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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第28話「一億円の晩餐会」

第28話「一億円の晩餐会」


蓮は、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。


何か興味を引くものがあるわけではない。


むしろ逆だった。


入りすぎている。


コミュニケーションチームからのメッセージ。


自身のYアカウントの通知。


大学の友人からのメッセージがいくつか。


そして、十数分前に届いた高橋健司からのメッセージ。


高橋:蓮さん、明日の夜の予定が最終確定しました。


蓮はもう一度、そのメッセージを読む。


明日の夜。


ビジネスイベント。


非公開の晩餐会。


主要招待客は約100名。


そして、そこで話し合われる可能性のある取引、投資、提携の総額は、10,000,000,000円を超えると見込まれている。


蓮は文字を打った。


蓮:行く。


ほとんど間を置かず、返信が届く。


高橋:行きたいかどうかは、お聞きしません。


蓮は眉をひそめた。


蓮:なんで?


高橋:すでに主要招待客の一人として登録されていますので。


蓮はスマートフォンを置いた。


「……面倒だな」


再びノートパソコンの画面を見る。


そこには、コミュニケーションチームからの報告書が開いたままだった。


フォロワー数など、もう気にしている場合ではない。


それより重要なのは、世間の注目が会社にどのような影響を与え始めているかだった。


数週間前まで、一般にはほとんど知られていなかった黒瀬ホールディングスが、今では経済記事やビジネス系のフォーラム、SNSにまで登場している。


物流のことなど何も知らない人間まで、会社の名前を知り始めていた。


そして、その始まりはあまりにも単純だった。


一枚の古い写真。


三台の車。


そして、持ち主本人がほとんど忘れていた一つのアカウント。


蓮は椅子の背もたれに体を預けた。


「……写真を載せただけなんだけどな」


再びスマートフォンが鳴った。


今度は美雪からだった。


美雪:もう起きてる?


蓮は画面の隅に表示された時刻を見る。


08時06分。


返信する。


蓮:起きてる。


美雪:朝ごはんは?


蓮:まだ。


すぐに返信が来た。


美雪:まさかコーヒーを飲んで、それを朝食にするつもりじゃないでしょうね。


蓮は黙った。


蓮:コーヒーは飲み物だ。


美雪:真面目に言ってる。


蓮:知ってる。


数秒。


美雪:何か食べて。


蓮は画面を見つめた。


そして文字を打つ。


蓮:分かった。


もう一件、メッセージが届く。


美雪:よし。


蓮は、わずかに笑った。


二人の関係は、確かに変わっていた。


数週間前なら、こんな会話は少し私的すぎるように聞こえただろう。


今は、もう違う。


数秒後、静香も会話に入ってきた。


静香:私もさっき同じこと言った。


蓮は静香の名前を見る。


蓮:二人で打ち合わせでもしたのか?


静香:してない。


美雪:偶然。


静香:ものすごく偶然。


蓮はため息をついた。


蓮:分かったよ。


美雪:ちゃんと食べてね。


静香:それと、出発前にYのコメントを読まないこと。


蓮の手が止まる。


蓮:なんで?


静香:イライラするから。


蓮:俺はそんなにイライラしない。


美雪:昨日「うるさい」って四回言ってたけど。


蓮は、そのメッセージを見つめた。


「……数えてたのか?」


08時40分頃。


蓮は簡単に朝食を済ませ、ようやくマンションを出た。


そのまま会社へ向かうわけではない。


その日の午前中に大きな会議はなかった。


高橋が各チームを通して大半の仕事を進めており、蓮自身は夜のイベントまでにいくつかの重要な予定に出ればいい。


地下駐車場へ降りる。


蓮の足が、ここしばらくほとんど乗っていなかった一台の前で止まった。


Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORY。


蓮は数秒、その車を見つめた。


手の届きにくい部分には、薄く埃が積もっている。


指先で表面をなぞる。


「……確かにな」


この車は、あまりにも長い間動かしていなかった。


ドアを開ける。


「ずっと放っておくと、かえって面倒だな」


蓮は運転席に座った。


エンジンを始動する。


その音が地下駐車場いっぱいに響いた。


遠出をするつもりはない。


しばらく走らせて、車の状態を確認する。


それだけだった。


長期間使っていない車にも、手をかける必要はある。


それに、もう一つ理由があった。


蓮はインストルメントパネルを見る。


「今夜の会に使うなら、ちょうどいいか」


Jeskoを選んだのは、見せびらかすためではない。


単純な理由だった。


この車が一番使っていない。


目立ちすぎるからという理由だけでしまい続けていれば、いずれ持っている意味もなくなる。


それに、車はあくまで機械だ。


維持するなら、普通に使ったほうがいい。


蓮は駐車場を出た。


朝の赤坂は、すでに人通りが多かった。


大通りを穏やかな速度で走る。


何人かが振り返った。


スマートフォンを向ける者もいる。


蓮はバックミラーを見る。


「……またか」


だが、今回は止まらなかった。


止まる理由もない。


09時20分頃。


蓮は黒瀬ホールディングスに到着した。


高橋はすでに執務室で待っていた。


蓮が入ると、高橋がすぐに立ち上がる。


「車、Jeskoですか?」


蓮はテーブルに鍵を置いた。


「ああ」


「珍しいですね。最近はほとんどお使いになっていませんでしたが」


「だからだ」


高橋は少し蓮を見る。


「SNSの注目を意識して、あえて目立つ車を選ばれたのかと」


蓮はすぐに高橋を見る。


「やめてくれ」


「ただの確認です」


「違う」


高橋は笑った。


「やはりそうですか」


蓮は椅子に座る。


「今日の予定」


高橋がタブレットを蓮のほうへ滑らせた。


「10時から、カントー・リテール・ロジスティクスとサクラ・フレイトに関する社内会議です」


蓮が頷く。


「昼はコミュニケーションチームとの調整」


「はい」


「夜は?」


「晩餐会です」


蓮は予定表を見る。


19時00分。


場所は東京中心部にある高級ホテルの一つ。


一般公開のパーティーではない。


娯楽イベントでもない。


招待客は限定されている。


参加するのは、企業オーナー、投資家、銀行関係者、法律顧問、コンサルタント、そして大手企業の関係者など。


高橋が続ける。


「一つ、お伝えしておくことがあります」


「何?」


「メディアはメイン会場への立ち入りを禁止されています」


「それならいい」


「ただ……」


蓮が高橋を見る。


「すでに何社かのメディアが、蓮さんが参加することを把握しています」


「どうして?」


「非公式の招待客リストが出回っています」


蓮はため息をついた。


高橋が続ける。


「そのため、ホテルの外にはカメラマンがいる可能性があります」


「中に入ってこなければいい」


「警備チームが対応します」


蓮が頷く。


「美雪と静香は?」


「美雪さんが警備の調整を担当します」


「静香は?」


「事務、書類、それからホテル側との内部調整です」


蓮は背もたれに体を預けた。


「分かった」


高橋が蓮を見る。


「二人が同行することに、異論はありませんか?」


蓮は不思議そうな顔をした。


「なんで?」


「念のため確認しただけです」


蓮はタブレットを手に取る。


「二人とも、晩餐会よりずっと面倒な問題を処理してきただろ」


高橋が小さく笑った。


「確かに、その通りですね」


10時02分。


会議が始まった。


数分後、美雪が入ってくる。


続いて静香も入室した。


今回は、初期の会議にあったような硬い空気はなかった。


美雪は蓮の隣に座る。


静香は向かい側の席についた。


高橋がサクラ・フレイトの報告を表示する。


「カントー・リテール・ロジスティクスの状況は?」


静香が資料を開く。


「セイワ・ディストリビューション・ネットワークの提案を、まだ全面的には受け入れていません」


蓮が静香を見る。


「まだ?」


「藤本正博さんは、サクラとの契約を引き続き検討しています」


美雪が尋ねる。


「今のサクラの立場は?」


静香が次のページを開く。


「三日前よりは良くなっています。ただ、まだ安全とは言えません」


数字を示す。


「価格面の圧力は残っています。カントーは引き続きコスト効率を求めています」


蓮が報告を見る。


「セイワは?」


高橋が答える。


「より攻めた価格体系を提示しています。現在サクラが利用している体系より、およそ12%低い水準です」


美雪が眉をひそめる。


「それなら、カントーがサクラに圧力をかける理由は十分にあるわね」


「はい」


蓮はすぐには答えなかった。


数字を見つめる。


そして口を開く。


「価格競争に勝つ必要はない」


静香が蓮を見る。


「カントーがセイワを選んだら?」


「それが向こうの判断なら、受け止める」


美雪が眉を上げる。


「そんなに簡単?」


「簡単じゃない」


蓮は資料を指す。


「ただ、サクラを一社の顧客に依存させるのは避ける」


静香が頷く。


「目標は25%未満」


「中期的には」


「はい」


蓮は資料を閉じる。


「今はカントーとの関係を維持する。価格を理由に、こちらから切るな」


高橋がメモを取る。


「セイワは?」


「監視する」


「何もしない?」


「今はな」


美雪が蓮を見る。


「本当に焦らないのね」


蓮が振り向く。


「どんな問題も急いで解決しようとすると、大抵は別の問題が出てくる」


静香が微笑む。


「その言葉、蓮らしい」


「なんで?」


「いつも一番面倒の少ない方法を探してるから」


蓮は少し考える。


「……悪い目的じゃないだろ」


美雪が小さく笑った。


「少なくとも、一貫してるわね」


会議は一時間以上続いた。


劇的な決定はなかった。


新たな買収もない。


システムからの報酬もない。


だが、サクラの立ち位置は明確になった。


黒瀬ホールディングスは、価格競争でセイワを追いかけない。


カントーとの関係を合理的な範囲で維持しながら、サクラの収益源を少しずつ増やしていく。


蓮にとっては、それで十分だった。


11時24分頃。


会議が終わる。


静香が資料を片付ける。


美雪が立ち上がった。


「蓮」


「ん?」


「明日の夜」


「何?」


「一人で行かないで」


蓮は美雪を見る。


「分かってる」


「本気で言ってる」


「二人と一緒に行く」


美雪が頷く。


静香が続けた。


「それと、書類を持ちすぎないこと」


蓮は静香を見る。


「なんで?」


「晩餐会よ。監査会議じゃないんだから」


蓮は淡々と答える。


「書類がないと暇になる」


美雪が笑った。


静香は呆れたように首を振る。


「変な人」


蓮はスマートフォンを手に取る。


「それは何度も聞いてる」


昼は大きな出来事もなく過ぎていった。


だが、14時10分頃。


コミュニケーションチームから、短い会議への参加を求められた。


高橋が新たに任命した社内コミュニケーション責任者、森田彩香という女性がプレゼンテーションを開く。


「蓮さん、世間の注目の変化を整理しました」


蓮は席につく。


「どうぞ」


森田がグラフを表示する。


「第一に、蓮さん個人のYアカウントが、過去の投稿によって注目を集めています」


蓮が頷く。


「第二に、経済報道がそのアカウントと黒瀬ホールディングスを結びつけています」


ページが切り替わる。


「第三に、会社の公式アカウントが主要な情報源になり始めています」


蓮は反応数を見る。


以前のように無秩序ではない。


注目が少しずつ移っている。


それこそが、蓮の望んでいたことだった。


「反応の傾向は?」


森田が答える。


「混在しています」


「否定的なのは?」


「あります」


「肯定的なのは?」


「こちらのほうが多いです」


蓮は割合には興味を示さなかった。


「一番多い質問は?」


森田がいくつかの例を表示する。


「一つ目は、21歳でどうやってこれほど大きな会社を築いたのか」


「答えはもうある」


「はい」


「二つ目は?」


「なぜ今も大学に通っているのか」


蓮は肩をすくめる。


「大学生だから」


森田が小さく笑った。


「三つ目は、なぜほとんど投稿しないのか」


蓮は考えることなく答える。


「投稿することがないから」


室内が静かになる。


同席していた美雪は笑いをこらえている。


静香は一瞬、顔を横に向けた。


森田がついに笑った。


「ずいぶん簡単な答えですね」


「そうだから」


「それなら、シンプルな情報発信の方針を維持します」


蓮が頷く。


「ない話を作るな」


「分かりました」


「俺の私生活をコンテンツにするな」


「分かりました」


「それと、あのアカウントを芸能人みたいなアカウントにするな」


森田がメモを取る。


「すでに主要方針として入れています」


静香が尋ねる。


「古いYアカウントは?」


森田が答える。


「こちらでは管理しません。あくまで蓮さん個人のアカウントです」


蓮が頷く。


「それでいい」


「ただ、追加のセキュリティ設定を有効にすることを推奨します」


「任せる」


美雪が蓮を見る。


「それと、古いパスワードを使い続けるのもやめて」


蓮は黙った。


「……変更するのを忘れてた」


美雪が鋭い目で蓮を見る。


静香もすぐに口を挟む。


「蓮」


「変える」


「今すぐ」


「ああ」


森田は笑いをこらえた。


後ろに立っていた高橋も、ついに口を開く。


「なぜあのアカウントが何カ月も放置されたまま残っていたのか、分かった気がします」


蓮が振り返る。


「なんで?」


「蓮さん、自分のアカウントの管理すら忘れていたんですね」


蓮はため息をつく。


「会社の資産じゃない」


「確かに」


夕方が近づく頃には、蓮への注目は朝ほど無秩序には動かなくなっていた。


しかし、一つ変化があった。


あのYアカウントが、ずっと以前から本当に蓮本人のものだったと、人々が知り始めたのだ。


そのため、彼がSNSを利用して意図的にイメージを作っていたという見方は、ますます弱くなっていた。


キャンペーンもない。


インフルエンサーチームもない。


人気を得るために作られた投稿もない。


あるのは、数枚のシンプルな写真が残された古いアカウントだけ。


それが、かえって人々の好奇心を強くしていた。


17時30分頃。


蓮は田中浩平からメッセージを受け取った。


田中:明日、大学来る?


蓮は返信する。


蓮:行く


田中:マジで?


蓮:なんで?


田中:俺だったら、お前みたいな会社を持ってたら、もう大学来てないかもしれない


蓮は、そのメッセージを読む。


蓮:課題は提出しないといけないだろ


すぐに返信が来た。


田中:それ、今までで一番蓮らしい答えだわ


蓮はスマートフォンをポケットに入れた。


オフィスの窓の外では、太陽が沈み始めていた。


夜が近づいている。


そして明日は、少し違う一日になる。


金のためではない。


買収のためでもない。


これまで会ったことのない人々が、会う前から蓮の名前を知っている。


そんな場所へ、蓮が初めて入る日になるからだ。


18時45分。


蓮は赤坂レジデンスへ戻った。


翌夜のための服装を、特別念入りに準備する必要はなかった。


すでに持っている黒いスーツで十分だ。


Grand Seiko Snowflake。


余計なアクセサリーはつけない。


鏡の前に立つ。


美雪からは予定表。


静香からは書類一覧。


高橋からは招待客の情報。


蓮はすべてに目を通した。


特におかしな点はない。


だが19時12分頃、美雪からメッセージが届いた。


美雪:明日17時30分に、あなたの部屋に行くから


蓮は返信する。


蓮:何のために?


美雪:出発前の最終確認


蓮:やりすぎじゃないか?


美雪:重要人物が大勢参加して、メディアの注目も高まってるのに?


美雪:いいえ


蓮はそのメッセージを読む。


そこへ静香も入ってきた。


静香:私も行く


蓮は文字を打つ。


蓮:二人とも、もう予定を組んでたんだな


静香:今回はね


蓮はため息をつく。


蓮:分かったよ


美雪から、もう一件届く。


美雪:それと、私たちが来るまで勝手にいなくならないで


蓮:自分の家にいるのに、どこへ行くんだよ


美雪:さあ


静香:突然コーヒーを買いに出かけるかもしれないし


蓮は画面を見つめる。


「……俺のこと知りすぎだろ」


翌日。


待つことなく朝がやってきた。


朝は普段と変わらない。


蓮は大学へ行く。


田中は相変わらず課題の愚痴をこぼしている。


教授は経済学の講義を続ける。


教室の中で特別扱いされることもない。


ただ、何人かの学生が、SNSに蓮の名前が出るたびにスマートフォンへ目を向けていた。


蓮は気にしなかった。


15時40分頃。


蓮は大学を出る。


今度はそのまま帰宅しない。


会社へ向かった。


サクラ・フレイトは、引き続き監視する必要がある。


セイワも動きを止めていない。


だが17時18分頃には、その日の主要な予定がすべて終わった。


蓮は赤坂レジデンスへ戻る。


地下にはJeskoがすでに停まっている。


もう一度、車両を確認する。


エンジンの状態は良好。


蓮はボンネットに手を触れた。


「少なくとも、今日は無駄じゃなかったな」


17時29分。


マンションのエレベーターが開く。


美雪が先に出てくる。


その後ろから静香が続いた。


美雪はすぐに蓮を見る。


「準備できてる?」


「できてる」


静香が服装を確認する。


「スーツ、似合ってる」


「ありがとう」


「時計は変えないの?」


蓮は手首を見る。


「なんで?」


「なんとなく。もっと目立つものを着けるのかと思って」


蓮は首を横に振る。


「これで十分だ」


美雪が頷く。


「そうね」


静香は自分の腕時計を見る。


「17時32分」


それから窓越しにJeskoを見る。


「これで行くの?」


蓮が答える。


「ああ」


美雪が笑う。


「じゃあ、ようやく一番使ってなかった車を使うんだ」


「エンジンを温める必要がある」


静香が笑った。


「すごくもっともらしい理由」


「事実だ」


美雪が小さなバッグを手に取る。


「じゃあ、行きましょう」


三人は一緒に下へ降りた。


ホテルまでの道のりは穏やかだった。


蓮が運転する。


助手席には美雪。


後部座席には静香。


しばらく、誰も話さなかった。


やがて静香が口を開く。


「蓮」


「ん?」


「明日、もし誰かがあなたに芸能関係の話を持ちかけてきたら……」


「分かってる」


「すぐに立ち去らないで」


蓮はバックミラーを見る。


「なんで?」


「誰が彼らを送り込んだのか、まだ分からないから」


美雪も口を挟む。


「それと、個人的な連絡先は教えないで」


「教えない」


静香が笑う。


「よし」


蓮は再び前方へ視線を戻した。


数分後、美雪が口を開く。


「そういえば」


「何?」


「あなたのアカウント、もう100万人に届きそうよ」


蓮は黙った。


スマートフォンを見ることもしない。


「知りたくない」


美雪が笑う。


「分かった」


静香が後ろから続ける。


「明日には超えるかもしれない」


蓮はため息をつく。


「超えないでほしい」


美雪が蓮を見る。


「本当に興味ないの?」


「何に?」


「数字に」


「ああ」


「フォロワー数が増えても、会社が良くなるわけじゃない」


後部座席から静香が答える。


「でも、人々の注目は会社に影響するかもしれない」


蓮は黙った。


分かっている。


だからこそ、少しずつ慎重になっている。


有名になりたいからではない。


世間の注目が、すでに自分のビジネス環境の一部になり始めているからだ。


それを見ないふりすることはできない。


18時52分。


車がホテルの敷地へ入る。


遠くからカメラのフラッシュが見えた。


蓮はすぐに速度を落とす。


美雪が入口を見る。


「何人かいる」


「何人?」


「少なくとも六人」


静香が後ろから確認する。


「予想より多いね」


蓮はため息をついた。


「やっぱりか」


美雪が振り向く。


「心配しないで」


「心配してない」


「心配してる顔に見えるけど」


「カメラが嫌いなだけだ」


美雪が笑う。


「知ってる」


車が止まる。


美雪が先に降りる。


続いて静香。


蓮は最後に降りた。


すぐにカメラのフラッシュが飛ぶ。


「クロセさん!」


「蓮さん!」


「本当に黒瀬ホールディングスのオーナーなんですか?」


「御社は芸能業界に進出するんですか?」


「Yのアカウントは個人アカウントなんですか?」


蓮は一瞬だけ立ち止まった。


美雪がすぐに近い通路を塞ぐ位置に立つ。


蓮は最後の質問には答えなかった。


ただ一言だけ告げる。


「こんばんは」


そして中へ歩いていく。


それだけだった。


余計なこともない。


足りないこともない。


だが、その短い一言だけで、カメラのシャッター音は再び響いた。


ホテルの中へ入ると、空気が変わった。


叫び声はない。


カメラもない。


残っているのは、静かな会話と、テーブルに置かれるグラスの音、そして互いを観察する人々の視線だった。


蓮は周囲を見回す。


見たことのない顔が多い。


だが、そのうち何人かの名前は報告書で知っていた。


投資家。


企業オーナー。


銀行幹部。


弁護士。


テクノロジー企業の関係者。


流通網を持つ企業のオーナー。


何人かは、すぐに蓮に気づいた。


50歳前後の男が近づいてくる。


「黒瀬蓮さんですか?」


「はい」


「ナカムラ・アセット・パートナーズの中村です」


蓮は握手を交わす。


「よろしくお願いします」


中村は笑う。


「サクラ・フレイトについて、拝見しました」


「そうですか」


「御社があの会社を維持するという判断、なかなか興味深いですね」


蓮は落ち着いて答える。


「状況を見ただけです」


「売却することは考えていないのですか?」


「今のところは」


中村が小さく笑う。


「先が読みにくい答えですね」


蓮は肩をすくめる。


「苦しいからという理由だけで、何かを売るのは好きじゃない」


男は数秒、蓮を見る。


それから微笑んだ。


「また後ほど、もう少しお話ししたいですね」


「分かりました」


中村が離れていく。


静香が近づいてくる。


「まだ五分よ」


「何が?」


「もう話しかけられてる」


蓮は周囲を見る。


「ビジネスイベントなんだから、普通だろ」


美雪が言う。


「それに、今夜一番話題になっている人の一人があなたよ」


蓮はため息をついた。


「言わないでくれ」


19時30分。


正式な晩餐会が始まった。


テーブルが整えられている。


会話は次々と話題を変えていく。


黒瀬ホールディングスの話だけではない。


物流。


投資。


不動産。


テクノロジー。


エネルギー。


サプライチェーン。


そして当然、金の話もある。


あるテーブルで、一人の投資家が尋ねた。


「黒瀬ホールディングスは、外部からの資金調達を考えているんですか?」


蓮は首を横に振る。


「今は必要ない」


「Miura Capitalから、10%で50億円の提案があるんですよね?」


蓮は男を見る。


どうやら、その情報もすでに出回っているらしい。


「提案はある」


「それで?」


「まだ受けていない」


投資家は笑う。


「なぜです?」


蓮は水の入ったグラスを手に取る。


「その金が必要ないから」


テーブルの数人が黙った。


蓮は続ける。


「会社に追加の資金が必要ないなら、誰かが提案してきたからという理由だけで資金を受けるのは合理的じゃない」


隣にいた人物が頷く。


「確かに」


先ほどの投資家が再び尋ねる。


「では、大規模な拡大には興味がない?」


「そういう意味じゃない」


「では?」


「合理的な拡大には興味がある」


「その違いは?」


蓮は答える。


「その金を何に使うのか決まっていないなら、まず受け取らない」


会話が一瞬止まる。


やがて男が笑った。


「シンプルな答えですね」


「そうだから」


テーブルの反対側では、静香がその様子を見ていた。


美雪も同じだった。


二人とも口を挟まない。


こんな単純な質問に答えるために、蓮が二人を必要とすることはない。


ただ、二人には分かっていた。


蓮は、この場で勝とうとしているわけではない。


ただ、本当に自分が考えていることを口にしているだけなのだ。


20時15分。


会場はさらに賑わっていく。


一つ、また一つと、ビジネスの会話が具体的な提携の話へ変わり始める。


高橋はテーブルからテーブルへ移動する。


静香は書類を確認する。


美雪は周囲を警戒する。


蓮は何人かの幹部と話していた。


そこへ、あるテクノロジー企業の取締役が近づいてきた。


「黒瀬さん」


「はい」


「流通網を拡大していると聞きました」


「段階的に」


「弊社に、使えそうな保管施設があります」


蓮が相手を見る。


「場所は?」


「神奈川と千葉です」


「稼働率は?」


「神奈川76%。千葉68%です」


蓮は興味を示した。


「運営コストは?」


取締役が数字を伝える。


蓮は話を聞く。


すぐには決断しない。


「高橋に資料を送ってください」


「興味を持っていただけましたか?」


「まず見てみる」


「分かりました」


取締役が離れていく。


静香が近づく。


「晩餐会でも新しい案件を見つけるんだ」


蓮は静香を見る。


「ビジネスイベントだからな」


「そうね」


「普通だろ」


そこへ戻ってきた美雪が言った。


「普通じゃないのは、あなたがまだ帰りたそうにしてること」


蓮は答える。


「帰りたいからな」


美雪が笑った。


「少なくとも正直ね」


21時00分。


晩餐会も終盤に入った。


何人かがテーブルを離れ始める。


だが、蓮の話はまだ終わっていない。


投資と物流の関係者三人が、高橋と同じ席についている。


そこでは、大規模な提携の可能性について話し合われていた。


タブレットの画面に表示された数字。


1,800,000,000円


蓮は提案書を見る。


「この構成だと、最初の負担が大きすぎる」


投資家の一人が尋ねる。


「下げたいのですか?」


「違う」


「では?」


「投資を段階に分ける」


「いくら?」


「まず6億円」


「残りは?」


「運営目標を達成したら、次の段階へ進む」


投資家は考える。


「リスクを下げたいんですね」


「ああ」


「それでも、あなたなら全額払えるでしょう」


蓮は答える。


「払えるからって、払う必要があるわけじゃない」


高橋は笑いをこらえた。


いかにも蓮らしい言葉だった。


投資家はやがて頷く。


「分かりました。修正します」


蓮はタブレットを閉じる。


「ありがとう」


その夜、最終的な決定はなかった。


それでも、話は前へ進んだ。


それこそが、この会の本当の目的だった。


一晩で契約を成立させることではない。


適切な人間を、同じテーブルにつかせること。


21時37分。


蓮はようやくメイン会場を出た。


美雪が後を追う。


静香は廊下で待っていた。


「疲れた?」と静香が尋ねる。


「少し」


美雪が笑う。


「ほとんど長く話してないのに」


「だから疲れるんだ」


静香が笑う。


「蓮」


「ん?」


「今夜、成功だったと思う?」


蓮は少し考える。


「ああ」


「どうして?」


「馬鹿な決定が一つもなかったから」


美雪が笑う。


「それが成功の基準なの?」


「会社にとっては、それで十分だ」


静香が頷く。


「合理的ね」


三人はエレベーターへ向かって歩く。


扉が開いたところで、蓮のスマートフォンが震えた。


画面を見る。


Yの通知。


一つの数字が目に入った。


1,002,481フォロワー。


蓮が立ち止まる。


美雪が表情を見る。


「超えた?」


蓮が頷く。


静香が近づく。


「いくつ?」


「100万人」


美雪が笑う。


「おめでとう」


蓮は美雪を見る。


「何が?」


「さあ」


静香も笑う。


「別に賞品はないけどね」


蓮はスマートフォンをポケットに入れる。


「それならいい」


三人がエレベーターへ入る。


だが、扉が閉まる直前。


システムから、一つの通知が表示された。


《公的認知度が新たな閾値に到達しました。》


蓮は画面を見る。


《公的認知度:12.4%》


続いて。


《《カリスマ EX》――パッシブ効果を検知。》


《能動的な使用はありません。》


《個人の意思決定への強制的な影響はありません。》


蓮はその表示を見つめる。


美雪が横から見る。


「また?」


「ああ」


「報酬は?」


蓮は首を横に振る。


「ない」


静香が尋ねる。


「じゃあ、何が変わったの?」


蓮はその数字を見る。


「まだ分からない」


エレベーターの扉が開く。


三人は外へ出た。


帰り道、蓮はあまり話さなかった。


Jeskoが再び東京の道路を走る。


エンジン音は安定している。


一日走らせたことで、車の調子はむしろ良くなったように感じられた。


助手席には美雪。


後部座席には静香。


しばらく三人は、夜の空気をそのまま味わっていた。


やがて静香が口を開く。


「蓮」


「ん?」


「明日も大学に行く?」


「ああ」


美雪が笑う。


「こんな夜のあとでも?」


「こんな夜だからこそ」


静香が微笑む。


「本当に変わらないね」


蓮は前方の道路を見る。


「そうだといい」


美雪が振り向く。


「どうして?」


蓮は数秒黙った。


「みんなが俺を知り始めたからって、全部が変わるなら……俺自身の人生を、自分でコントロールできてないってことになる」


美雪はすぐには答えなかった。


静香も黙っている。


やがて美雪が静かに言った。


「私は、まだあなたが自分で握ってると思う」


蓮は一瞬だけ美雪を見る。


「……そうだといいな」


車は走り続ける。


街の明かりが窓の向こうを流れていく。


SNSでは、蓮の名前が話題になっているかもしれない。


投資家たちは、彼の会社について話しているかもしれない。


メディアは、次の動きを待っているかもしれない。


だが、この車の中では、人気の話などしていない。


カメラもない。


記者もいない。


ただ、以前なら保っていた距離を少しずつなくしながら、互いに話すことに慣れ始めた三人がいるだけだった。


22時26分。


蓮は赤坂レジデンスへ戻った。


Jeskoを所定の場所へ停める。


エンジンを切る。


蓮はもう一度、その車を見る。


「少なくとも、使った意味はあったな」


エレベーターへ向かう。


1203号室へ戻ると、スーツを脱いだ。


スマートフォンが震える。


高橋からのメッセージだった。


高橋:今夜、いくつか新しい提携案件が生まれました。


蓮は返信する。


蓮:明日送って


高橋:承知しました


二件目。


高橋:それと、もう一つ。


蓮は待つ。


高橋:今夜、新しい芸能関係の提案が届きました。


蓮はすぐに打ち込んだ。


蓮:断って


返信が届く。


高橋:やはり、そうおっしゃると思いました。


蓮は、わずかに笑った。


そして、システムがもう一度表示された。


《状態変化を検知しました。》


蓮は画面を見る。


《社会的影響力が上昇しています。》


《資産、評判、そして利用者の人脈が、一つの相互強化型エコシステムを形成し始めました。》


蓮は、その文章をゆっくり読む。


金ではない。


車でもない。


家でもない。


新しい会社でもない。


初めて、システムが違うものを示した。


蓮の資産は、もはやそれだけで存在しているわけではない。


人々が蓮に注目し始めている。


会社が知られ始めている。


名前そのものに価値が生まれ始めている。


そしてSNSが、そのすべてをつなぐ一つの入口になっていた。


蓮は画面をロックする。


「……エコシステム、か」


窓へ向かって歩く。


東京はまだ明るい。


以前、蓮が望んでいたのは静かな生活だけだった。


それなのに今、望んだこともない世界が、少しずつ彼の扉を叩き始めている。


再びスマートフォンが鳴った。


美雪からだった。


美雪:もう着いた?


蓮は返信する。


蓮:着いた


静香からも続けて届く。


静香:明日、大学忘れないでね


蓮は二つのメッセージを見る。


そして、一言だけ返した。


蓮:覚えてる


スマートフォンを置く。


その夜、もうすることはない。


明日、蓮はまた大学生に戻る。


その後は会社の仕事に戻る。


そして、その先には――


何が待っているのか。


まだ分からない。


100万人のフォロワーという数字は、世間の注目の終着点ではなかった。


むしろ、その始まりなのかもしれない。


【次話 第29話「望まないほど、世界が近づいてくる」】


(望まないほど、世界が近づいてくる)


今夜の大きな晩餐会を終え、蓮の名前は物流と投資の世界をはるかに超えた、より広い領域へ入り始める。


大企業が黒瀬ホールディングスに注目し始める。


SNSでは、引き続き蓮のことが話題になる。


そんな中、システムが新たな報酬を開放する。


《絶対生活特権》


蓮はついに、システムが自分に与えているものが、単なる金や資産だけではないことに気づく。


それは、もっと測ることが難しいものだった。


自分がどのように生きるのかを、自分自身で決める自由。


そして初めて、世界が近づき始めたときに、自分が本当に守りたいものは何なのかを、蓮は決めなければならなくなる。


【第29話へ続く……】

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