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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第31話「あの名前を、もう一度」

第31話「あの名前を、もう一度」



31日目。


午前6時20分。


赤坂レジデンス1203号室は、まだ静かだった。


テレビの音もない。


会社からの電話もない。


緊急の会議通知もない。


聞こえるのは空調の音と、下を走る車の音だけだった。


蓮は目を開けた。


数秒、天井を見つめる。


それからベッド脇のテーブルからスマートフォンを手に取った。


6時20分。


特に変わったことはない。


蓮は起き上がり、浴室へ向かう。


数分後には、黒いシンプルなTシャツとルームパンツ姿でダイニングにいた。


コーヒーメーカーのスイッチを入れる。


ゆっくりとコーヒーの香りが部屋に広がっていく。


蓮は待っている間、窓の前に立った。


朝の東京は、いつも通りだった。


ビルには少しずつ明かりが増えていく。


道路も次第に混み始める。


人々が仕事へ向かっている。


始発電車は、とっくに走り始めている。


昨日が、理不尽なほど変化した蓮の人生における30日目だったことなど、誰も気にせず、すべてが動いていた。


蓮はカップを手に取る。


そして椅子に座った。


ノートパソコンを開く。


システムの報告ではない。


新しい企業のリストでもない。


投資提案でもない。


朝の経済ニュースを開いた。


いくつかの見出しが並んでいる。


「関東の物流市場、新たな調整局面へ」


「機関投資家、地域配送企業への注目を再び強める」


「日本の中堅企業、積極的な拡大より戦略的パートナーを模索」


蓮は画面をスクロールする。


特に興味を引くものはない。


そのまま流していた指が、一つの記事の前で止まった。


「西園寺インベストメント・グループ、物流・不動産分野で戦略投資網を拡大」


蓮は見出しを一度読む。


そして、もう一度スクロールした。


記事は開かない。


ただ、目を通しただけだった。


「……西園寺」


その名前には聞き覚えがあった。


頻繁に見ているからではない。


むしろ、その逆だ。


少し前に、一度聞いたことがある。


蓮はカップを持ち上げる。


そして記憶を遡った。


銀座。


ビジネスイベント。


大きな照明。


フォーマルな服装の人々。


ほとんど気にしていなかった会話。


そして、投資家たちの集団から少し離れた場所に立っていた一人の女性。


落ち着いていた。


長い髪。


読み取りにくい視線。


あまり話さない。


蓮は、あの女性と本当に話したことがあったのかさえ、確信がない。


それでも、その顔は記憶に残っていた。


何か特別な理由があったわけではない。


ただ、その女性が、ビジネスの世界の中にいることに慣れている人間のように見えたからだ。


蓮はコーヒーを一口飲む。


「……西園寺」


再び記事を見る。


今度は少し長く。


そこに書かれているのは企業名だけだった。


西園寺インベストメント・グループ。


蓮はノートパソコンを閉じる。


今、考える必要はない。


今日は大学がある。


そちらのほうが重要だった。


午前7時05分。


蓮は地下へ向かう。


エレベーターがB2階で止まる。


扉が開く。


駐車場の照明が、いつも通り灯っている。


他の住人の車は、すでに何台か出ていた。


その場所には、P9LMがまだ停まっている。


少し離れた場所には、Ghost Series II by MANSORYもある。


そしてB3階の専用スペースには、Ko〇〇nigsegg Je〇〇ko by MANSORY。


蓮は、その朝、Jeskoに乗ろうかと少し考えていた。


最後に乗ってから数日経っている。


しかし大学の駐車場を思い浮かべた瞬間、考えを変えた。


「……明日にするか」


P9LMのほうが現実的だった。


蓮は車に乗り込む。


エンジンをかける。


ナビを設定する。


赤坂 → 六本木 → 青山 → 大学。


車は地下駐車場を出る。


赤坂の道路は、すでに少し混み始めていた。


蓮は急がない。


赤信号。


前を走る車。


横断する人々。


いつもと変わらない。


交差点をP9LMが通過すると、何人かが振り返った。


蓮は気にしない。


もう慣れている。


しかし、次の信号で止まったとき、スマートフォンが震えた。


美雪からだった。


美雪:おはよう。


蓮は短く返信する。


蓮:おはよう。


数秒後。


美雪:もう出た?


蓮:ああ。


美雪:飛ばさないでね。


蓮は前方の道路を見る。


そして入力する。


蓮:飛ばしたことないだろ。


すぐに返信が来た。


美雪:Jesko持ってるじゃない。


蓮は黙った。


ダッシュボードを見る。


「……それは理由にならないだろ」


さらにメッセージが届く。


美雪:他の人にとっては、十分理由になると思う。


蓮は、思わず笑いそうになった。


返信する前に、もう一件届いた。


静香だった。


静香:朝ご飯、食べた?


蓮は画面を見る。


二人。


まったく違う質問。


それでも、行き着くところは同じだった。


蓮は入力する。


蓮:コーヒーは飲んだ。


静香から返信。


静香:それは朝ご飯じゃないよ。


蓮の手が止まる。


そして、


蓮:大学で食べる。


静香:分かった。


美雪も入ってくる。


美雪:ちゃんと食べてね。


蓮はため息をつく。


蓮:二人とも息が合いすぎだろ。


静香:


静香:蓮は監視しにくいから。


蓮は、それ以上返信しなかった。


信号が青に変わる。


P9LMが走り出す。


午前8時02分。


大学。


蓮は、いつもの場所にP9LMを停めた。


車を降りると、二本の缶飲料を持った人物が立っているのが見えた。


田中浩平だった。


「蓮!」


蓮が近づく。


「おはよう」


田中は片方の缶を差し出した。


「ほら」


蓮は受け取る。


「何これ?」


「飲み物」


「自分で買えるけど」


「知ってる」


田中は自分の缶を開ける。


「でも俺が渡せば、少なくとも『何も食べてない』とは言えないだろ」


蓮は田中を見る。


「なんで今朝は全員、食べ物の話をするんだ?」


田中は笑う。


「何十億円も管理できるのに、食事を忘れそうな人として有名だからじゃないか?」


「忘れてない」


「美雪さんが言ってた?」


蓮がすぐに振り向く。


田中は大笑いした。


「冗談だって」


二人は建物へ向かう。


田中が後ろのP9LMを見る。


「そういえば、Jeskoは?」


「家」


「なんで持ってこないんだ?」


「大学は、ああいう車を置く場所じゃない」


田中は頷く。


「まあ、確かに」


少し考える。


「Ghostも?」


「家」


「じゃあ、まだ三台持ってるってことか」


蓮は田中を見る。


「なんで俺の車の台数のほうが大学より興味あるんだ?」


「大学はつまらないから」


「理由になってない」


「俺には十分」


蓮はため息をついた。


田中がスマートフォンを見せる。


「そうだ。お前のアカウント、まだ増えてるぞ」


蓮は見ない。


「放っておけ」


「今、何人?」


「知らない」


「100万人超えてる」


「知ってる」


「本当に気にしてないのか?」


蓮は建物の扉を開ける。


「会社を誰が動かすかのほうが気になる」


田中は笑った。


「やっぱりお前、変だわ」


蓮は中へ入る。


「どうも」


「褒めてないぞ」


「知ってる」


午前9時10分。


講義はいつも通り進んだ。


蓮はいつもの席に座る。


教授が企業経済について説明している。


何人かの学生が、ときどき蓮を見る。


数週間前とは違う。


今では、視線もかなり露骨になっている。


それでも、特に邪魔されることはなかった。


二時間近く経ち、講義が終わる。


田中が本を片付ける。


「蓮」


「ん?」


「このあと、そのまま会社?」


「ああ」


「飯は?」


蓮は田中を見る。


田中は両手を上げた。


「分かった、分かった。もう食事の話はしない」


蓮は本をバッグに入れる。


そのとき、スマートフォンが震えた。


高橋からだった。


高橋:蓮さん、大学が終わりましたら、少し早めに来ていただけますか?


蓮は返信する。


蓮:何かあった?


すぐに返事が来た。


高橋:緊急ではありません。


高橋:ただ、直接見ていただきたい書類があります。


蓮は少し考える。


蓮:今から行く。


スマートフォンをしまう。


田中が見る。


「仕事?」


「ああ」


「無事を祈る」


蓮は田中を見る。


「ただ会社に行くだけだぞ」


「それ、全部がおかしくなる前にも言ってたよな」


蓮は答えなかった。


田中が笑う。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


午前10時05分。


蓮は駐車場へ戻る。


P9LMに乗り込む。


エンジンをかける。


大学から黒瀬ホールディングスまで、青山、外苑東通りを抜け、ビジネス街へ向かう。


交通量はかなり多い。


蓮は急がない。


午前10時38分。


黒瀬ホールディングスのビルに到着する。


地下駐車場へ車を入れる。


蓮が降りる。


エレベーターに乗る。


オフィスフロア。


扉が開くと、少し離れた場所に高橋が立っていた。


「お待ちしていました」


「急ぎじゃないって言ってたよな」


「はい。実際、急ぎではありません」


「じゃあ、なんでそんなに悪い知らせを持ってきたみたいな顔してる?」


高橋は笑う。


「経験から学んでおります」


「何の経験だ?」


「私が『少し問題があります』と言うと、蓮さんは普段の十倍くらい質問されるので」


蓮は歩き出す。


「なら、やり方は分かってるな」


「残念ながら」


二人は執務室へ入る。


机の上には、いくつかの資料が置かれていた。


高橋がタブレットを置く。


「まず、会社の状況です」


蓮は座る。


「ヤマトは?」


「安定しています」


「三井は?」


「安定しています」


「サクラは?」


「まだ決着していません」


蓮は頷く。


「カントーは?」


「最終的な判断はまだです」


「セイワは?」


「引き続き接触を続けています」


蓮は報告書を開く。


大きな変化はない。


サクラは、カントー・リテール・ロジスティクスから取引量の大部分を失うリスクを依然として抱えている。


ただし、サクラ側もすでに複数の代替案を準備し始めていた。


蓮は最後のページまで読む。


「いいな」


高橋が見る。


「いい、ですか?」


「カントーを無理に引き留めることはできない」


「おっしゃる通りです」


「だから、離れたとしてもサクラが立てるようにしておけ」


高橋は頷く。


「その方向で進めています」


蓮は報告書を閉じる。


「二つ目は?」


高橋はすぐには答えなかった。


灰色のファイルを一つ取り出す。


「ミウラ・キャピタルです」


蓮はファイルを見る。


「修正版?」


「はい」


蓮は受け取る。


一ページ目を開く。


以前の提案が残っている。


その下に修正版。


投資額:50億円


持分:10%


投資期間:5~7年


投資家権利:限定的


取締役会席:非執行


投資家保護権:特定条件下で適用


蓮は最後のページまで読む。


「変わってないな」


「基本構造は同じです」


「何が変わった?」


「投資家保護条項の一部が、より受け入れやすい形に調整されています」


「なぜ?」


「提案を受け入れやすくするためでしょう」


蓮は背もたれに寄りかかる。


「必要ないって、もう伝えただろ」


高橋は頷く。


「承知しています」


「それなのに、なぜ送ってくる?」


「黒瀬ホールディングスの立場が変わると考えているからです」


蓮は高橋を見る。


「根拠は?」


高橋がタブレットをスライドさせる。


「御社の成長です」


いくつかのグラフが表示される。


「ヤマトは安定。三井も安定。サクラは圧力を受けていますが、致命的ではありません。キャッシュフローは強く、純資産を見ても外部資本を必要とする状況にはありません」


蓮は頷く。


「それで?」


「彼らは、機会を見ているのでしょう」


蓮は画面の50億円という数字を見る。


「みんな機会を見てるな」


高橋は薄く笑った。


「だから、私からはすぐに返答していません」


蓮はファイルを閉じる。


「今のところ、断る」


「承知しました」


高橋に失望した様子はない。


しかし、ファイルを戻そうとしたところで、蓮が言った。


「完全には断るな」


高橋の手が止まる。


「蓮さん?」


「何を本当に望んでいるのか、まだ分からない」


高橋は頷く。


「では?」


「構造を調べろ」


「ミウラ・キャピタルを?」


「ああ」


「どこまで?」


「所有構造。主要パートナー。ポートフォリオ。ビジネス上の関係」


蓮は少し考える。


「それと、よく一緒に仕事をしている企業も」


高橋はメモを始める。


「承知しました」


「投資家としてだけ見るな」


「どういう意味でしょう?」


「俺たちに50億円を出そうとしてるなら、理由がある」


蓮は資料を指す。


「持ってくるのは金だけじゃない」


高橋は薄く笑った。


「同感です」


「理由が分かれば、本当に使えるものがあるのか判断できる」


「承知しました」


高橋はタブレットを閉じる。


「調査チームに確認させます」


蓮は頷く。


「急ぐな」


「どれくらいですか?」


「大事なのは、正確であることだ」


高橋は小さく笑った。


「いかにも蓮さんらしい答えですね」


午後12時02分。


蓮が執務室を出る。


ラウンジには美雪がいた。


タブレットを確認しながら立っている。


蓮を見ると、顔を上げた。


「終わった?」


「まだ」


「まだあるの?」


「少し」


美雪は蓮の顔を見る。


「何か考えてる顔してる」


「ミウラ・キャピタル」


美雪はすぐに理解した。


「50億の提案?」


「ああ」


「まだ断る?」


「今のところは」


美雪は頷く。


「まあ、そうよね」


蓮は美雪を見る。


「理由は聞かないのか?」


「分かるから」


「何?」


「あなた、金が必要ないからでしょ」


蓮は黙る。


美雪が小さく笑う。


「そうでしょ?」


「ああ」


そこへ、廊下の奥から静香が現れた。


「何が?」


美雪が答える。


「蓮がミウラからの投資を受けないって話」


静香は頷く。


「やっぱり」


蓮は二人を見る。


「二人とも、もう聞かなくていいのか?」


静香は笑った。


「一か月一緒に仕事してれば、分かりやすいパターンもいくつか出てくるよ」


「例えば?」


「会社に十分な金があるなら、追加の金を探さない」


蓮は頷く。


「ああ」


「問題があったら、まず問題そのものを直そうとする」


「ああ」


「それと、誰かがあまりにも多くの利益を提示してきたら、逆に『何が目的なんだろう』って考える」


蓮は静香を見る。


「……それは合ってる」


美雪が小さく笑う。


「私たちも、少しずつ蓮のことが分かってきたってことね」


蓮は二人の横を通り過ぎる。


「調子に乗るなよ」


静香がついてくる。


「怖い?」


「違う」


「じゃあ?」


「そこまで知られたら、隠れられなくなる」


美雪が微笑む。


「あなた、本当は一度も隠れてないじゃない」


蓮が振り向く。


「隠れようとはしてた」


美雪が静かに答える。


「それが問題なのよ」


午後12時25分。


三人は赤坂周辺のシンプルなビジネス向けレストランで昼食を取った。


個室はない。


宴会でもない。


ただ三人が普通のテーブルで食事をしているだけだった。


蓮はここ数日と同じメニューを選ぶ。


静香が見る。


「本当に飽きないの?」


「まだ」


美雪が笑う。


「変わらないわね」


蓮は箸を取る。


「変わる理由がない」


静香が飲み物のボトルを開ける。


「じゃあ、聞きたいことがある」


「何?」


「二か月目に入った気分は?」


蓮は考える。


「まだ分からない」


「どうして?」


「今朝も同じだったから」


美雪が笑う。


「起きて、コーヒー飲んで、大学」


「ああ」


静香が続ける。


「それから会社」


「ああ」


「じゃあ、何が変わった?」


蓮は少し止まり、二人を見る。


「会社に来る人間が増えた」


美雪が頷く。


「それで?」


「欲しいものがある人間も増えた」


静香が黙る。


蓮は続ける。


「たぶん、それが一番疲れる」


美雪が尋ねる。


「ミウラも?」


「それだけじゃない」


「メディア?」


「それも」


「投資家?」


「当然」


静香が蓮を見る。


「それなのに、どうしてまだ落ち着いてるの?」


蓮は肩をすくめる。


「全部受け入れる必要がないから」


美雪が微笑む。


「シンプルな答えね」


「その通りだ」


午後1時18分。


昼食を終え、蓮は会社へ戻った。


高橋が待っていた。


しかし、今度は表情が違う。


手にはファイルではなくタブレットがある。


「蓮さん」


「何か分かった?」


「少し」


蓮は座る。


「もう?」


「以前のデータが一部残っていましたので」


高橋が画面を開く。


「ミウラ・キャピタルには、少し興味深いビジネス上の関係があります」


蓮は画面を見る。


企業名がいくつも表示される。


物流関連。


不動産。


製造業への投資。


特におかしなものはない。


だが、その一番下に一つの名前が表示された。


西園寺インベストメント・グループ。


蓮の視線が止まる。


「……西園寺」


高橋が頷く。


「はい」


蓮は画面を近くで見る。


「関係は?」


「ミウラ・キャピタルは、過去に二つの投資案件で彼らと協業しています」


「どんな案件?」


「商業不動産と、地域物流です」


蓮は詳細を読む。


複雑な所有構造がいくつかある。


ミウラが西園寺インベストメント・グループの株式を直接保有しているわけではない。


その代わり、複数の中間会社とジョイントベンチャーを通じた関係が存在している。


蓮は眉を寄せる。


「同じ会社ってわけじゃない」


「はい」


「でも、繋がっている」


「ビジネス上の関係です」


蓮は黙った。


また、その名前が出てきた。


西園寺。


今朝の経済記事。


そして銀座で見た女性。


蓮は数秒、画面を見つめる。


高橋が様子を見る。


「その名前をご存じですか?」


「名字だけな」


高橋が眉を上げる。


「会ったことが?」


「直接じゃない」


「どこで?」


「銀座」


高橋が考える。


「ビジネスイベントですか?」


「ああ」


蓮は背もたれに寄りかかる。


「女の人だ」


高橋はいくつかの資料を開いた。


「もし蓮さんが言っている女性が西園寺家の本家出身であれば……」


高橋が止まる。


蓮が見る。


「誰?」


高橋は別の資料を開いた。


画面に、プロフェッショナルな写真が表示された。


長い髪。


落ち着いた表情。


フォーマルな服装。


カメラをまっすぐ見つめる視線。


蓮は写真を見る。


そして記憶が繋がった。


銀座。


数週間前。


部屋の反対側に立っていた女性。


あまり話さなかった女性。


投資家と話していたときに、蓮が一度見た女性。


蓮は顎で画面を指す。


「ああ」


高橋が見る。


「ご存じですか?」


蓮は首を横に振る。


「知らない」


少し間を置く。


「でも、見たことはある」


高橋はプロフィールを読む。


「西園寺麗華。23歳。西園寺インベストメント・グループの戦略投資部門の一つを担当しています」


「一族の会社?」


「はい」


「立場は?」


「まだ正式にトップを務めているわけではありません。ただ、いくつかの投資判断における影響力はかなり大きいようです」


蓮は頷く。


「若いな」


「はい」


「それで投資を担当してる?」


「そうです」


蓮は数字に目を通す。


西園寺インベストメント・グループは、小さな会社ではない。


ポートフォリオも広い。


不動産。


物流。


金融。


テクノロジー。


複数の分野にまたがるプロジェクト。


しかし蓮が特に興味を持ったのは、会社の規模ではなかった。


目を止めたのは、別の項目だった。


ミウラ・キャピタルとの戦略的関係。


蓮が指を向ける。


「これ」


「はい」


「これが、あいつらが提案を送ってきた理由?」


高橋は首を横に振る。


「まだ断定できません」


「推測するな」


「承知しました」


「調べろ」


「すでに依頼しています」


蓮は頷く。


「それでいい」


高橋が資料を閉じようとする。


蓮が呼び止める。


「高橋」


「はい?」


「西園寺がミウラとビジネス上の関係を持ってるからって、避ける必要はない」


高橋は頷く。


「同感です」


「逆に、受け入れる理由にもならない」


「それもその通りです」


蓮は背もたれに寄りかかる。


「だから、数字を見る」


高橋が笑う。


「いつも通りですね」


「それが普通だろ」


午後3時07分。


執務室は再び静かになった。


蓮は別の報告書を読んでいる。


しかし今度は、時々一つの名前に思考が戻った。


西園寺麗華。


銀座での出会いを思い出そうとする。


あの時、二人は長く話していない。


蓮は少し離れた場所から見ただけだった。


それでも、表情は覚えている。


落ち着いていた。


あまり動かない。


目立とうとしているようにも見えなかった。


だから、顔を覚えやすかったのかもしれない。


あるいは、周囲があまりにも騒がしかったからこそ、その女性が逆に落ち着いて見えたのかもしれない。


蓮は再び報告書に目を戻す。


どうでもいい。


少なくとも、今は。


そのとき、スマートフォンが震えた。


美雪からだった。


美雪:蓮。


蓮:ん?


美雪:西園寺のこと、聞いた?


蓮の手が止まる。


数秒、メッセージを見る。


そして返信する。


蓮:さっき知った。


美雪:高橋から聞いた?


蓮:ああ。


美雪:気をつけて。


蓮は入力する。


蓮:なんで?


すぐには返信が来なかった。


数十秒後。


美雪:危険だからって意味じゃない。


蓮は読む。


美雪:西園寺家は、普通の企業だと思って接していい相手じゃないから。


蓮は画面を見る。


蓮:影響力?


美雪:それも一つ。


蓮:他には?


美雪はすぐには答えなかった。


そして、


美雪:繋がりが広い。


美雪:黒瀬ホールディングスが深く入りすぎたら、いろんなものが一緒についてくる可能性がある。


蓮は二つのメッセージを読む。


蓮:まだ何も入ってない。


美雪:


美雪:分かってる。


美雪:だから今、言ってるの。


蓮は小さく笑う。


蓮:ありがとう。


数秒後。


美雪:あまり早く信用しないで。


蓮は返信する。


蓮:俺、そんなに簡単に信用しない。


美雪:


美雪:それならいい。


蓮はスマートフォンを置いた。


それから間もなく、静香からもメッセージが来た。


静香:西園寺の名前が出たって聞いた。


蓮はため息をつく。


「……早いな」


返信する。


蓮:ああ。


静香:何があったの?


蓮:ミウラ・キャピタルとビジネス上の関係がある。


静香:コンプライアンス面、確認する。


蓮:まだ深くは調べなくていい。


静香:どうして?


蓮:まだ何も受けてない。


静香から返信。


静香:それはそう。


静香:でも、決める前に知っておいたほうがいい。


蓮はメッセージを見る。


蓮:同感。


午後4時42分。


高橋が再び入ってきた。


「蓮さん」


「ん?」


「一つ、動きがありました」


蓮はノートパソコンを閉じる。


「何?」


高橋がタブレットを差し出す。


「西園寺インベストメント・グループから連絡が入りました」


蓮は読む。


非公式な連絡の申し入れ。


正式な提案ではない。


投資のオファーでもない。


大規模な会議への招待でもない。


ただ、非公式に会って、今後の協力の可能性について話したいという申し入れだった。


蓮は眉を寄せる。


「早いな」


「先ほど届いたばかりです」


「誰から?」


「コーポレート・ストラテジー部門です」


「誰の名義?」


高橋が下の部分を指す。


西園寺インベストメント・グループ。


個人名はない。


蓮は最後まで読む。


短い。


丁寧。


圧力もない。


金額もない。


投資の要求もない。


ただ、西園寺側が黒瀬ホールディングスの今後の方向性を、より詳しく知りたいという内容だった。


蓮はタブレットを置く。


「まだいい」


高橋は頷く。


「断りますか?」


「いや」


高橋が止まる。


蓮は説明する。


「今断ったら、情報がないまま判断することになる」


「では、保留?」


「ああ」


「何と返します?」


蓮は少し考える。


「社内確認が終わってから検討すると伝えてくれ」


「承知しました」


高橋が入力を始める。


そして尋ねる。


「今回の申し入れを、実際に誰が始めたのか調べましょうか?」


蓮は頷く。


「ああ」


「承知しました」


「それと、もう一つ」


「はい?」


「まだ面会は組むな」


高橋は笑う。


「承知しました」


「本当に話したいだけなら、待てるだろ」


「分かりました」


高橋は出ていく。


蓮は再び画面を見る。


そこには、まだ会社名が残っていた。


西園寺インベストメント・グループ。


そして、その下には先ほどの女性のプロフィール。


西園寺麗華――Saionji Reika。


蓮は背もたれに寄りかかる。


二つが直接繋がっているのかは分からない。


繋がっているかもしれない。


そうではないかもしれない。


ただ、その名前が一日の中で二度、三度と現れた。


朝は経済ニュース。


昼はビジネス資料。


午後は面会の申し入れ。


一日に三度の偶然。


蓮はため息をつく。


「……ただの偶然だといいんだけどな」


午後6時10分。


主な仕事を終える。


蓮は黒瀬ホールディングスを出た。


そのまま帰るつもりだった。


だが地下へ降りると、駐車場に停められたP9LMが目に入る。


その反対側には、Ghost Series II by MANSORY。


そしてB3階には、Jesko。


蓮は少し立ち止まる。


車たちを見る。


「三台か」


小さく笑う。


「……それでも、いつも同じのに乗ってるな」


P9LMのキーを手に取る。


しかし、ふと思い出した。


もう何日もJeskoを運転していない。


蓮は時計を見る。


まだ十分早い。


考えを変える。


エレベーターに乗り、B3階へ向かう。


数分後、蓮はJeskoの前に立っていた。


車は今も新車のように見える。


ドアを開ける。


乗り込む。


エンジンをかける。


V8の音が地下駐車場に響いた。


蓮は薄く笑う。


「……まだ生きてるな」


しばらくエンジンを回す。


特に目的地はない。


予定もない。


ただ、乗りたかった。


エンジンの温度が十分に上がるのを待ち、蓮は地下駐車場を出る。


走るルートは、


赤坂 → 外堀通り → 青山通り → 赤坂。


遠くはない。


遠くまで行く必要もない。


ただ運転する。


東京の夜は少しずつ混み始めている。


車のライトがボディに反射する。


何人かが、また振り返る。


蓮は気にしない。


蓮にとって、Jeskoは他人に何かを見せるための道具ではない。


ただの車だ。


確かに高い。


普通の生活からすれば、あまりにも高すぎる。


それでも、結局は物だ。


重要なのは、それをどう使うか。


短い距離を何度か走ったあと、蓮は赤坂レジデンスへ戻る。


午後7時02分。


JeskoがB3階の駐車スペースへ戻る。


蓮はエンジンを切る。


静寂。


車を降りる。


ドアを閉める。


そしてエレベーターへ向かう。


扉が閉まる直前、スマートフォンが震えた。


高橋からだった。


高橋:蓮さん。


蓮:ん?


高橋:先方から返事が来ました。


蓮は画面を見る。


蓮:西園寺?


高橋:はい。


蓮:何て?


高橋から長めのメッセージが届く。


蓮はゆっくり読む。


黒瀬ホールディングスが、すぐに面会しないという判断を受け入れる。


異論はない。


圧力もない。


ただ、最後に一つだけ文章があった。


高橋:もし、いつか蓮さんがお話しされる気になった際には、先方はスケジュールを合わせる用意があるとのことです。


蓮はスマートフォンをポケットに入れる。


「……気長だな」


エレベーターの扉が開く。


蓮は歩いて部屋へ向かう。


午後7時24分。


赤坂レジデンス1203号室。


蓮はコーヒーを淹れる。


ソファに座る。


テレビはつけない。


テーブルの上ではノートパソコンが開いている。


再び西園寺の資料を見る。


そこには、まだ麗華の名前がある。


蓮は数秒、その写真を見る。


銀座で見た女性。


あの時は、それほど気にしていなかった。


今は、別の文脈で名前が現れている。


それでも――


蓮は、何かをする必要があるとは思わなかった。


まだ。


ミウラ・キャピタルの報告書を再び開く。


続いて、ビジネス関係の資料。


一つずつ確認する。


ミウラ。


西園寺。


不動産。


物流。


投資。


すべてが、Volume 1の初めに想像していたよりも広いネットワークの中で繋がっている。


以前、蓮が気にしていたのは、静かに暮らすために十分な金をどうやって得るかだった。


今は、自分が所有する会社が、他の企業とどう関わるのかを考えなければならない。


悪いことではない。


ただ、少し複雑になっただけだ。


蓮はノートパソコンを閉じる。


「……なら、ゆっくりでいい」


システムは現れない。


報酬もない。


機械的な音声もない。


そして蓮は、むしろそれを気に入っていた。


すべての問題に報酬が必要なわけではない。


すべての出会いが金を生む必要もない。


新しく現れた名前のすべてが、自分の人生の一部になる必要もない。


それでも、その夜、一つの名前だけで二か月目の始まりは少し違って感じられた。


西園寺。


午後8時16分。


蓮のスマートフォンが再び震えた。


美雪からだった。


美雪:もう着いた?


蓮:着いた。


美雪:Jesko?


蓮は笑う。


蓮:なんで分かる?


美雪:静香が駐車データを見たって。


蓮の手が止まる。


蓮:今度は車まで監視してるのか?


美雪:違う。


美雪:変なことしてないか確認してるだけ。


蓮は入力する。


蓮:少し乗っただけだ。


美雪:それならいい。


続けて、


美雪:夕飯、忘れないでね。


蓮は時計を見る。


20時17分。


まだ夕食を食べていない。


「……面倒だな」


そこへ静香からメッセージが届く。


静香:まだ食べてないでしょ?


蓮は画面を見る。


蓮:まだ。


静香:やっぱり。


蓮:食べる。


静香:それならいい。


美雪:コーヒーだけで済ませないでね。


蓮はため息をつく。


蓮:分かった。


立ち上がる。


食品棚を開ける。


少し考える。


その夜、レストランに行く必要はない。


簡単な食事を取り出す。


特別なものではない。


それが、なぜかちょうどよかった。


午後9時03分。


蓮は再びダイニングテーブルに座る。


皿は空になっている。


ノートパソコンの隣には、二杯目のコーヒー。


蓮は先ほど閉じた資料を再び開く。


また麗華の写真が表示される。


蓮は見つめる。


「西園寺麗華」


その名前は、知らないようでいて、どこか聞き覚えがある。


二人が親しいわけではない。


そもそも、まだ本当の意味で互いを知っているわけでもない。


それでも、今の蓮には一つだけ分かっていることがあった。


あの銀座での出会いは、ただ通り過ぎた見知らぬ女性を見ただけではなかった。


その女性は、蓮が想像していたよりもはるかに大きなビジネスの世界にいた。


そして今、その世界が蓮のほうへ動き始めている。


蓮が探したわけではない。


システムに強制されたわけでもない。


金が必要だったわけでもない。


ただ、自分が築いた会社が少しずつ大きくなり、より長く存在してきた企業と接点を持つ規模になっただけだった。


蓮はもう一度、資料を見る。


そして閉じる。


「……用事があるなら、そのうち来るだろ」


カップを手に取る。


コーヒーを飲む。


そして、夜を再び静かに過ごした。


午後10時37分。


蓮はベランダに立っていた。


目の前には東京が広がっている。


車のライトが細い線のように動いている。


高層ビルの明かりが灯っている。


遠くからサイレンの音がかすかに聞こえる。


手にはスマートフォン。


高橋から最後のメッセージが届いた。


高橋:蓮さん、西園寺側には、まだ予定を決められないと伝えました。


高橋:先方も了承しています。


蓮は返信する。


蓮:分かった。


数秒後。


別のメッセージが届く。


高橋:もう一つあります。


蓮は待つ。


高橋:今回の接触を始めた人物は、通常の投資チームではありません。


蓮は眉を寄せる。


蓮:じゃあ、誰?


高橋はすぐには返さなかった。


そして、


高橋:一族の戦略部門です。


蓮は画面を見つめる。


一族。


単なる企業ではない。


先ほどの女性の写真を思い出す。


西園寺麗華。


蓮はスマートフォンをポケットに入れる。


「……面白いな」


それ以上でも、それ以下でもない。


明日何が起こるのかは分からない。


何も起こらないかもしれない。


新しい報告書だけかもしれない。


西園寺が引くかもしれない。


別の提案を送ってくるかもしれない。


ただ、一つだけ変わったことがある。


銀座で一度だけ見た名前が、今は再び目の前にある。


より明確に。


より近く。


そしてVolume 2が始まって以来、初めて蓮は、自分がより大きなビジネスの世界から扉を叩かれ始めていることを自覚した。


蓮は扉を開けない。


まだ。


ただ、その向こうに立っている。


音を聞いている。


午後10時40分。


蓮はベランダの照明を消す。


リビングへ戻る。


ノートパソコンを閉じる。


コーヒーカップをシンクへ置く。


車のキーをテーブルに置く。


明日も大学がある。


そのあと会社。


予定は変わらない。


西園寺家との面会もない。


ビジネスディナーもない。


まだ。


蓮は寝室へ向かう。


眠る前、少し立ち止まる。


スマートフォンの画面が点灯した。


会社のメールから、一件の通知。


【西園寺インベストメント・グループ――非公式連絡の申し入れ】


蓮は件名を見る。


そして画面を消す。


「……明日でいい」


スマートフォンを置く。


ベッドに横になる。


目を閉じる。


頭の中に、その名前が一度だけ浮かぶ。


西園寺。


そして、眠気が意識を包み始めるとともに消えていった。


だが、蓮はまだ知らない。


同じ夜、東京の別の場所で、もう一人の人間も同じ報告書を見ていることを。


その報告書の最初のページには、一つの名前があった。


黒瀬 蓮


そして、その下に、


黒瀬ホールディングス。


その机の反対側では、一人の女性が静かにその資料を閉じていた。


視線は、一枚の写真で止まる。


ビジネスイベントの中に立つ、一人の若い男。


数週間前に見たことのある顔。


そして、今も記憶に残っている顔。


女性は笑わなかった。


ただ、静かに呟く。


「……本当に、私たちの投資を必要としていないのね」


資料が閉じられる。


表紙にある名前が、はっきりと見える。


西園寺麗華


そして、その夜は一度も顔を合わせることなく終わった。


まだ。


だが、明日から――


二つの世界の距離は、少しずつ縮まっていく。


【第32話「彼女は、俺を覚えていた」へ続く】


(彼女は俺を覚えていた)


31日目。


蓮がまだ西園寺を、客観的に調査する必要のある一つのビジネス上の名前として捉えている一方、東京の別の場所では、西園寺麗華が黒瀬ホールディングスの詳細な報告書を読み始めていた。


そこには、普通とは少し違う存在がいた。


一人の若い会社経営者。


その男は、


- 評価を追い求めない。

- 外部資本を必要としていない。

- 西園寺という名前を恐れている様子がない。

- そして、会う機会を提示されても、あえて面会を保留した。


麗華は、銀座での短い出会いを思い出す。


あの時、蓮は彼女に近づこうとさえしなかった。


そして今、麗華は一つの疑問を抱き始める。


「あの男は、本当に報告書に書かれている通りの人なの?」


そして初めて、麗華は自分自身で確かめることを決めた。


【第32話――POV:西園寺麗華】


直接の対面は、まだない。


しかし、好奇心はすでに始まっていた。

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