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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第29話「望まないほど、世界が近づいてくる」

第29話「望まないほど、世界が近づいてくる」


06時41分。


赤坂レジデンス1203号室は、まだ静かだった。


朝の光がダイニングのカーテンの隙間から差し込んでいる。テーブルの上では、蓮のノートパソコンが昨夜から開いたままになっており、その隣にはすっかり冷めたコーヒーが置かれていた。


蓮が席に着いたばかりのところで、スマートフォンが震えた。


一件。


続いて二件。


そして、一気に十数件。


蓮は無表情のまま画面を見た。


「……まさか」


Yを開く。


昔から使っていたアカウントのフォロワー数が変わっていた。


1,000,327フォロワー。


蓮は黙った。


数秒後、また数字が変わる。


1,000,481。


そして――


1,000,612。


蓮はスマートフォンをテーブルに置いた。


「……超えたか」


勝ったような感覚はない。


嬉しくもない。


ただ、自分が走らせたままにしていた列車が、いつの間にか次の駅へ到着していたことに気づいたような感覚だった。


再びスマートフォンが震える。


高橋からのメッセージだった。


高橋:おはようございます、蓮さん。Yのアカウントですが、06時18分頃にフォロワーが100万人を超えました。


蓮はメッセージを読む。


蓮:今見た。


すぐに返信が来た。


高橋:広報チームも未明から確認していました。


蓮:問題は?


高橋:大きな問題はまだありません。ただ、動きに変化があります。


蓮は新しいコーヒーを淹れながら返信した。


蓮:説明して。


高橋:これまでは車両と黒瀬ホールディングスに興味が集まっていました。ですが、今は蓮さんの私生活について話す人が増えています。


蓮の手が止まった。


「……それはいらないな」


続けてメッセージが届く。


高橋:そうおっしゃると思っていました。


蓮はポットを置いた。


再びスマートフォンが鳴る。


今度は美雪だった。


美雪:もう見た?


蓮:見た。


美雪:100万人。


蓮:知ってる。


美雪:反応、普通すぎない?


蓮は座りながら文字を打った。


蓮:どうしろっていうんだ?


数秒後、美雪から返事が来る。


美雪:さあ。少しくらい驚いてもいいんじゃない?


蓮:驚いてる。


美雪:見えない。


蓮:一人でダイニングに座ってるんだ。表情に何かする必要ないだろ。


美雪から笑いの絵文字が届いた。


蓮は画面を見つめる。


すると、静香も会話に入ってきた。


静香:二人とも、もう話してた?


美雪:蓮はいつも通り落ち着いてる。


静香:だと思った。


蓮:俺がいないみたいに話すのはやめてくれ。


静香:蓮はいつも最後にメッセージを読むから。


蓮は送信時刻を確認した。


確かに、その通りだった。


蓮:それは一理ある。


静香から続けて届く。


静香:今朝、一つ話しておきたいことがある。フォロワー数だけじゃない。


蓮の表情が少しだけ真剣になる。


蓮:何?


静香:私たちまで、蓮と結びつけて見られ始めてる。


蓮の動きが止まった。


淹れたばかりのコーヒーを口にしたものの、すぐには飲み込めなかった。


07時18分。


蓮は広報チームから送られてきた報告書を開いた。


変化はかなり明確だった。


昨日まで、蓮について語られていた話題の中心は、主に三つだった。


黒瀬ホールディングス。


車。


若くして成功した経営者。


だが、今朝は違っていた。


黒瀬蓮の日常。


過去のコーヒーの投稿を見つけたユーザー。


本の写真を見つけたユーザー。


車内から撮った夜道の写真。


そして、最初に話題になった三台の車。


それらを一つにまとめ、誰かが単純な結論を出していた。


「黒瀬蓮って、実はそんなに豪華な生活を投稿してないんだな」


蓮はいくつかのコメントを読む。


「このアカウント、彼が有名になるずっと前からある」


「意外と投稿少ないな」


「最後の投稿が三台の車だけって」


「資産はかなり持ってるのに、投稿は普通なのが変」


「なんでこの人、会社よりコーヒーの投稿のほうが多いんだ?」


蓮はため息をついた。


「コーヒーのほうが楽だからだろ」


そのまま画面をスクロールしていく。


そして、蓮の指が止まった。


黒瀬ホールディングスから出てくる蓮を撮影した写真が、いくつか掲載されている。


自宅の場所は写っていない。


車のナンバーもはっきりとは見えない。


だが、何人かのユーザーが、その傍らにいる二人の女性と結びつけ始めていた。


如月美雪。


高峰静香。


二人の名前が、少しずつ会話の中に現れ始めている。


蓮はアプリを閉じた。


「……これは、あまりよくないな」


08時03分。


蓮は黒瀬ホールディングスに到着した。


今日はP9LMを使っている。


ジェスコが使えないわけではない。


むしろ昨夜のことを受けて、蓮は会社へ行く際には比較的目立たない車を選んだ。


会議室に入ると、美雪と静香はすでに来ていた。


高橋がタブレットを手に立っている。


「おはようございます」


「おはよう」


蓮が席に着く。


美雪が蓮を見る。


「今日はP9LMなんだ?」


「ああ」


「どうして?」


「乗りたかったから」


美雪が薄く笑う。


「いかにも蓮らしい答え」


静香が資料を開いた。


「少なくとも、こっちはジェスコほど話題になってない」


蓮は静香を見る。


「だからだ」


高橋が報告書を開いた。


「では、重要なところから始めます」


大型モニターが点灯する。


【世論認知レポート――09/19】


蓮はグラフを見る。


「数字は?」


高橋が指差した。


「Yの個人アカウントは、すでに100万人を超えています。ただ、それ以上に重要なのが、話題の変化です」


蓮が頷く。


「さっき見た」


「はい」


高橋がページを切り替える。


「経済系メディアも、黒瀬ホールディングスだけではなく、蓮さんのライフスタイルについて記事を書くようになっています」


蓮は眉を寄せた。


「なんで?」


「世間から見ると、矛盾しているからです」


「矛盾?」


「数百億円規模の資産を持つ会社の経営者なのに、大学へ通い、簡単な食事を取り、昔からあるSNSアカウントを使い、著名人になろうとしている様子もない」


蓮は背もたれに身を預けた。


「俺からすれば、矛盾じゃないけどな」


美雪が口を挟む。


「蓮からすればね」


蓮が振り向く。


美雪は続けた。


「他の人が同じように見るとは限らない」


静香も加える。


「シンプルだと思う人もいる。逆に、演出だと思う人もいる。変わってると思う人もいる」


蓮は二人を見る。


「じゃあ、俺はどうすればいい?」


「何もしなくていい」


美雪は落ち着いた声で答えた。


蓮が眉を上げる。


美雪は続ける。


「むしろ、それが大事。周りに見られ始めたからって、生活まで変えないこと」


蓮は黙った。


静香も頷く。


「今、フォロワーが100万人になったからって、急に毎日豪華な生活を投稿し始めたら、その変化は見られる」


「それで?」


「いつも通りにする」


蓮は二人を見る。


「そのほうが楽だな」


「そういうこと」


高橋が続けた。


「ただ、一つだけ整えておく必要があります」


「何?」


「プライバシーです」


画面が切り替わる。


いくつもの依頼が表示された。


個人インタビュー:31件


ドキュメンタリー依頼:8件


一般公開イベントへの招待:19件


SNSコラボレーション依頼:74件


美雪さん・静香さんへの直接連絡依頼:12件


最後の数字を見た瞬間、蓮の眉が寄った。


「最後のやつ」


美雪が答える。


「今朝から」


静香がため息をついた。


「私たちの仕事用アカウントを探してる人も出てきてる」


蓮は黙った。


「何か困ってる?」


「まだ深刻な段階ではないよ」と美雪が答える。「でも、数は増えてる」


静香も続ける。


「私たちが蓮と一緒にいるところを何度か見られてるから」


蓮はテーブルを見る。


「……悪い」


美雪はすぐに首を横に振った。


「蓮のせいじゃないことまで謝らないで」


静香も頷く。


「私たちが選んだ仕事だから。そういう影響があることも分かってる」


蓮は答えなかった。


美雪が蓮の顔を見る。


「自分を責め始めないでね」


「責めてない」


「顔に出てる」


蓮は美雪を見る。


「考えてるだけだ」


「何を?」


「二人が、これ以上巻き込まれないようにするにはどうすればいいか」


美雪は少し黙った。


それから、声を落として答える。


「全部を管理することはできないよ」


静香が口を挟む。


「でも、個人情報が外に出ないようにすることはできる」


蓮は頷いた。


「分かった」


高橋がすぐに記録する。


「では、蓮さんと直接関わるスタッフ全員について、対外的な情報管理を強化します」


蓮は首を横に振った。


「やりすぎるな」


高橋が止まる。


「蓮さん?」


「厳しくしすぎると、逆に何か隠してると思われる」


静香が頷いた。


「それは確かに」


蓮は続ける。


「二人がいること自体を隠す必要はない。公開する必要のないことだけ出さなければいい」


美雪が薄く笑う。


「思ったより大人っぽいこと言うね」


蓮は美雪を見る。


「俺、21歳なんだけど」


「知ってる」


「高校生みたいに言うなよ」


「そんなこと言ってないでしょ」


静香が小さく笑った。


「二人とも、だんだん友達みたいになってきたね」


美雪が静香を見る。


「私たち、友達でしょ?」


静香が頷く。


「仕事じゃない時くらいはね」


蓮は二人を見る。


「……そうだな」


その答えは、単純だった。


だが、誰も笑わなかった。


10時27分。


会議は続いた。


SNSの問題だけが解決すべきことではない。


高橋が会社の報告書を表示する。


「サクラ・フレイトについてですが、カントー・リテール・ロジスティクスからまだ最終回答はありません。取扱量の構成を再検討するため、もう少し時間が欲しいとのことです」


蓮は頷いた。


「セイワは?」


「引き続き接触を続けています」


「じゃあ、こっちの状況は変わってないな」


「はい」


蓮は資料を読む。


「カントーがセイワを選んだ場合、サクラには別の選択肢が必要だ」


静香が資料を開いた。


「新規顧客の候補リストは、すでに作り始めています」


蓮が見る。


「何社?」


「初期条件を満たしているのは六社」


「焦るな」


静香が顔を上げる。


「どうして?」


「一つの依存を、別の依存に置き換える必要はない」


蓮は資料の数字を指した。


「カントーが31%まで落ちたからって、すぐに別の一社で20%を埋めるな」


静香が頷く。


「分散させる」


「ああ」


美雪が付け加える。


「取扱量を分散したら、利益率は少し下がるかもしれない」


蓮は美雪を見る。


「その代わりキャッシュフローが安定するなら、それでいい」


高橋が記録する。


「承知しました」


蓮は再び資料に目を戻す。


「目的は、一番大きな数字を作ることじゃない」


表を指差す。


「一つの契約が変わっただけで、会社が傾かないようにすることだ」


静香が笑う。


「相変わらずだね」


蓮が振り向く。


「何が?」


「最初からサクラに対して取ってきたやり方と」


蓮は少し黙った。


「……それが問題そのものだからな」


12時14分。


蓮は美雪と静香と昼食へ向かった。


高級店ではない。


会社からそれほど離れていない、簡素な店を選んだ。


蓮はいつもの定食を注文する。


美雪がメニューを見る。


「飽きないの?」


「何が?」


「ほとんど同じものを頼んでるでしょ」


蓮はメニューを見る。


「美味いなら、変える必要ないだろ」


静香が隣に座っている。


「普通、人間ってもっと変化を好むものだけどね」


「普通はな」


美雪が笑う。


「本当に例外だね」


料理が運ばれてくる。


数分間、会話は止まった。


気まずいわけではない。


ただ、食べているだけだった。


何口か食べたところで、静香が口を開く。


「蓮」


「ん?」


「一つ聞きたいんだけど」


「何?」


「もし、いつか本当に今までみたいな生活ができなくなったら、どうする?」


蓮の箸が止まった。


仕事の話には聞こえなかった。


少し考える。


「今までみたいな?」


「うん」


蓮は箸を置いた。


「会社を持つ前の生活って意味なら……」


窓の外を見る。


「……戻れるかは分からない」


美雪は黙った。


静香も待つ。


蓮は続ける。


「でも、好きだった部分は残せる」


「例えば?」


「コーヒー」


美雪が小さく笑う。


「本気?」


「本気」


「コーヒー以外は?」


「大学に行くこと」


静香が微笑む。


「他には?」


蓮は少し長く考えた。


「運転」


美雪が頷く。


「それから?」


蓮はもう一度考える。


「静かな場所」


静香が蓮を見る。


「じゃあ、残したいのは昔の生活そのものじゃないんだね」


蓮は首を横に振った。


「俺が欲しいものは変わらない」


美雪が尋ねる。


「どう違うの?」


蓮はあまり考えずに答えた。


「昔は、他に選択肢がなかったから静かに暮らしたかった」


少し間を置く。


「今は、自分で選んで静かに暮らしたい」


テーブルが静かになった。


誰もすぐには答えなかった。


静香は料理へ視線を落とす。


美雪は薄く笑った。


「いい答えだね」


蓮が眉を上げる。


「なんで?」


「その答え、蓮らしいから」


14時03分。


昼食を終え、蓮は会社へ戻った。


社内で一つ会議がある。


大きなものではない。


カメラもない。


メディアもいない。


蓮、高橋、美雪、静香、それに数名の各部門責任者だけだ。


議題は、世間からの注目が高まる中で、黒瀬ホールディングスがどう対応するか。


ある部門責任者が尋ねた。


「蓮さん個人のブランディング戦略を作る必要はありますか?」


蓮は即答した。


「ない」


男は止まる。


「承知しました」


蓮は続けた。


「作るのは会社のブランドだ。俺じゃない」


高橋が頷く。


「昨日の方針と一致しています」


「会社が成功したなら、知られるのも会社でいい」


静香が付け加える。


「公式アカウントも、必要な情報だけに絞る」


「ああ」


美雪が腕を組む。


「じゃあ、一般公開イベントの依頼は?」


蓮は美雪を見る。


「仕事に関係するものなら検討する」


「エンタメ系は?」


「断る」


「全部?」


「今のところは」


美雪が頷く。


「分かった」


長い議論にはならなかった。


方針は明確だった。


蓮は世界から消えようとしているわけではない。


ただ、自分が世界に渡すものを決めているだけだった。


16時38分。


蓮が報告書を読んでいると、システムが現れた。


音はない。


光もない。


ただ、目の前に透明なパネルが浮かぶ。


《利用者の状態を評価します。》


蓮の手が止まる。


《第2段階――企業資産統合:4/4》


蓮は眉を寄せた。


ようやくか。


前日まで、ずっと2/4だった段階が、変わっている。


《統合資産の安定性:達成》


《キャッシュフロー管理:達成》


《資産集中リスク:安全範囲内》


《過度な拡大に依存しない意思決定:達成》


蓮は一つずつ読む。


そして、次の文章が表示された。


《第2段階、完了。》


蓮は背もたれに身を預ける。


「……やっと終わったか」


次のパネルが現れる。


《第3段階――ライフスタイル特権》


蓮は黙った。


《段階目標:物質的消費への依存を高めることなく、利用者の生活品質を向上させる。》


蓮は眉を寄せる。


「ライフスタイル特権?」


システムが続ける。


《利用者の時間、空間、サービス、移動、快適性、プライバシーへのアクセスを調整します。》


蓮はゆっくりと読む。


そして――


《特権候補:《Absolute Lifestyle Privilege》》


《状態:利用可能》


蓮が眉を上げる。


「つまり、金じゃない?」


《その通りです。》


システムの返答は簡潔だった。


《物質的価値が、必ずしも生活品質を向上させるとは限りません。》


蓮は黙った。


しばらく画面を見つめる。


これまで、システムが与えてきたものは金だった。


住居。


車。


スキル。


会社。


ビジネスへのアクセス。


だが、それらはすべて、数字に置き換えられるものだった。


次の段階は違う。


時間。


プライバシー。


快適性。


移動。


金を多く払えば必ず手に入るとは限らないもの。


蓮はため息をついた。


「……なるほどな」


最後のパネルが現れる。


《特権は、利用者の実際の必要性に応じて有効化できます。》


《即時使用の必要はありません。》


蓮は頷いた。


「それならいい」


今すぐ有効化する理由はない。


蓮はパネルを閉じた。


だが、報告書へ戻る前にメッセージが届く。


美雪からだった。


美雪:まだ仕事してる?


蓮は返信する。


蓮:ああ。


美雪:あまり遅くならないでね。


蓮:もう少しで終わる。


美雪:静香が、三人で夕飯食べようって


蓮はメッセージを見る。


蓮:どこで?


美雪:まだ決めてない


すると静香からすぐに届いた。


静香:あまり高い店はやめよう


蓮が返信する。


蓮:俺は別に、高いところで食べろなんて言ってないけど


静香:知ってる


静香:でも、蓮の「普通」の定義って、ちょっと違うから


蓮は画面を見つめる。


美雪から届く。


美雪:それは確かに


蓮は文字を打つ。


蓮:じゃあ、二人で決めてくれ


静香:


静香:賛成


美雪:


美雪:もう決めた


蓮は首を振った。


「……会社の会議より決めるのが早いのは、なんでだ?」


18時05分。


蓮は会社を出た。


予定はない。


投資家もいない。


メディアもいない。


ただ、簡単な夕食だけだ。


三人は、静かに過ごせそうな小さな店を選んだ。


特別席もない。


VIPルームもない。


カメラもない。


蓮は店の奥側に座る。


向かいに美雪。


隣に静香。


会話は、会議よりずっと気楽だった。


静香がメニューを開く。


「私はこれにする」


美雪が見る。


「それもいいね」


蓮はメニューを見る。


「二人と同じのでいい」


静香が蓮を見る。


「本当に?」


「何が?」


「いつもなら、何を頼むか決まってるでしょ」


「今日は選ぶのが面倒だから」


美雪が笑った。


「今日一番正直な理由だね」


三人は注文する。


料理が運ばれてくると、話題はまた小さなことへ戻っていった。


大学のこと。


仕事のこと。


会った人たちのこと。


そして、SNSによって、誰にも知られていなかった人間が突然話題になること。


誰も、その夜を重要な話し合いにしようとはしなかった。


そして、それこそが蓮にとって心地よかったのかもしれない。


20時11分。


食事を終え、三人は店を出た。


東京の夜風は少し涼しく感じられた。


蓮は通りを見る。


「明日、大学だな」


美雪が頷く。


「本当に行くの?」


「なんで?」


「100万人超えたあとだよ?」


蓮は美雪を見る。


「フォロワー数で大学の時間割は変わらないだろ」


静香が笑った。


「みんながそう考えたら、少しは生きやすくなるかもね」


蓮はポケットに手を入れる。


「人生が楽になるかは分からない」


少しだけ足を止める。


「でも、明日何をするかは分かってる」


美雪が蓮を見る。


「それは?」


「大学」


静香が笑いながら首を振る。


「本当に変わらないね」


蓮は前を向く。


「……そうだといい」


夜はさらに深くなっていく。


三人は建物の前で別れた。


美雪が先に帰る。


静香も続く。


蓮は車へ乗り込んだ。


今回は急いでエンジンをかけなかった。


しばらく座ったまま、ダッシュボードを見る。


それからスマートフォンを確認した。


1,018,492フォロワー。


数字はまだ増え続けている。


だが、蓮はもうコメントを開く必要を感じなかった。


画面を消す。


エンジンをかける。


赤坂までの道は、何事もなく進んだ。


アパートに戻ると、蓮はドアを開けて中へ入った。


鍵をテーブルに置く。


コーヒーを淹れる。


ノートパソコンを開く。


いつもと同じ習慣。


ただ、一つだけ違うことがある。


外の世界では、蓮の名前を知る人間が増えている。


その生活を知りたがる人間も増えている。


会いたいと考える企業も増えている。


話をしたいメディアも増えている。


そして、数週間前までは仕事上の関係でしかなかった二人の女性が、今では仕事とは関係のない夕食の席にも一緒にいる。


蓮の世界は、確かに変わっていた。


それでも、食卓を見れば、コーヒーとノートパソコン、静かな部屋――。


そこには、まだ自分の生活が残っている。


再びスマートフォンが震えた。


蓮が見る。


高橋からのメッセージだった。


高橋:蓮さん、新しい依頼が一件あります


蓮が返信する。


蓮:誰から?


高橋:企業ではありません


蓮は眉を寄せる。


蓮:じゃあ?


数秒後、返信が届く。


高橋:ある旅行プラットフォームから、蓮さんの日常生活を題材にしたドキュメンタリーを制作したいとのことです


蓮は画面を見つめた。


続けて二件目。


高橋:企業インタビューを求めているわけではありません


高橋:大学生であり、経営者でもある蓮さんの日常に密着したいそうです


蓮はスマートフォンを置いた。


「……断りで」


五秒もしないうちに、またスマートフォンが震えた。


高橋:そうおっしゃると思っていました


蓮は思わず薄く笑いそうになった。


ノートパソコンを閉じる。


だが、立ち上がる直前、再びシステムが現れた。


《第3段階が解放されました。》


《《Absolute Lifestyle Privilege》の使用準備が整いました。》


蓮はパネルを見る。


金額はない。


新しい車もない。


会社もない。


ただ、一つの文章だけが表示されている。


《特権は、利用者の実際の必要性に応じて増加します。》


蓮はもう一度読む。


そして、パネルを消した。


「必要になったら、その時でいい」


蓮は立ち上がる。


照明を消す。


部屋が暗くなる。


すべてが始まってから初めて、蓮は一つの単純なことに気づいた。


自分には、何も不足していない。


数百億円の資産を持っているからでもない。


会社を持っているからでもない。


何百万人もの人間に名前を知られているからでもない。


外のすべての音が止まった時――。


それでも、自分には帰る場所がある。


もしかすると、それこそが蓮が本当に守りたい唯一のものなのかもしれない。


23時17分。


別の場所では、SNSの通知が流れ続けていた。


フォロワーは100万人を超えた。


新しい記事も次々と出始めている。


だが、もう三台の車についてではない。


買収についてでもない。


資産についてでもない。


その夜、最も多く拡散されたタイトルは、むしろ単純なものだった。


「黒瀬蓮は、本当はどんな生活を送りたいのか?」


その問いが広がっていく。


そして蓮は知らない。


その問いへの答えが、翌月の方向を決めることになるとは。


システムに強制されたからでもない。


金に導かれたからでもない。


初めて、世界が蓮にとって最も大切にしてきたものへ近づき始めたからだ。


私生活。


蓮は会社を管理できる。


資産も管理できる。


投資も管理できる。


自分について発信される情報の伝え方さえ、ある程度は管理できる。


だが、一つだけ完全には制御できないものがある。


他人が何に関心を持つのか。


その夜、蓮は初めて、これまで考えたこともなかったことを感じていた。


世界は、招待されなくてもやって来る。


自分が世界に望むものが少なければ少ないほど――。


世界は、より近くへと近づいてくる。


【次回予告・第30話「この日常を、もう少し続けたい」】


《絶対資産支配システム》が現れてから30日目。


蓮は、自分の人生を変えた一ヶ月を振り返る。


金。


マンション。


車。


スキル。


買収。


黒瀬ホールディングス。


美雪。


静香。


SNS。


そして、世間からの注目。


しかし、システムが次の段階を提示した時、蓮が考えたのは新しい会社ではなかった。


もっと単純なものだった。


自分は、どんな生活を守りたいのか。


その一方で、黒瀬ホールディングスは新たな段階へ入り、次の巻で蓮の旅の中心となる二人の女性も、より広いビジネス世界の「名前」と「影」として、少しずつ姿を見せ始める。


蓮は、まだ彼女たちと出会っていない。


まだ――。


今はただ、もう一日だけ普通の日を過ごしたい。


なぜなら、もしかすると――。


その普通の生活こそが、蓮が本当に失いたくない唯一のものなのだから。


【第30話へ続く……】

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