第30話「この日常を、もう少し続けたい」
第30話「この日常を、もう少し続けたい」
午前6時28分。
30日目。
赤坂レジデンス1203号室は、まだ静かだった。
蓮はダイニングのカーテンを開けた。
眼下では、東京が動き始めている。
車のライトが少しずつ道路を埋めていく。駅へ向かう人々が歩き、店が開き始め、大通りを走る車の音がガラス越しにかすかに聞こえてくる。
何も変わらない、いつもの光景。
蓮は、そういうものが好きだった。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
待っている間、テーブルの上に置かれた小さなカレンダーに目を向けた。
今日の日付には印がついている。
30日。
蓮はカップを手に取った。
「……もう一か月か」
こんなに早く時間が過ぎたようには感じなかった。
それでも最初の日を思い返せば、まるで昨日のことのように思える。
練馬の、簡素な賃貸部屋。
現実離れした口座残高。
望んでもいないのに現れたシステム。
そして、住居。
車。
会社。
増え続ける金。
そして、最初は知らなかった人たち。
蓮は椅子に座った。
ノートパソコンを開く。
今日は、いきなり会社の報告書を見ることはしなかった。
昨夜、高橋が作成した資料を開く。
『第1か月目――黒瀬ホールディングス月次報告』
蓮は一ページ目を読む。
続けて二ページ目。
特に驚くような内容はない。
会社は問題なく動いている。
ヤマト物流も通常通り稼働。
三井マリンフーズにも大きな問題はない。
サクラ・フレイトとカントー・リテール・ロジスティクスの交渉も継続中。
キャッシュフローは依然としてプラス。
個人負債はない。
急いで事業を拡大する必要もない。
蓮は資料を閉じた。
「……いいな」
一言。
それで十分だった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
美雪:おはよう。
蓮は返信する。
蓮:おはよう。
美雪:もう起きてる?
蓮:とっくに。
美雪:今日は大学?
蓮:ああ。
美雪:そのあと会社?
蓮:たぶん。
美雪:ちゃんと食べて。
蓮はメッセージを見つめた。
そして文字を打つ。
蓮:美雪もな。
ほとんど間を置かずに返信が来た。
美雪:私は本気で言ってる。
蓮:俺も。
数秒後、静香が入ってきた。
静香:二人とも、朝から始まってるの?
蓮は読む。
蓮:何が?
静香:お互いに食事を気にしてる。
美雪が返信する。
美雪:普通じゃない?
静香:普通。
静香:でも、蓮が食事を忘れ始めたら、予定を組まないとね。
蓮は小さく息を吐いた。
蓮:食事くらい自分で覚えてる。
静香:分かった。
静香:じゃあ、証明して。
蓮は画面を見つめる。
「……なんで二人に監視されてるみたいなんだ」
その言葉は打たなかった。
代わりに、
蓮:また後で。
美雪:
美雪:また後で。
静香:
静香:また後で。
蓮はスマートフォンを置いた。
口元に、小さな笑みが浮かぶ。
ほんの一瞬だけ。
午前7時16分。
蓮は大学へ行く準備を始めた。
選んだ服は、シンプルなもの。
スーツは着ない。
目立つ時計もつけない。
わざわざ普段と違う格好をする理由もない。
車のキーを手に取る。
P9LM。
Jeskoではない。
Ghost Series II by MANSORYでもない。
大学へ行くなら、P9LMのほうがまだ実用的だった。
蓮はマンションを出る。
エレベーターの前で、何度か顔を合わせたことのある隣人が会釈した。
「おはよう」
「おはようございます」
「大学?」
「はい」
隣人は笑った。
「頑張って」
「ありがとうございます」
エレベーターの扉が閉まる。
蓮は自分の姿を映す鏡を見る。
30日前なら、こんな会話をすることになるなんて想像もしなかっただろう。
会話そのものが特別だったわけではない。
むしろ、何も特別なことがない。
蓮は、そういうことに少しずつ価値を感じるようになっていた。
赤坂から大学までの道のりは、いつも通りだった。
赤坂。
外苑東通り。
六本木。
青山。
そして大学周辺へ。
蓮は何度か利用している駐車場所にP9LMを停めた。
車を降りると、少し離れた場所に誰かが立っているのが見えた。
田中浩平だった。
田中が手を上げる。
「蓮!」
蓮は近づく。
「おはよう」
田中は車を見る。
「またP9LM?」
「なんで?」
「いや。お前の他の車を見たあとだと、P9LMが普通の車に見えてきた」
蓮は田中を見る。
「……始めるなよ」
田中は笑った。
「ただ事実を言ってるだけだって」
二人は建物へ向かって歩く。
田中がスマートフォンを取り出した。
「そういえば」
「ん?」
「もう見た?」
「何を?」
田中が画面を見せる。
蓮のYアカウント。
フォロワー数は、すでに100万人を超えている。
「これ」
蓮は見る。
「……見た」
田中は蓮を見る。
「反応、それだけ?」
「どうしろっていうんだ?」
「さあ。一億……じゃなくて、100万人だぞ」
「俺が知ってる100万人じゃない」
田中は黙った。
そして笑う。
「お前の答え、やっぱり普通じゃないわ」
蓮はポケットに手を入れる。
「俺は大学生だからな」
田中は首を振った。
「問題は、今やほとんど全員がお前を普通の大学生じゃないって知ってることだろ」
蓮は横目で田中を見る。
「この教室じゃ、課題はやらないといけない」
田中は大きく笑った。
「そこが一番面白いんだよ」
午前9時04分。
講義が始まる。
蓮はいつもの席に座る。
教授が講義を進める。
蓮はノートを取る。
システムもない。
投資家もいない。
SNSもない。
少なくとも、一時間の間は。
後ろの学生が小声で話しかけてきた。
「黒瀬」
蓮が振り向く。
「ん?」
「お前、本当にYにいる人と同一人物なの?」
蓮は落ち着いて答える。
「俺が知る限りは」
友人が笑いをこらえる。
「なんでそんなに平然としてられるんだ?」
蓮はノートを見る。
「教授が説明してるから」
学生は頷いた。
「……確かに」
数分後、教室は再び静かになった。
蓮はノートを取り続ける。
今度は、ほんの少しだけ笑っていた。
世界が変わっても。
大学は大学だ。
午前11時46分。
講義が終わると、田中が再び近づいてきた。
「蓮」
「ん?」
「隣の学部の人が会いたいって」
「誰?」
「知らない」
「じゃあ、いい」
田中は笑った。
「ただ、知り合いになりたいだけだって」
「なんで?」
「お前が有名だから」
蓮は田中を見る。
「俺、観光名所じゃないぞ」
田中は笑った。
「やっぱりそう言うと思った」
二人は食堂へ向かう。
蓮は昼食を買った。
特別な料理ではない。
個室でもない。
特別扱いもない。
田中は向かいに座った。
「お前、本当に変わらないな」
蓮は飲み物を手に取る。
「何が変わった?」
「全部だよ」
田中は蓮のスマートフォンを指差す。
「フォロワー100万人」
次に蓮の服を指差す。
「会社」
さらに外のほうを指差す。
「車」
そこで一度止まる。
「それなのに、食堂で飯食ってる」
蓮は答える。
「食堂のほうが早いから」
田中は笑った。
「お前の理屈には勝てないわ」
午後1時32分。
蓮は黒瀬ホールディングスに到着した。
高橋が待っていた。
「蓮さん」
「おはよう」
「もう昼過ぎですよ」
蓮は時計を見る。
「……そうだな」
高橋は笑った。
「大学はどうでした?」
「普通」
「それは何よりです」
二人は執務室へ入る。
最新の報告書が用意されていた。
高橋が資料を開く。
「それでは、会社の状況から確認します」
蓮は座る。
「頼む」
月末報告には、次の内容が記載されていた。
黒瀬ホールディングス――第1か月目・月末時点
蓮の個人純資産:209億円
現金:82億4,000万円
短期投資:21億8,000万円
金融資産:37億6,000万円
ヤマト物流の持分価値:24億5,000万円
三井マリンフーズの持分価値:19億2,000万円
サクラ・フレイトの評価額:6億8,000万円
不動産・事業用資産:11億4,000万円
その他資産:5億3,000万円
個人負債:0円
蓮はすべてに目を通した。
表情に大きな変化はない。
高橋が尋ねる。
「何か変更したい点はありますか?」
蓮は首を横に振る。
「まだない」
「新規投資については?」
「まだ」
「事業拡大は?」
「まだだ」
高橋は笑った。
「そうおっしゃると思っていました」
蓮は報告書を閉じる。
「健全な会社なら、ずっと何かを買い続ける必要はない」
高橋は頷いた。
「おっしゃる通りです」
「ヤマトはサービス水準を維持してくれ」
「すでに対応しています」
「三井は?」
「安定しています」
「サクラは?」
「まだ交渉中です」
蓮は頷いた。
「急ぐな」
高橋はメモを取る。
そして、別の資料を取り出した。
「それと、もう一件」
「何だ?」
「ミウラ・キャピタルです」
蓮は高橋を見る。
「まだ待ってるのか?」
「はい」
「50億円で10%の提案?」
「週末までは有効です」
蓮は資料を手に取る。
もう一度、内容を確認する。
投資額:50億円
持分:10%
投資家側の一定の権利:限定的
蓮は資料を閉じた。
「断る」
高橋は驚かなかった。
「承知しました」
「今の会社に、それだけの資本は必要ない」
「私もそう考えています」
「いつか必要になったら、その時に話せばいい」
「はい」
蓮は資料を返した。
「でも、今じゃない」
午後3時18分。
美雪が執務室に入ってきた。
「蓮」
蓮が振り向く。
「どうした?」
「警備会議、終わった」
「どうだった?」
「いつも通り」
美雪は椅子に座る。
「まだ報告書読んでるの?」
「もうすぐ終わる」
美雪は机の上を見る。
「今日は、そこまで忙しくなさそうね」
「今のところは」
数分後、静香も入ってきた。
「サクラの確認結果、持ってきた」
蓮は資料を受け取る。
「どうだった?」
「大きな変化はない。カントーはまだサクラとの話し合いを続けてる」
「セイワは?」
「まだ契約を取りにきてる」
蓮は資料を読む。
「つまり、圧力は続いてるわけか」
「そう」
蓮は頷いた。
「サクラには、決めた範囲の中で交渉を進めてもらおう」
静香が座る。
「もしカントーが本当に離れたら?」
「新規顧客候補のリストを動かす」
「取引量は追わない?」
「追わない」
静香は笑った。
「やっぱりね」
美雪が二人を見る。
「どうやら、最初の一か月の仕事はまだ終わらないみたいね」
蓮は頷いた。
「一か月で全部終わる必要はない」
美雪は微笑んだ。
「もっともな答えね」
午後5時04分。
主な仕事を終えても、三人はすぐには帰らなかった。
ラウンジに座る。
テーブルの上に書類はない。
ノートパソコンもない。
その日、初めて会社の仕事が一切ない時間だった。
静香は紅茶のカップを持っている。
「それで……」
蓮は静香を見る。
「何?」
「明日から二か月目だね」
蓮は頷く。
「ああ」
美雪が背もたれに寄りかかる。
「初めて会った頃を思い出すと、早いわね」
蓮が振り向く。
「初めてって、いつだ?」
「銀座のあのイベント」
「そうだったな」
美雪は微笑んだ。
「あの時は、突然お金を持った若い人だと思ってた」
蓮は眉を上げる。
「今は?」
「突然会社まで持った若い人」
静香が笑った。
「かなり大きな違いだね」
蓮は二人を見る。
「二人は?」
静香が先に答えた。
「私は最初、疑ってた」
「まだ?」
静香は少し考える。
「仕事のことなら、今でも全部確認する」
蓮は頷く。
「それでいい」
「でも、個人的なことなら……」
静香が言葉を止める。
美雪が続けた。
「私たちはもう、あなたがそんなに複雑な人じゃないって分かってる」
蓮は二人を見る。
「褒めてるのか?」
「そういうことにしておけば?」
美雪が言う。
蓮は薄く笑った。
そして静香が尋ねる。
「もし聞いていいなら、この一か月で起きたことの中で、一番覚えてるのは何?」
蓮はすぐには答えなかった。
考える。
最初の日。
金。
マンション。
車。
会社。
ビジネスイベント。
サクラ。
大学。
横浜。
SNS。
晩餐会。
すべてが頭の中を巡る。
それでも、なぜか最初に浮かんだ答えは、そのどれでもなかった。
蓮は言った。
「夕食」
美雪が眉を寄せる。
「どれ?」
「横浜の」
静香が黙る。
「どうして?」
「あの時は、誰も会社の話をしてなかったから」
美雪が微笑む。
「そういうほうが好き?」
「ああ」
静香はカップを見る。
「私も」
美雪も頷く。
「私もそうね」
それ以上、誰も続けなかった。
空気が静かになる。
気まずいわけではない。
ただ、心地よかった。
午後6時11分。
システムが現れた。
今回は、蓮も驚かなかった。
半透明のパネルが視界の一部を覆う。
《第1か月目の評価を開始します。》
蓮は黙って見る。
《評価期間:1日目~30日目》
《初期資産:0円》
《現在の純資産:209億円》
蓮は眉を上げる。
「……そこまでいったのか」
次のパネルが表示される。
《利用者の生活環境の変化を検知しました。》
《利用者が獲得したもの:》
《金融資産》
《プレミアム住居》
《プレミアム車両》
《資産管理能力》
《企業》
《人的ネットワーク》
《公的認知》
そして、一行が表示された。
《ただし、評価は物質的価値だけを基準としません。》
蓮は読む。
《非取引的な社会的関係:達成》
《個人の境界線:維持》
《自律的な意思決定:達成》
《物質的消費への依存:低》
《私生活の安定:達成》
蓮は黙った。
最後のパネルが表示される。
《第1か月目の評価を完了しました。》
《現在の資産倍率:×75》
《第2段階――企業資産の統合:完了》
《第3段階――生活特権:有効》
続いて、
《月間報酬》
蓮は待つ。
《追加の金銭移転はありません。》
蓮は頷いた。
「……いいな」
次のパネルが表示される。
《報酬:《絶対生活特権》》
《ランク:EX》
《主効果:利用者の嗜好に適合した生活上の必要事項への優先的アクセス》
《構成要素:》
《時間》
《プライバシー》
《移動》
《快適性》
《アクセス》
蓮は読む。
そして、システムが一つの注記を表示した。
《特権は利用者に使用を強制しません。》
蓮は薄く笑った。
「……そこはいいな」
《システムは、実際の必要性に応じて報酬を調整します。》
蓮はパネルを閉じた。
爆発もない。
突然、何かが届くわけでもない。
ドラマチックな音声もない。
ただ、新しい能力が一つ増えただけだった。
そして蓮は、それでいいと思った。
これ以上、物を増やす必要はない。
むしろ必要なのは、すでに手に入れたものを楽しむための、もう少し多くの余白なのかもしれない。
午後7時02分。
蓮、美雪、静香の三人は建物を出た。
東京の夜は、すでに姿を変えていた。
ビルの明かりが灯り、
車の流れもさらに増えている。
蓮は駐車場を見る。
「明日はたぶん、Jeskoにする」
静香が振り向く。
「どうして?」
「何日か乗ってないから」
美雪が笑う。
「本当に車をペットみたいに扱ってるのね」
「乗らないほうが、むしろ調子が悪くなる」
静香は首を振る。
「理由だけは一貫してるね」
蓮はP9LMのドアを開ける。
美雪が隣に立つ。
「蓮」
「ん?」
「明日はあまり忙しくしないで」
「大学がある」
「知ってる」
「それに会社もある」
「それも知ってる」
蓮は美雪を見る。
「じゃあ?」
美雪は微笑んだ。
「少なくとも、生活する時間は残して」
蓮は黙った。
単純な言葉だった。
それなのに、なぜか心に残った。
静香も言う。
「それと、食事」
蓮はため息をつく。
「なんで、そこはいつも出てくるんだ?」
「忘れるから」
「忘れてない」
美雪が眉を上げる。
「本当に?」
蓮はドアを開ける。
「……たまには」
静香が笑った。
「少なくとも、正直ではあるね」
蓮は乗り込む。
ドアが閉まる前に、美雪が言った。
「また明日」
「ああ」
静香が手を振る。
「遅くならないでね」
蓮は二人を見る。
「二人もな」
車は駐車場を出ていった。
帰り道は、いつもとは少し違って感じられた。
システムのせいではない。
金のせいでもない。
フォロワー数のせいでもない。
ただ、蓮は少しだけ頭が軽くなったように感じていた。
30日。
すべてが変わった。
それでも、変わらなかったものもある。
大学には今も通っている。
コーヒーも飲む。
静かな道も好きだ。
早く食事を済ませたいだけなら、高級レストランよりコンビニを選ぶ。
必要に応じて車を使う。
インタビューは今も好きじゃない。
芸能人にもなりたくない。
そして今は――
食事を忘れないように、ただの一言を送ってくれる二人がいる。
蓮は笑った。
「……悪くないな」
午後8時13分。
赤坂レジデンス1203号室。
蓮が帰宅する。
P9LMのキーを置く。
カーテンを開ける。
窓から東京が見える。
コーヒーを淹れる。
そして座る。
ノートパソコンを開く。
だが、今回は報告書を開かなかった。
自分のYアカウントを開く。
1,021,743フォロワー。
数字は今も増え続けている。
蓮は最後の投稿を見る。
三台の車が並んだ写真。
これまで最も多く話題になった投稿だった。
この写真を撮った時、蓮は自分の人生が変わることなど、まだ知らなかった。
P9LM。
Ghost Series II by MANSORY。
Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORY。
三台の車。
一枚の写真。
長いキャプションはない。
戦略もない。
有名になろうとしたわけでもない。
蓮はコメントを見る。
そして小さく笑った。
「……ただ写真を残したかっただけなんだけどな」
アプリを閉じる。
スマートフォンを裏返して置く。
もう見る必要はない。
午後9時06分。
一件のメッセージが届いた。
高橋からだった。
高橋:来月について、把握しておいたほうがいいかもしれない名前が二つあります。
蓮は開く。
蓮:誰?
高橋から、二つの簡単な概要が送られてくる。
一つ目は、投資業界から。
それなりに知られた家名。
二つ目は、現在再編を進めている企業から。
どちらも、まだ蓮と直接の関係はない。
面識もない。
連絡もない。
ただ、市場レポートの中で、将来的に黒瀬ホールディングスの事業拡大と関係する可能性がある人物として、二つの名前が挙がっていた。
蓮は読む。
そして返信する。
蓮:まだ保留で。
高橋:承知しました。
蓮:面会は組まないで。
高橋:分かりました。
蓮は会話を閉じた。
その二つの名前には、まだ何の意味もない。
少なくとも、今夜は。
午後10時34分。
蓮は風呂に入り、
リビングの照明を消す。
テーブルを片付ける。
眠る前、もう一度窓の前に立った。
東京はまだ明るい。
あまりにも多くの人間が、その下で生きている。
あまりにも多くの車。
あまりにも多くの会社。
あまりにも多くの、自分とは交わることのない人生。
一か月前、蓮にはそんなことを考える理由すらなかった。
今は、世界のほうから何度も扉を叩いてくる。
SNS。
メディア。
投資家。
企業。
自分を知りたがる人々。
自分と仕事をしたがる人々。
ただ興味を持っているだけの人々。
それでも蓮は、そのすべてを追いかけなければならないとは思わなかった。
すでに、昔は持っていなかったものを手に入れている。
選択肢。
以前は、状況に従って生きていた。
今は、自分が何を残したいのかを決められる。
芸能人になりたいわけではない。
注目の中心になりたいわけでもない。
世界を支配したいわけでもない。
買えるものをすべて手に入れたいわけでもない。
ただ、静かに暮らしたい。
単純な願いに聞こえるかもしれない。
だが今の蓮には、世界が大きくなっていく中で、単純な生活を守り続けることが決して簡単ではないと分かっていた。
スマートフォンが、もう一度だけ震えた。
美雪からだった。
美雪:おやすみ、蓮。
数秒後、静香からも届く。
静香:あまり夜更かししないでね。
蓮は二つのメッセージを見る。
そして文字を打った。
蓮:おやすみ。二人もな。
スマートフォンを置く。
寝室の明かりを消す。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
この一か月で初めて、その夜に片付けなければならない用事は何もなかった。
交渉もない。
買収もない。
メディアもない。
会議もない。
SNSもない。
ただ、静寂だけがある。
そして眠りにつく直前、蓮の中に一つの単純な考えが浮かんだ。
この生活を、このまま維持できるのなら――
もしかすると、これ以上は必要ないのかもしれない。
午前6時00分。
翌日は、二か月目の最初の日になる。
システムは、新たな段階を開いた。
黒瀬ホールディングスは、すでに知られ始めている。
蓮のSNSアカウントには、100万人を超えるフォロワーがいる。
サクラ・フレイトは、セイワ・ディストリビューション・ネットワークとの競争に今も直面している。
美雪と静香は、蓮の生活に少しずつ近づいている。
そして、その小さな輪の外では、より広いビジネスの世界が動き始めていた。
昨夜、高橋から送られてきた二つの名前は、その始まりにすぎない。
蓮は、まだ彼らが誰なのか知らない。
いつ現れるのかも知らない。
そして、自分の生活にどのような影響を与えるのかも知らない。
今は、すべて後回しでいい。
なぜなら、明日の朝にアラームが鳴ったら、蓮はまた同じことをする。
起きる。
コーヒーを飲む。
大学へ行く。
そして仕事をする。
誰か別の人間になりたいわけではない。
世界を追いかける必要もない。
蓮は、自分で選んだ生活を続けたいだけだった。
もう少しだけ。
そして、もしかすると――
だからこそ、世界はこれからも蓮のもとへやって来るのかもしれない。
蓮が追いかけるからではない。
ただ、望むものが少なくなればなるほど――
より多くのものが、自然と彼のもとへ集まってくる。
《絶対資産支配システム》
最初の旅は終わった。
しかし、蓮の旅は始まったばかりだった。
【VOLUME 1――完】
「何も望まない男の、最初の30日」
30日間――何も望まない男の最初の一か月
1日目: システムが現れる。
5日目: 最初のスキルを獲得。
10日目: 黒瀬ホールディングスが誕生。
15日目: 蓮がビジネスネットワークを築き始める。
20日目: 資産が数百億円規模に到達。
23日目: 蓮、美雪、静香の関係が変化し始める。
25日目: 黒瀬蓮の名が世間に知られ始める。
26日目: 《カリスマ EX》が解放される。
27~28日目: SNSが拡大し、世間の注目が高まる。
29日目: 《絶対生活特権》が解放される。
30日目: 蓮は、自分が気に入った生活を守ることを選ぶ。
金は、さらに増えていく。
資産は、さらに大きくなる。
会社は、さらに知られていく。
世界は、さらに近づいてくる。
それでも、蓮は変わらない。
富を追いかけない。
地位を追いかけない。
人気を追いかけない。
そして、だからこそ――
《絶対資産支配システム》は、彼にさらに多くを与え続ける。
【VOLUME 2――「望んでいない出会い」へ続く】




