えた。
昨日、蓮は扉を閉めなかった。
だからといって、完全に開いたわけでもない。
「そのまま伝えて」
「承知しました」
秘書が立ち去ろうとしたところで、美雪が付け加える。
「それと、特別扱いは求めないで」
秘書の足が止まった。
「と、いいますと?」
「もし本当にあの会社が強いのなら、普段どおりの仕事を見たいの。西園寺の人間が来ると分かった時だけ、綺麗に見せた状態じゃ意味がないでしょう」
「承知しました」
ドアが閉まる。
美雪は再び画面へ視線を戻した。
黒瀬ホールディングス。
数字は何も変わっていない。
だが今、美雪が見たいのは数字では分からないものだった。
その数字の裏側で働いている人たち。
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午前9時35分。
黒瀬ホールディングス。
机の上に置かれたスマートフォンが震え、高橋健司は届いたばかりのメッセージを確認した。
画面に表示された送信者の名前を見て、眉がわずかに上がる。
西園寺インベストメント・グループ。
内容は短かった。
ヤマト物流への訪問を希望している。
目的は、事業運営に関するデューデリジェンス。
高橋はもう一度読み返した。
そして、小さく息を吐く。
「なるほど」
それほど驚きはしなかった。
昨日の面談を考えれば、その可能性は十分にあった。
ただ、思っていたより早い。
高橋は先に蓮へ連絡を入れた。
ほどなくして電話が繋がる。
「はい?」
蓮の声はいつもどおり落ち着いていた。
「黒瀬さん。先ほど、西園寺インベストメント・グループから依頼がありました」
「何についてですか?」
「ヤマト物流への訪問です。正式な監査ではありません。今後の協業の可能性を検討する前段階として、デューデリジェンスの一環で現場を確認したいとのことです」
短い沈黙。
「いいですよ」
あまりにも早い返事だったため、高橋は一瞬、画面を見直した。
「問題ありませんか?」
「何で問題があるんです?」
「こちらの事業運営を、直接見られることになります」
「俺たちが実際に持っている会社を見てもらうんですよね。それなら、一度の訪問のために良く見せるより、そのほうがいいでしょう」
高橋は薄く笑った。
いかにも蓮らしい。
「私もそう思います。ただ、一つだけ」
「何ですか?」
「社員の業務を邪魔しないようにしたいと思っています」
「現場に影響が出ないように時間を調整してください」
「承知しました」
高橋はメモを取る。
「西園寺さん本人が来られます」
そこで初めて、蓮の声がほんの少しだけ止まった。
「そうですか」
「ご一緒されますか?」
「いや」
返事は変わらず落ち着いている。
「俺が行けば、向こうは俺に見せたいものを見ることになる。現場の人間と直接話してもらったほうがいいと思います」
高橋はデスクを見つめた。
確かに、そのほうが自然だ。
そして同時に、一つのことに気づく。
蓮は、検査の結果を自分でコントロールしようとしていない。
相手に、自分の目で見させるつもりなのだ。
「承知しました。ヤマトと調整します」
「高橋」
「はい」
「もし問題が見つかったら、隠さないでください」
高橋は一瞬黙った。
「……よろしいのですか?」
「問題があるなら、遅かれ早かれ見つかるでしょう。だったら今のほうがいい」
通話が切れる。
高橋はスマートフォンを机に置いた。
そして、パソコンに開いたヤマト物流の報告書へ視線を向ける。
蓮の会社経営には、妙なところがある。
金を持っているからではない。
むしろ、金をあらゆる問題の答えとして使っていないことだった。
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午後1時20分。
ヤマト物流。
一行が到着して数分後、美雪が車から降りた。
赤い絨毯もない。
整列して出迎える社員もいない。
西園寺インベストメント・グループと大きく書かれた看板もない。
そこにあるのは、外から見れば、ごく普通の物流会社の事業所だった。
何台ものトラックがゲートを出入りしている。
荷捌き場からエンジン音が聞こえる。
安全ベストを着た作業員が、タブレットを片手に足早に歩いていく。
その反対側では、二台の車両が点検の順番を待っていた。
美雪は入口の前で数秒立ち止まった。
正直に言えば、ここには普段の投資先で見るような華やかさはない。
だが、それは問題ではなかった。
むしろ、少し呼吸がしやすい。
「西園寺さん」
40代ほどの男性が近づいてきた。
「ヤマト物流の中島博です。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
美雪は軽く頭を下げる。
「こちらこそ、受け入れていただいてありがとうございます。本日は、実際の業務を直接見せていただきたいと思っています」
「もちろんです。黒瀬ホールディングスからも、現場の業務に支障が出ない範囲で、できる限り案内するよう指示を受けています」
「それで十分です。特別扱いは必要ありません」
中島が小さく笑った。
「そのように伺っています」
美雪は彼を見る。
「どなたから?」
「高橋さんです。見たいものがあるなら、そのまま実際の状態を見せればいいと」
美雪は、思わず笑みを浮かべそうになった。
やはり。
蓮なら、そう言うだろう。
「それなら、少しお手数をおかけします」
「どうぞ。報告書だけを見るより、実際に見ていただいたほうが私も楽です」
二人は歩き始めた。
最初に向かったのは倉庫だった。
大きな扉が開いているため、外気とともに段ボールやゴム、そしてわずかな燃料の匂いが混ざっている。
乱れてはいない。
だからといって、完璧に整えられているわけでもない。
決められた場所にはパレットが整然と並べられている。
床には区画線。
何人かの作業員がハンディ端末でバーコードを読み取っている。
その横では、年配の作業員が若い社員に指示を出していた。
美雪は足を止める。
「ここで働いている方々は、平均してどのくらい勤めているんですか?」
中島は少し考える。
「人によって違います。ただ、5年以上の社員は多いです。10年以上になると、さらに限られますが、それでも何人かいます」
「買収後、大きな人員の入れ替えは?」
「ありません」
迷いのない答えだった。
「黒瀬ホールディングスから、人員削減を買収条件として求められたことはありません」
美雪が振り返る。
「まったく?」
「強制的な形ではありません。組織変更に伴って一部の配置を見直したことはありますが、数字を改善するためだけに社員数を減らせという指示はありませんでした」
美雪は再び倉庫を見る。
書類の上では、その判断は積極的ではないと評価されるかもしれない。
投資家向けのプレゼンテーションなら、保守的と表現される可能性もある。
だが、現場では意味が違う。
10年間この会社で働いている人間は、単なる人件費の数字ではない。
配送ルートを知っている。
顧客を知っている。
倉庫の癖を知っている。
特定の車両が抱える問題も知っている。
どの手順が本当に機能して、どの手順が書類の上だけで綺麗に見えるのかも知っている。
美雪にも、それは分かる。
「黒瀬さんは、ここへ来たことが?」
中島が頷く。
「何度かあります」
「頻繁に?」
「いえ、そこまででは」
美雪は続きを待った。
中島が薄く笑う。
「ただ、来る時も大人数ではありません。だいたい高橋さんか、会社の人間が一人一緒にいるくらいです」
「ここでは何を?」
その質問は自然に口から出た。
中島は少し考える。
「見ています」
「見る?」
「はい。あまり話しません。以前、荷捌き場の近くにしばらく立っていたことがありました。それから、監督者に、なぜ片方のラインだけ他より遅いのかと聞いていました」
美雪は彼を見る。
「その答えは?」
「何台かの車両の到着時間に問題があると説明しました。すると黒瀬さんは、すぐに解決策を出そうとはしませんでした。一週間分のデータを先に集めて、そのうえで車両の問題なのか、スケジュールの問題なのか判断しよう、と」
美雪は黙った。
派手な行動ではない。
大きな決断でもない。
何十億円という数字が動いたわけでもない。
だが、会社を維持するのは、むしろこういう行動なのかもしれない。
問題を聞いてから、決断する。
「データを集めた後は?」
「実際には、主な原因は車両ではありませんでした。特定の時間帯にスケジュールが詰まりすぎていたんです」
「それで?」
「スケジュールを変更しました」
美雪はゆっくりと頷いた。
単純だ。
だが、的確だった。
彼女は、作業員が商品を読み取っている小さな画面へ再び視線を向ける。
昨日までは、黒瀬ホールディングスの経営者を理解しようとしていた。
今日は、その男が所有する会社を見ている。
そこには違いがあった。
蓮は、ただ偶然に大きな資産を手に入れた青年ではない。
少なくとも、目の前の証拠はそう示し始めている。
だが、美雪はまだ結論を出したくなかった。
一度の訪問だけでは足りない。
人間は、自分の最初の予想と偶然一致した情報だけを拾って判断してしまう。
黒瀬ホールディングスを正しく評価したいのなら、彼女が探すべきなのは都合のいい情報ではない。
むしろ、合わない部分だ。
仮説を裏付けるものだけではない。
「中島さん」
「はい」
「あなたが一番管理しにくいと思っている場所を見せてください」
中島が少し驚いた。
「一番良いところではなく?」
「一番良いところは、あまり必要ありません。どの会社でも良いところは見せられます」
美雪は真っ直ぐに彼を見る。
「あなたが一番時間を取られているところを知りたいんです」
中島は数秒黙った。
やがて、その笑みが変わる。
少し真剣なものになった。
「それなら、心当たりがあります」
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午後2時05分。
二人はヤマト物流の運行管理室にいた。
正面の壁には、何枚ものモニターが並んでいる。
車両のルート。
配送状況。
車両位置。
出発時刻。
到着予定時刻。
いくつもの数字がリアルタイムで動いている。
美雪は、その中の一つに表示された地域配送網を見つめた。
すべてが完璧に動いているわけではない。
利益率の低いルートがいくつかある。
配送量はそれほど多くないにもかかわらず、比較的多くの運用時間を必要とする地域もあった。
「ここです」
中島が一つの地域を指す。
「この地域ルートですか?」
「はい」
「利益率が低い」
「その通りです」
「それでも残している理由は?」
中島は息を吐く。
「顧客との関係です」
美雪はすぐには答えなかった。
「長期契約ですか?」
「一部はそうです。何年もこのルートを利用している昔からのお客様もいます。数字だけを見れば、やめたほうが効率は良く見えます。ただ、取引関係への影響はかなり大きい」
美雪はモニターへ近づく。
「全体の売上に対する割合は?」
中島が数字を答える。
美雪はすぐに記憶した。
大きくはない。
だが、無視できるほど小さくもない。
「黒瀬ホールディングスも把握していますか?」
「もちろんです」
「それでも、このルートを残している?」
「今のところは」
その答えが気になった。
「なぜ?」
「一つの期間の利益率だけを見て、何かを切るという判断はまだしていないからです」
美雪が振り向く。
「誰がそう言ったんですか?」
「高橋さんです」
その名前に、美雪は頷いた。
なるほど。
黒瀬ホールディングスには、企業を買収できるだけの資金がある。
だが、利益率の低いルートを残していることから見えるものは、それとは違う。
彼らは観察している。
短期的な数字を最大化することだけを考えているわけではない。
美雪はタブレットにいくつかの項目を書き込む。
そして尋ねた。
「では、現在のヤマトにとって最大のリスクは何ですか?」
中島はすぐには答えなかった。
画面を見る。
それから、美雪を見る。
「いくつかあります」
「その中で、一番大きいものを」
「古い契約です」
美雪が顔を上げる。
「古い契約?」
「はい。今交渉している新しい契約ではありません。黒瀬ホールディングスが買収する前に締結された、いくつかの地域契約です。料金体系と責任分担がかなり複雑でして。これまで大きな問題になっていなかったので、そのまま続いています」
美雪は画面の数字を見る。
「それをリスクだと?」
「注意しておくべきものだと考えています。必ず問題になるとは限りません」
慎重な答えだった。
美雪はその姿勢を評価した。
「黒瀬ホールディングスは、すでに把握していますか?」
「本社がどこまで詳細に検討しているかは分かりません。ただ、書類そのものは買収時の資料に入っています」
美雪はそれ以上、尋ねなかった。
まだだ。
彼女は代わりに、一つの文章を書き留める。
旧契約――地域契約――料金体系――現時点では大きな問題なし。
何かがある。
まだ弱点と呼ぶには足りない。
だが、確認する価値はある。
「中島さん」
「はい」
「もし、その契約が突然問題になった場合、最も大きな影響は?」
中島はしばらく画面を見つめた。
「どちらかが料金の見直しを強く求めてきた場合、いくつかのルートで利益率が圧迫される可能性があります。さらに配送量まで減れば、影響はもっと大きくなります」
美雪は頷いた。
「分かりました」
それ以上は何も言わなかった。
だが、頭の中では一つのことが形になり始めていた。
黒瀬ホールディングスは、確かに強い。
だが、強いことと弱点がないことは同じではない。
むしろ、成長したばかりの企業には、旧体制から引き継いだまま手をつけていない構造が残っていることがある。
蓮は会社を買った。
事業を維持した。
社員も残した。
いくつかの部分を改善した。
だが、所有者の名前が変わったからといって、古い問題まで消えるわけではない。
だからこそ、デューデリジェンスが重要なのだ。
数字は状態を示す。
現場は習慣を示す。
書類は義務を示す。
そして、その三つが必ずしも同じことを語るとは限らない。
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午後3時20分。
美雪はヤマト物流の小さな会議室へ戻っていた。
いくつかの資料が用意されている。
彼女は事業報告書を開いた。
特に驚くようなものはない。
売上。
コスト。
保有車両数。
生産性。
稼働率。
どれも黒瀬ホールディングスの報告と大きく矛盾していない。
本社の数字と現場の実態との間に、大きな乖離もない。
美雪は一つのページで手を止めた。
買収前と買収後のデータを比較する。
変化は劇的ではない。
だが、方向性は一貫している。
いくつかのコストが下がっている。
配送ルートの効率が上がっている。
キャッシュフローも改善している。
そして最も興味深いのは――
社員数に大きな削減がないことだった。
美雪はタブレットを机に置いた。
「……ただ買っただけじゃない」
小さく呟く。
後ろに座っている秘書には聞こえていない。
美雪自身も、言葉が口から出たことに気づいていなかった。
昨日までは、蓮を巨額の資金を持ち、投資家を必要としていない人物として見ていた。
今日、その印象が少し変わった。
金持ちの青年。
そんな呼び方では浅すぎる。
もっと正確に言うなら――
自分自身よりも遥かに大きなものを、学びながら経営している企業オーナー。
それでも、まだ完全ではない。
なぜなら、蓮は自分の存在を証明しようとしているようには見えないからだ。
そこが奇妙だった。
大きな立場を手に入れたばかりの人間なら、自分がそこにいる資格があると示そうとすることが多い。
だが蓮は、むしろそれを見せようとしていない。
大人数を連れて現場へ来ることもない。
自分が来た痕跡を残すためだけに、組織を一気に変えることもしない。
古くから働く人間を無理に追い出すこともない。
あらゆる問題を金で解決しようともしない。
そして昨日、50億円を提示されても――
必要ない、と言った。
美雪は小さく笑った。
「……本当に、面倒な人ね」
悪い意味ではない。
むしろ、一般的な人間の行動パターンから読みづらいという意味だった。
その時、スマートフォンが震える。
秘書からのメッセージ。
黒瀬ホールディングスから追加資料を受領しました。
美雪は開いた。
さらに確認できる書類の一覧が表示されている。
先ほど中島が話していた地域契約の名前があった。
美雪は添付ファイルを開く。
視線がページをゆっくり追っていく。
料金。
最低取扱量。
調整条件。
車両責任。
費用分担。
更新条項。
美雪の指が止まった。
眉がわずかに寄る。
数字が大きいからではない。
むしろ、普通に見える数字だった。
だが、条項の構造を見ると、市場環境が変わった場合に問題を引き起こす可能性がある。
もう一度読む。
次の資料を開く。
さらに古い日付。
黒瀬ホールディングスが買収する前のものだ。
美雪は椅子に深く身体を預ける。
なるほど。
これは旧会社から引き継いだものだ。
まだ問題にはなっていない。
だが、その可能性はある。
そして、もし相手側がこの契約をここ数年よりも細かく読み込めば、交渉上の立場が変わる可能性もある。
美雪は、黒瀬ホールディングスが危険な状況にあるとは結論づけなかった。
むしろ、少し安心した。
すべてが完璧なら、今回のデューデリジェンスに意味はない。
彼女はスマートフォンを手に取った。
秘書へメッセージを打ち込む。
ヤマト物流に関する過去3年間の地域契約をすべて出して。料金条項、最低取扱量、解除条件を重点的に確認して。先方にはまだ連絡しないで。
送信。
美雪は画面を消した。
窓の外では、何台ものトラックが再び倉庫を出ていく。
何も変わったようには見えない。
だが今の美雪には分かる。
一台の車両の裏側には、契約がある。
契約の裏側には、義務がある。
そして売上という数字の裏側には、企業が安定しているかどうかを左右する小さな判断がいくつも存在している。
美雪は立ち上がった。
「帰りましょう」
秘書が頷く。
「ヤマトについて、どのように評価されますか?」
美雪はドアを開ける前に足を止めた。
簡単な質問だった。
だが、答えるには少し考える必要があった。
「思っていたより健全な会社です」
「黒瀬ホールディングスのおかげですか?」
美雪はゆっくり首を横に振る。
「それだけじゃないわ」
中島がスケジュールの変更について説明していた時のことを思い出す。
社員たちが、不安そうな様子もなく自分の仕事を続けていたこと。
管理側が問題を隠そうとせず、そのまま話していたこと。
そして何より――
蓮が、自分たちに見せるものをコントロールしようとしなかったこと。
「完璧に見せようとしていないからよ」
秘書が少しの間、美雪を見る。
「では、黒瀬さんは?」
美雪はすぐには答えなかった。
昨日、向かいの席で静かに座っていた男。
50億円の投資を受け入れなかった男。
「興味があることと、必要としていることは別だ」と言った男。
そして今日、自分が会社を見ている間、一度も姿を現さなかった男。
美雪はようやくドアを開ける。
「まだ判断できるほど、知っているわけじゃないわ」
一歩、外へ出る。
そして、少しだけ声を落として続けた。
「だから、もう少し見てみたいの」
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午後6時40分。
黒瀬ホールディングス。
終業時刻が近づいた頃、高橋のもとへ訪問報告が届いた。
高橋は、ほとんど表情を変えずにそれを読む。
ヤマトは健全。
事業運営は安定。
社員の定着率も問題なし。
初期調査では、重大な不整合も確認されていない。
ただ、一つだけ記載があった。
旧地域配送契約について、追加確認が必要。
高橋の手が止まる。
添付資料を開く。
該当箇所を読む。
そして、背もたれへ身体を預けた。
「……見つけましたか」
驚くことではない。
その書類は確かに存在している。
ただ、これまで優先順位が高くなかっただけだ。
高橋はスマートフォンを手に取る。
蓮へ連絡しようとして、指を止めた。
そして、まず短いメッセージを送ることにした。
黒瀬さん、西園寺インベストメント・グループがヤマトへの初回訪問を終えました。全体として、事業運営は健全と評価されています。ただ、旧地域契約の一部について、追加確認が必要とのことです。
送信。
一分もしないうちに返信が来る。
明日、書類を見よう。
高橋は薄く笑った。
それだけだった。
慌てる様子もない。
西園寺が手を引くかどうかを尋ねることもない。
何かを隠すよう求めることもない。
高橋は返信を打つ。
承知しました。すべての資料を準備します。
数秒後、再びスマートフォンが震える。
本当に問題があるなら、直せばいい。
高橋は、その一文を二度読んだ。
そしてスマートフォンを置く。
単純な言葉だった。
だが、蓮と長く仕事をしているほど分かってくる。
この男は、いつもそうなのだ。
問題を必要以上に大きくすることはない。
だが、存在しないことにすることもしない。
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午後9時15分。
西園寺家。
美雪は一人、仕事部屋に座っていた。
ジャケットはすでに脱いでいる。
髪も、オフィスにいる時より少しだけ緩くまとめられていた。
机の上にはタブレットといくつかの資料。
そして、ほとんど口をつけていない一杯の茶。
ヤマトの報告書が開かれている。
だが、美雪の意識はもう、完全にそこにはなかった。
再び昨日の会話へ戻る。
「考えておきます」
蓮は「はい」とも言わなかった。
「いいえ」とも言わなかった。
ただ情報を受け取り、自分の中にしまった。
本来なら、ごく普通のビジネス上の会話だった。
それなのに今、美雪はその会話が少し違っていた理由を理解し始めていた。
蓮は交渉に勝とうとしていたわけではない。
ただ、自分に必要なものだけを基準に判断していた。
それ以上でも、それ以下でもない。
美雪は画面を見つめる。
そして再び地域契約の項目を開く。
先ほど印をつけた条項。
ゆっくり読む。
一度。
二度。
それからペンを取った。
何かが合わない。
契約内容そのものではない。
時間だ。
その契約が作られた時期。
黒瀬ホールディングスが参入する前。
契約当初の料金設定は、当時の状況なら妥当だった。
だが、市場環境は変わった。
運営コストも変わった。
燃料価格も変わった。
配送量も変わった。
もし一方の当事者が、特定の調整条項を利用した場合――
ヤマトの立場が不利になる可能性がある。
必ず起きるわけではない。
だが、その可能性は現実に存在する。
美雪は資料を閉じた。
もう笑ってはいなかった。
これは、単なる黒瀬ホールディングスへの興味ではない。
本当の意味での企業評価の一部になっている。
そして、黒瀬蓮という名前が再び彼女の前に現れてから初めて、美雪は数字の裏側に何かがあることを実感した。
秘密ではない。
陰謀でもない。
ただ、過去の判断によって残された、まだ解決していない結果。
美雪はスマートフォンを手に取る。
秘書の連絡先を開く。
そして、一通のメッセージを入力した。
明日の朝、ヤマト物流の地域契約について、過去の履歴をすべて出して。買収前の資料も含めて。
指が一瞬止まる。
そして、もう一文を加えた。
それと、私たちが弱点を探しているとはヤマト側に伝えないで。あくまで追加確認を行っていると伝えて。
送信。
美雪はスマートフォンを机に置いた。
部屋が再び静かになる。
彼女は窓に映る自分の姿を見つめる。
昨日は、大きな資本を持つ経営者を理解するためにここへ来た。
今日は、一つの企業を見つけた。
そして、その企業の裏側には――
いつか新たな問題になるかもしれない、古い問題が残っている。
美雪は最後の資料を手に取った。
視線が一つの名前で止まる。
ヤマト物流。
そして、頭の中に別の名前が浮かぶ。
黒瀬蓮。
初めて、その二つが別々のものには感じられなかった。
もし蓮が本当に黒瀬ホールディングスを長期的に育てようとしているのなら、財務諸表に表れるほど大きくなっていないからという理由だけで、こうした小さな問題を放置することはできない。
そして、もし彼がそれを直そうとするのなら――
美雪は、その方法を見てみたいと思った。
金をどう使うのかではない。
どう判断するのかを。
なぜなら、そこにこそ、本当の意味で企業オーナーの価値が表れるのかもしれない。
どれだけ多くの資産を持っているかではない。
数字が思い通りに動かなくなった時、何をするのか。
それこそが重要なのだから。
机の上では、タブレットの画面がまだ点いている。
開かれた一つの資料。
古い一つの条項。
一つの問題の可能性。
そして、まだ答えのない問い。
もし、この問題が本当に表面化したら、黒瀬ホールディングスは金で解決するのか――それとも、問題の根本から直すのか?
美雪はタブレットを閉じた。
明日になれば、もう少し分かる。
そして本人も気づかないまま、最初は一つの企業を評価するためだけだったデューデリジェンスが、その経営者をさらに観察し続ける新しい理由へと変わっていた。
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第35話――「買うだけでは、会社は変わらない」




