第33話「断る理由は、十分にある」
第33話「断る理由は、十分にある」
32日目。
午前6時17分。
赤坂レジデンス1203号室。
蓮は、アラームが鳴る数分前に目を覚ました。
何かの音がしたわけではない。
ただ、毎日ほとんど同じ時間に起きることに、身体が慣れていた。
ベッド脇のテーブルへ手を伸ばし、まだ鳴っていないアラームを止める。
そして、しばらく天井を見つめた。
32日目。
そんな数字が、自然と頭に浮かんだ。
すべてが始まってから、一か月と二日。
以前なら、そんな数字に何の意味もなかった。
今では、一日が変わるたびに、なぜか新しいページをめくるような感覚がある。
蓮は静かに息を吐いた。
「今日は、西園寺と昼食か」
その名前は、昨日から頭に残っている。
西園寺インベストメント・グループ。
そして、銀座のイベントで一度だけ見かけた女性。
西園寺麗華。
蓮は、彼女について多くを知らない。
だからこそ、これからの面会について深く考えてはいなかった。
会う前に相手のことを調べすぎると、時として目の前にいる人間ではなく、自分で作り上げた人物像を見てしまう。
蓮は、直接見るほうが好きだった。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
朝の光が部屋へ差し込んだ。
東京は、まだ少し白っぽい。
空は完全には晴れていない。
いくつかのビルではすでに明かりが灯り、道路には車が増え始めている。
蓮はキッチンへ向かった。
コーヒーマシンを起動する。
それまで静かだった部屋に、水の音と豆を挽く音が響いた。
待っている間に、スマートフォンを開く。
一件のメッセージが届いていた。
美雪:おはよう。今日は西園寺との面談だよね?
蓮は入力する。
蓮:ああ。
数秒後。
美雪:何を話すか、もう決めた?
蓮はカップを手に取った。
蓮:向こうから呼んだんだ。まずは話を聞く。
美雪からの返事は早かった。
美雪:それが一番安全だと思う。
蓮:安全?
美雪:相手の意図を知らないうちから、結論を決めて行かないってこと。
蓮は薄く笑った。
蓮:断れって言うと思ってた。
美雪:私も、最初はそう思った。
美雪:でも、提案すら聞いていないのに断っても意味がないでしょ。
蓮は数秒、画面を見つめた。
美雪の言う通りだった。
すべてを受け入れる必要はない。
だが、すべてを最後まで聞く前に断る必要もない。
再びスマートフォンが震えた。
静香だった。
静香:今日はあまり遅くまで外にいないでね。
蓮は返信する。
蓮:どうして?
静香:予定が結構詰まってるから。
蓮:自分で調整できる。
静香:知ってる。
静香:だからこそ、自分で調整できるって分かってる人ほど、休む時間を忘れたりするの。
蓮は、そのメッセージを見つめた。
そして入力する。
蓮:二人とも、俺のこと気にしすぎじゃないか。
静香からの返信には、少し時間がかかった。
静香:そうかもね。
続けて、もう一件。
静香:でも、私たち、お互いにそんなに堅くならなくていいって言ったのは蓮でしょ?
蓮は黙った。
確かに。
自分で言ったことだ。
蓮:覚えてる。
静香:なら、よし。
静香:それじゃ、朝ごはん食べてね。
蓮は小さく笑った。
「結局、それか」
スマートフォンを置く。
コーヒーが出来上がっていた。
こうして一日が始まる。
---
午前7時02分。
蓮はクローゼットの前に立っていた。
今日は大きなイベントではない。
ガラディナーでもない。
何百人もの人間が集まる会食でもない。
ただのビジネスランチだ。
だから、目立つ格好をする理由はなかった。
白いシャツ。
シンプルな仕立てのダークカラーのスーツ。
濃い色のネクタイ。
目立ちすぎない腕時計。
余計なアクセサリーはない。
鏡に映った自分を見る。
「これでいい」
車のキーを手に取った。
今日はP9LMではない。
P9LMが合わないわけではない。
むしろ逆だ。
まだ非公式な意味合いの強いビジネスランチなら、Ghost Series II by MANSORYのほうが、今日の空気には合っている。
攻撃的すぎない。
わざわざ注目を集めるために来たようにも見えない。
それでいて、無視するのは難しい存在感がある。
蓮は地下駐車場へ向かった。
エレベーターの扉が開く。
足音が床に反響した。
駐車スペースへ着くと、Ghost Series II by MANSORYがいつもの場所に停まっていた。
蓮は一度立ち止まる。
数日、乗っていない。
「そろそろ乗るか」
ドアを開ける。
乗り込む。
エンジンがかかった。
外見から受ける印象より、はるかに静かな音だった。
蓮は数秒、そのまま座っていた。
迷っているわけではない。
ただ、まだ静かな朝の空気を少し味わっていた。
車を出す。
赤坂レジデンスを出て、
赤坂 → 外堀通り → 六本木 → 青山 → 大学方面。
東京の朝は、少しずつ混み始めている。
信号が変わる。
バスが停まる。
自転車が横切る。
駅へ向かう人々が足早に歩いている。
蓮は片手でハンドルを握る。
大きな音楽は流していない。
聞こえるのはエンジン音と街の音だけ。
西園寺との面会。
蓮は、これまでに分かっていることをもう一度考える。
向こうにはネットワークがある。
名前がある。
資本がある。
アクセスもある。
それは事実だ。
だが、黒瀬ホールディングスに、そのどれかが必要なのか。
答えは変わっていない。
必要ない。
黒瀬ホールディングスには、まだ十分なキャッシュがある。
保有している企業も、外部資本なしで成長させられる。
無理に返済しなければならない借金もない。
短期間で救わなければならないプロジェクトもない。
必要でもないものを手に入れるために、所有権の一部を渡す理由はない。
蓮にとって、話は単純だった。
必要だから買う。
それなら問題ない。
だが、得に見えるからという理由だけで買うのは違う。
投資を受ける場合も同じだ。
「必要ないなら、必要ない」
その判断を長々と正当化する必要があるとは、蓮は思っていなかった。
だからといって、相手を軽視するつもりもない。
断ることと、侮辱することは別だ。
蓮は、相手の面子を潰すことなく「ノー」と言える。
---
午前8時34分。
大学。
蓮はGhost Series II by MANSORYを駐車した。
車から降りると、すぐに田中浩平の姿が目に入った。
浩平は缶コーヒーを手に立っている。
蓮を見るなり、その表情が変わった。
「マジか?」
蓮はドアを閉める。
「何が?」
浩平が後ろのGhostを指差す。
「今日はこっち?」
「ああ」
「なんで?」
「今日はこれに乗りたかったから」
浩平は数秒、蓮を見つめた。
「お前の答え、どんどん普通の人間には使えなくなってるぞ」
「十分分かりやすいと思うけど」
「問題は、普通の人間には大学へ行くためだけにP9LMとGhost Series IIとJeskoから選ぶような選択肢がないってことだ」
蓮はキーをポケットに入れる。
「そう考えると、確かに少し変だな」
「ほら、やっと認めた」
二人は歩き始める。
浩平はまだ後ろを見ていた。
「今日、何かあるのか?」
「昼にビジネスの面談がある」
「誰と?」
「西園寺インベストメント・グループ」
浩平の足が止まった。
「待て」
蓮も立ち止まる。
「何だ?」
「西園寺?」
「ああ」
浩平は、なんとも言えない表情で蓮を見る。
「お前、その一族がかなり大きいって分かってるよな?」
「名前が大きいことくらいは知ってる」
「大きいだけじゃない。投資や不動産、それにいくつかの分野で影響力がある」
蓮は頷く。
「だから向こうから呼ばれたんだろ」
浩平は頭を掻いた。
「誰と会うんだ?」
「西園寺麗華」
「……麗華?」
「ああ」
「知ってるのか?」
「個人的には知らない。経済ニュースで名前を見たことがあるだけだ」
浩平は再び歩き始めた。
「考えてみれば、お前の人生、本当に遠くまで変わったよな。昔は課題と、急に小テストを出す教授の話くらいしかしてなかったのに。今じゃGhostで大学に来て、大手投資一族の話をしてる」
蓮は浩平を見る。
「俺には、まだ小テストがある」
浩平が笑った。
「そこが一番おかしいんだよ」
---
午前11時41分。
黒瀬ホールディングス。
講義を終えた蓮は会社へ到着した。
Ghost Series II by MANSORYはビルの地下駐車場に停めてある。
高橋は会議室で待っていた。
「蓮さん」
「おはよう」
高橋は時計を見る。
「もう昼です」
蓮は頷いた。
「今日はそれをよく言われる」
「どうやら蓮さんは、時間を判断するのに数時間ほど遅れがあるようですね」
蓮は席に座る。
「そうかもな」
高橋が一冊のファイルを差し出した。
「こちらが西園寺インベストメント・グループについての最新資料です」
蓮は開く。
「昨日のは読んだ」
「追加調査後の更新版です」
蓮は数ページを読む。
企業構造。
投資ネットワーク。
複数の関係企業。
ポートフォリオ。
そして、麗華についての項目。
西園寺麗華
Saionji Reika
23歳。
そのページには、仕事用に撮影されたプロフィール写真が掲載されていた。
蓮はすぐに分かった。
銀座のイベントで見かけた女性だ。
穏やかな眼差し。
あの時とほとんど変わらない佇まい。
蓮は数秒、何も言わなかった。
高橋が様子を見る。
「お知り合いですか?」
「見たことがある」
「銀座のイベントで?」
蓮は頷く。
「たぶん、そうだ」
高橋が薄く笑った。
「世間は狭いですね」
「東京も、見た目ほど広くない」
蓮は再び資料を読む。
「彼女が面会を申し込んだのか?」
「はい」
「別の担当者ではなく?」
「本人です」
蓮はファイルを閉じた。
「面白いな」
高橋が眉を上げる。
「どういう意味です?」
「投資の話だけなら、投資部門の人間を寄こせばいい」
高橋が頷く。
「私もそう考えました」
「なら、自分で話したいことがあるんだろう」
「可能性は高いですね」
蓮は立ち上がる。
「会ってみる」
高橋も扉までついてくる。
「蓮さん」
「ああ?」
「差し支えなければ、一つ伺ってもよろしいですか。今回、本当に断るおつもりですか?」
蓮はすぐには答えなかった。
ポケットに手を入れる。
「金だけなら、断る」
高橋は笑った。
「やはり、そうですか」
「でも、聞く前に話を切るつもりはない」
「それは賢明な判断です」
蓮は高橋を見る。
「まだ提案されてもいないものを断るのは、好きじゃないだけだ」
高橋は小さく笑った。
「それも、もっともですね」
---
午後12時18分。
丸の内。
オフィスビルの上層階にあるビジネスレストラン。
蓮は先に到着した。
Ghost Series II by MANSORYをバレーサービスへ預ける。
ロビーへ入る。
大理石の床が照明を反射している。
レストランの前でスタッフが出迎えた。
「黒瀬様でしょうか?」
「はい」
「こちらへどうぞ。西園寺様はすでにお見えになっています」
蓮は一度、足を止めた。
「もう?」
「はい。5分ほど前に」
「分かった」
スタッフについて廊下を進む。
店内はそれほど混んでいない。
多くのテーブルが木製のパネルで仕切られており、隣の席の会話が簡単には聞こえない造りになっている。
ビジネスの話をするにはちょうどいい。
人混みが好きではない人間にとっても。
蓮は個室へ入った。
そこには――
麗華がすでに待っていた。
同じ女性だ。
ただ、銀座で初めて見た時とは空気が違う。
あの時、麗華は大勢の中の一人だった。
今は二人しかいない。
麗華が立ち上がる。
「黒瀬さん」
声は穏やかだった。
堅すぎない。
かといって、親しげに作っているわけでもない。
蓮も軽く頭を下げる。
「西園寺さん」
二人の目が合う。
数秒。
麗華が薄く笑った。
「ようやく、直接お話しできますね」
「そうみたいだな」
「会社の方を一緒に連れてくると思っていました」
「俺も少し考えた。でも、何を話したいのか、自分で聞いてみたかった」
麗華が席を勧める。
「それなら、私たちは同じ理由ですね」
蓮が座る。
「そうかもな」
麗華はメニューを手に取った。
「何を飲みますか?」
「コーヒー」
「ブラック?」
「ああ」
麗華はスタッフを見る。
「黒瀬さんにはブラックコーヒーを。私は緑茶でお願いします」
「かしこまりました、西園寺様」
スタッフが去る。
短い沈黙。
気まずい沈黙ではない。
互いに距離を測っているような沈黙だった。
麗華が口を開く。
「今日は来てくださってありがとうございます」
「別に」
「では、さっそく本題に入ります」
蓮は頷く。
「どうぞ」
麗華は両手をテーブルの上に置いた。
「ミウラ・キャピタルが、黒瀬ホールディングスに50億円で10%の株式取得を提案していることは把握しています」
「そうだな」
「そして、まだ受けていない」
「まだな」
「理由を伺っても?」
蓮は麗華を見る。
質問は単純だった。
だが、その聞き方は弱点を探しているようには聞こえない。
本当に知りたいだけなのだろう。
「金が必要ないから」
麗華はすぐには答えなかった。
「とても単純な理由ですね」
「単純だ」
「でも、多くの企業は追加資本には常に意味があると言うでしょう」
「役に立つことと、必要なことは別だ」
麗華が小さく笑う。
「同感です」
蓮は少し意外そうに見る。
「そう思うのか?」
「ええ。そうでなければ、次の質問をする意味がありませんから」
麗華はスタッフが置いた湯呑みに手を伸ばす。
「では、質問を変えます」
蓮を見る。
「西園寺家が提供できる利益や価値に、興味はありませんか?」
蓮はすぐには答えなかった。
麗華の表情を見る。
挑発するような調子はない。
試すような笑みもない。
ただ、蓮がどう考える人間なのかを知りたいようだった。
蓮は答える。
「興味があることと、必要としていることは違う」
麗華の手が止まった。
瞳の色が、ほんの少し変わる。
驚いたわけではない。
むしろ、聞きたかった答えを得た人間のようだった。
「……それは、面白い答えですね」
「普通だと思うけどな」
「あなたにとっては、そうでしょうね。でも、多くの人は、機会があればアクセスそのものをすぐ手に入れようとします」
「手に入るからって全部取ってたら、本当に必要なものが分からなくなる」
麗華が微笑む。
「つまり、少ないほうを選ぶ人なんですね」
「合理的なものを選んでいるだけだ」
「その二つは、よく矛盾しませんか?」
「時々な」
蓮はコーヒーを持ち上げる。
「でも、待つことは苦じゃない」
麗華はしばらく蓮を見つめた。
蓮は、あることに気づき始めていた。
この女性は、沈黙を埋めるために話すタイプではない。
質問の一つ一つに目的がある。
適当に投げているわけではない。
方向がある。
だからこそ、蓮は答えを急がないほうがいいと判断した。
怖いからではない。
まだ形の分からない交渉に、会話を変えてしまいたくないだけだ。
麗華が湯呑みを置く。
「では、もう少し明確にお話しします」
「どうぞ」
「西園寺家は、黒瀬ホールディングスの10%を買いに来たわけではありません」
蓮が眉を上げる。
「違うのか?」
「少なくとも、今は」
「なら、何を?」
「協力関係を築く可能性を開いておきたいんです」
蓮は少し背もたれに身体を預ける。
「どんな形で?」
「蓮さんが必要とするもの次第です」
「それじゃ広すぎる」
麗華が笑う。
「意図的に広くしています。最初から具体的すぎる提案を持ってきたら、実際には存在しない問題を私が勝手に解決しようとしているかもしれませんから」
蓮は黙った。
今度は、すぐには答えなかった。
筋は通っている。
それを、蓮は認めたくなかった。
麗華が続ける。
「私たちには物流網、投資会社、いくつかの金融機関との関係、それに不動産分野へのアクセスがあります。黒瀬ホールディングスにとって役に立つ可能性はあります」
「可能性はな」
「必要かどうかは、まだ分からない?」
「役に立たないとは言ってない。必要かどうか、まだ分からないと言ってる」
麗華はまた笑った。
「一貫していますね」
「よく言われる」
「批判ではありません」
「俺も批判だとは思ってない」
初めて、麗華が小さく笑った。
形式的な笑いではない。
仕事用の笑顔でもない。
ただ、蓮の返答に対する自然な反応だった。
蓮は一瞬だけ、その表情を見た。
笑った時の顔には、報告書のプロフィール写真よりも人間らしい柔らかさがある。
だが、蓮はすぐにカップへ視線を戻した。
考える必要はない。
今日の面会は、あくまでビジネスだ。
麗華は再び落ち着いた表情に戻る。
「具体例を一つ出します」
「どうぞ」
「たとえば、黒瀬ホールディングスがヤマト物流を特定の地域へ拡大するとします。その場合、私たちなら、これまで接点を持つのが難しかった物流会社や地域のパートナーへのアクセスを支援できるかもしれません」
蓮はゆっくり頷く。
「それは確かに役に立つかもしれない」
「あるいは、いつか物流施設のための不動産案件が必要になった場合、物件探しや交渉を早めるためのネットワークもあります」
「それも役には立つ」
「でも、まだ『はい』とは言わないんですね」
「まだ案件がないからな」
麗華は笑いを堪えるようにした。
「なるほど」
蓮はコーヒーを飲む。
「雨が降る前に傘を買うつもりはない」
麗華は蓮を見る。
「分かりやすい例えですね」
「例えは、あまり得意じゃない」
「だからこそ分かりやすいんです」
蓮には、それが褒め言葉なのか分からなかった。
だが、答える必要もない。
麗華は薄いファイルを開く。
「関連する可能性のあるネットワーク情報をいくつか持ってきました。ここに投資提案はありません」
ファイルがテーブルの中央へ置かれる。
蓮はすぐには手を伸ばさない。
「持ち帰っても?」
「もちろんです」
「なら、戻ってから読む」
「今は開かないんですか?」
「今開いたら、まだ必要かどうか分からないものについて時間を使うことになる」
麗華は蓮を見る。
そして微笑んだ。
「あなたの考え方が、少し分かってきました」
「俺自身、たまに分からないけどな」
麗華がまた小さく笑う。
「企業オーナーから、そんな言葉を聞いたのは初めてです」
「自分を企業オーナーって呼ぶのは、あまり好きじゃない」
「実際にオーナーでしょう?」
「それを意識しすぎると、大学へ行くのが面倒になる」
麗華は数秒、蓮を見つめた。
そして、今度は本当に笑った。
「……それは、なかなか信じられませんね」
「何が?」
「何十億円規模の資産を持つ企業のオーナーなら、もっと野心的なことを言うと思っていました」
「俺はまだ大学生だから」
「それは、私が予想していた答えではありません」
「でも、事実だ」
空気が少しだけ軽くなる。
だが、話は終わっていない。
麗華はファイルを閉じた。
「黒瀬さん」
「何?」
「投資とは関係のないことを一つ聞いてもいいですか?」
蓮が顔を上げる。
「何だ?」
「銀座のあの時……私のこと、覚えていましたか?」
蓮は少し黙った。
予想していなかった質問だ。
だが、答え自体は簡単だった。
「今なら思い出した」
「今なら?」
「あの時は、ちらっと見ただけだったから」
麗華は頷いた。
「私もそうでした」
「なら、お互い様だ」
麗華が微笑む。
「それを、お互い様と言うのかは分かりません」
「どうして?」
「私は、あなたのことをかなりはっきり覚えていたので」
蓮が少し眉を寄せる。
「どうして?」
麗華はすぐには答えなかった。
読みにくい表情で蓮を見る。
「会場にいた人の中で、あなたは唯一、そこにいたくなさそうに見えたから」
蓮は黙った。
そして、小さく息を吐く。
「そういう場所は、あまり好きじゃない」
「知っています」
「どうして分かる?」
「顔に出ていましたから」
蓮は麗華を見る。
「それ、いい知らせじゃないな」
麗華が小さく笑う。
「私にとっては、分かりやすくて助かりました」
短い間。
蓮は目の前の女性を見る。
今になって、報告書だけから作っていた麗華の人物像とは違うことが分かってきた。
冷たいわけではない。
かといって、馴れ馴れしいわけでもない。
ただ、話すべき時と、相手に考えさせる時を理解している。
そして何より――
簡単には引かない。
蓮が一つの扉を閉めれば、麗華はそのまま立ち去るのではなく、別の扉を探す。
「なら、俺も正直に言う」
麗華が頷く。
「どうぞ」
「今、西園寺からの投資は受けない」
その言葉に強さはなかった。
だが、明確だった。
誤解の余地もない。
麗華は蓮を見る。
「資本の問題ですか?」
「外部資本が必要ないから」
「分かりました」
「それが今回の面会の主目的なら、もう終わりだ」
麗華は、むしろ微笑んだ。
「まだです」
蓮が眉を上げる。
「まだ?」
「あなたがそう言うことは、予想していました」
「なら、どうして来た?」
麗華は蓮の目をまっすぐ見る。
「私は、あなたの株を買いに来たわけではありません」
先ほどのファイルを、少しだけ蓮のほうへ押し出す。
「いつか、自分だけでは短時間で手に入れられないものが必要になった時、叩ける扉がある。そのことを知ってもらいに来たんです」
蓮はファイルを見る。
今度は、それを手に取った。
「考えておく」
麗華が微笑む。
大きくはない。
だが、その答えに満足していることは十分に分かった。
「それなら、直接断られるよりずっといいですね」
蓮は麗華を見る。
「協力するとは言ってない」
「分かっています」
「それなのに、なぜ満足そうなんだ?」
「今は、その可能性を考えてくれるようになったからです」
蓮は息を吐く。
「簡単には諦めないんだな」
「投資の仕事ですから。一度断られただけで諦めるなら、そもそも仕事を選び間違えています」
蓮は黙った。
筋が通っている。
あまりにも筋が通っている。
コーヒーを飲み終え、蓮は立ち上がる。
麗華も立った。
「今日はありがとうございました、黒瀬さん」
「こちらこそ」
「昼食、退屈ではありませんでしたか?」
蓮は残った茶とコーヒーを見る。
「いや。十分面白かった」
麗華が笑う。
「褒め言葉として受け取っておきます」
二人は個室を出る。
廊下を歩いていると、麗華が声をかけた。
「黒瀬さん」
蓮が足を止める。
「何?」
「次にGhost Series IIを乗ってくる時は、裏口から入ったほうがいいかもしれません」
蓮が眉を寄せる。
「なぜ?」
「さっき、入口のスタッフが何人か話していました」
蓮は小さく息を吐く。
「P9LMにすればよかったな」
麗華が笑う。
「つまり、あの車のほうが目立つことは分かっているんですね?」
「分かってる。ただ、今日は乗りたかった」
「なるほど」
二人はロビーへ到着した。
蓮が足を止める。
「西園寺さん」
「はい?」
「次に話があるなら、高橋を通してくれ」
「分かりました」
麗華は蓮をしばらく見つめる。
「でも、私から直接お話ししたい時は?」
蓮は少し考える。
「内容次第だな」
「難しい答えですね」
「簡単な答えを出すのは、あまり得意じゃない」
麗華は微笑んだ。
「覚えておきます」
蓮はそのまま出口へ向かった。
振り返らない。
冷たく振る舞いたいわけではない。
ただ、話は終わったと思っただけだ。
だが、数歩進んだところで、一つの考えが浮かぶ。
あの女性は、なかなか読みにくい。
多くは話さない。
無理強いもしない。
それでも蓮が話を終わらせようとするたび、必ず一つの言葉を残していく。
それが交渉術なのか。
それとも、もともとの性格なのか。
おそらく、両方なのだろう。
ビルの外では、Ghost Series II by MANSORYが待っていた。
蓮はバレー係からキーを受け取る。
ドアを開ける。
乗り込む前、無意識にガラスへ映った自分の姿を見た。
「投資は受けない」
その判断は変わらない。
ただ、一つだけ変わったことがある。
西園寺は、単純に金を提供しているわけではない。
彼らが提供しているのは、アクセスだ。
そして、アクセスは資本とは違う。
蓮は車へ乗り込んだ。
エンジンがかかる。
丸の内 → 日比谷通り → 六本木 → 赤坂。
帰路は、行きよりも静かに感じられた。
麗華から渡されたファイルが助手席にある。
蓮は一度だけ、それを見る。
すぐに開かなければならない理由はない。
無理に読むほど気になっているわけでもない。
だが、捨てる必要もない。
「考えておく、か」
先ほど口にした言葉が、再び頭に浮かぶ。
蓮は薄く笑った。
麗華が、その言葉の意味を理解していることは分かっていた。
約束ではない。
同意でもない。
だが、拒絶でもない。
そして、麗華のような人間にとって――
それで十分なのかもしれない。
---
午後3時42分。
黒瀬ホールディングス。
蓮はファイルを持って高橋の執務室へ入った。
高橋はすぐに気づいた。
「どうでした?」
蓮はファイルを机に置く。
「投資は断った」
高橋は頷く。
「予想通りですね」
「ただ、別のものを提案された」
「何を?」
「ネットワークへのアクセス。物流、不動産、それにいくつかの投資関係だ」
高橋がファイルを開く。
「なるほど」
一ページ目を読む。
「普通の提案ではありませんね」
「俺もそう思う」
「我々には必要だと思いますか?」
蓮は座る。
「まだ分からない」
高橋が蓮を見る。
「ですが、持ち帰った」
「いつか使えるかもしれないからな」
高橋が小さく笑う。
「それなら、面会は無駄ではなかったということですね」
蓮は椅子に身体を預ける。
「ああ」
窓の外を見る。
今日の面会で、金が増えたわけではない。
株式が動いたわけでもない。
契約書に署名したわけでもない。
数字だけを見れば、ほとんど何も変わっていない。
だが、蓮は一つのことに気づき始めていた。
ビジネスの世界は、必ずしも取引だけで動くわけではない。
時には、何かに署名する理由が生まれるよりずっと前から、人間関係が始まる。
それが、麗華の言っていたことなのかもしれない。
扉を開ける。
だが、無理に入らせるわけではない。
蓮は静かに息を吐いた。
「簡単には諦めないな」
高橋が顔を上げる。
「西園寺さんですか?」
「ああ」
「そのようですね」
蓮は小さく笑った。
「面倒になるかもしれない」
高橋が笑う。
「役に立つかもしれませんよ」
蓮は机の上のファイルを見る。
「そのうち分かる」
窓の外では、東京が変わらず動き続けている。
このビジネス関係が、いつ本当に重要になるのか。
蓮にはまだ分からない。
そして、一つのファイルを受け取ったという単純な判断が、やがて黒瀬ホールディングスを、今日見えているよりもはるかに大きなネットワークへ繋げることになることも、まだ知らない。
今は、一つだけ。
金には「ノー」と言った。
だが、扉までは閉めていない。
そして、もしかすると――
すべては、その小さな隙間から始まるのかもしれない。
「考えておく」
二つの言葉に、同意の意味はない。
だが、麗華にとっては、それで十分だった。
そして蓮自身にも、一つだけはっきりしてきたことがある。
あの女性は、本当に簡単には諦めない。
---
【第34話「数字の向こう側」】
「数字の向こう側」
麗華は、蓮との面会だけで終わらせなかった。
彼女は黒瀬ホールディングスについて、さらにデューデリジェンスを進め始める。
目的は単純だった。
黒瀬ホールディングスが、書類の上で見えるほど本当に強いのか――
それとも、21歳の若者が持つ幸運によって、強く見えているだけなのか。
その答えを見つけるために、麗華は数字が現実の生活へ変わる場所を、自分の目で見ることを決めた。
ヤマト物流。




