第98話 第一覚醒
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
暗い水面の下で、最初に聞こえたのはティアナの声だった。
「アルト。守る人たちと敵の魔力は、根で分ける。だから、まだ選ばないで」
遠い。
けれど、名前は分かった。
ティアナ。
柔らかな緑の光ではない。十五歳の少女で、僕と同じ防衛線に立っている仲間だ。
『すべて喰え』
ベルゼバスの声が、暗い水底から響いた。
光がいくつも浮かんでいる。
人間の魔力。精霊の魔力。学院結界を走る巨大な流れ。そして南側にある、災厄の心臓。
どれも同じ食べ物に見えた。
すべて喰えば、この飢えは消える。
その囁きに応じるように、僕の意識から四本の暗い線が伸びていく。
一つは人間たちへ。
一つは精霊たちの休息区画へ。
一つは学院結界の導線へ。
最後の一つは、不完全アークデーモンの心臓へ。
まだ何も喰っていない。
それでも、線の先にある魔力へ歯を立てようとする感覚があった。
現実の僕は、成人治療職員が敷いた毛布の上に倒れていた。
「呼吸あり。脈拍は速いが維持しています」
水面越しに、バルト先生の声が聞こえる。
「瞳孔反応は弱い。左腕周辺の温度が上昇。封魔具の二重固定は維持されています」
僕の周囲には八歩の空間がある。
成人警備員と成人封印官が物理遮断板を立て、誰も暗い線へ触れない位置を保っていた。
「四方向へ指向が伸びています」
成人記録官の針が目盛り板を走る。
「人員区画、精霊休息区画、中央結界導線、南側の心臓遺物です。吸収量は、いずれも零」
セレネ先生が学院長へ報告した。
「まだ探している段階です。三方向を分離できれば、南側だけを残せる可能性があります。ただし、対象を選ぶのはアルト本人です」
学院長は中央制御盤から離れず、即断した。
「第一目的は人間、精霊、学院結界の保護。分離作業を承認する。成人警備隊は安全距離を維持。保守班、根束と土嚢を運べ」
命令を受け、成人保守職員と十回生たちが動いた。
残っていた《根壁連砦》の根へ、学院防災備蓄の根束を接続する。土嚢で浮きを押さえ、水を含ませ、床の物理楔へ固定した。
僕の周囲を囲む人間側。
東の精霊休息区画へ続く通路。
中央分節結界の導線。
三つの区画へ根が伸びる。
南側だけは閉じない。
ティアナは根の起点へ片膝をついた。
脚は既に震えている。呼吸も浅い。
バルト先生が手首の脈を確認する。
「範囲は十二歩以内。一度だけだ。発動後は退く」
「分かってる」
ティアナは土嚢の上へ両手を置いた。
一呼吸。
根の配置を確認する。
二呼吸。
人間側の輪を見た。
三呼吸。
精霊たちのいる東側へ目を向ける。
四呼吸。
床下を走る結界導線を成人記録官と照合する。
五呼吸。
南側に残す一筋を確かめる。
六呼吸目、震える声を止めずに詠唱した。
「大地よ、根を束ね、守る命の道を囲み、侵す魔力の流れを分かて。味方の脈を内へ退け、敵より伸びる一筋だけを外へ残せ――第二階位・土・植物複合魔法《根界分離》」
根が一斉に床へ密着した。
人間を囲む第一の根は、誰の足にも絡まない。魔力を吸い取ることもなく、僕から伸びる暗い線だけを輪の外へ押し出した。
第二の根は、精霊休息区画へ続く通路を囲む。
第三の根は、学院結界の導線へ沿った。
壁や床を流れる魔力は止まらない。ただ、僕から伸びた線だけが導線本体から剥がされる。
暗い水面の下でも、その変化が見えた。
人間、精霊、結界へ伸びていた三本が、根によって外側へ浮かぶ。
南側の一本だけは、真っ直ぐ残っていた。
「分けたよ、アルト」
ティアナの声が沈んでくる。
「守る人たちは根の内側。南の一筋だけが外」
詠唱を終えたティアナの身体が傾いた。
成人治療職員が支え、起点から離れすぎない位置へ座らせる。指先は痺れ、脚も止まらないほど震えている。
それでも、三つの根区画は保たれていた。
「分離を確認。切断対象、三本!」
セレネ先生の声に、フィアが前へ出る。
右手首には成人治療職員が取り付けた固定具がある。痺れは消えていない。固定具は手首の角度を保つだけで、握力までは戻してくれない。
成人警備員二人が、フィアの左右へ盾を置く。
彼女は細剣の柄を固定具の革帯へ通し、弱った指で握った。
「紫電よ、我が刃に沿い、偽りの脈だけを断て――第一階位・雷魔法《雷装・断脈》」
必要最小限の紫電が刃を走る。
フィアは僕へ向けて剣を振らない。
切っ先を床へ触れさせ、根の外側へ浮いた暗い線へ雷を流した。
人間側へ伸びる一本が、紫の点滅によって現れる。
強くなる。
弱まる。
もう一度強くなり、短い休止点が訪れる。
フィアは半歩だけ踏み込んだ。
「《雷剣・断線》」
細剣が人間側の線だけを横切った。
暗い線が切れ、誰の身体にも刃は届かない。人間の魔力も魂も、そのまま残っている。
反動でフィアの右手が跳ねた。
それでも剣を落とさず、東へ切っ先を向け直す。
精霊休息区画へ伸びる二本目。
紫電が周期を示す。
フィアは一度待ち、最も弱くなった瞬間だけを斬った。
線が途切れる。
精霊たちの淡い光は失われない。
三本目は学院結界へ伸びていた。
床下の導線と重なって見える。
切る位置を誤れば、学院中央の防御そのものを傷つける。
「導線本体は右へ半歩」
成人記録官が目盛り板を読む。
「切断対象は上側です」
フィアは剣先を指一本分だけ上げた。
呼吸が乱れている。
紫電の反動が手首から肩へ昇り、右腕全体を震わせた。
それでも周期を三度確認する。
休止点。
細剣が短く走った。
暗い誘導線だけが断たれ、学院結界の魔力は壁と床を流れ続けた。
フィアの指が柄から離れる。
成人警備員が落ちる前の細剣を受け取った。
「人間、精霊、学院結界へ続く線は断った」
フィアは右腕を押さえながら、僕へ声を届けた。
「切っていない線は、一つだけ」
暗い水面に、南へ伸びる一本だけが残った。
『喰え』
ベルゼバスが迫る。
『その先も、その外も、すべて』
まだだ。
南の先には心臓本体がある。
銀色の封印帯がある。
五つの偽核もある。
どこまでが喰ってよい魔力なのか、僕には見分けられない。
「セルフィナ、印を」
学院長の承認を受け、成人盾列が中央に細い隙間を作った。
セルフィナは東側の休息場所へ顔を向ける。
以前の探索で魔力輪郭を傷めた健康な風精霊が、静かな台の上にいた。輪郭はまだ僅かにほつれている。
隔離治療中の風精霊ではない。
「あなた自身は行かなくていいのです」
セルフィナは、危険と距離を言葉と身振りで伝えた。
「送るのは、小さな印だけ。本物の心臓を包む銀色の帯、その外側へ。置いたら接続を切って、すぐ休んでください」
精霊はしばらく揺れていた。
やがて自分の意思で、淡い青緑色の光を一粒だけ分ける。
精霊本体は休息台から動かない。
光の粒だけが、成人盾列の隙間を通った。
南では、不完全アークデーモンが右腕を振り上げている。
「盾列、受けろ!」
学院警備員と王都残留警備隊が盾を三重に重ねた。
右腕が振り下ろされ、魔力圧が盾列を二歩押す。
強弩隊が右肩と不完全な脚へ矢を撃ち込む。
物理拘束鎖が脚を引き、不完全アークデーモンの胸郭を低い位置へ留めた。
閉じかけた中央の開口部へ、成人保守職員が物理式の開閉具を差し込む。
下側には金属楔。
上側には歯止め付きの支柱。
レグルスが銀槍を下側の支点へ入れた。
風魔法は使わない。
傷ついた掌を布の上から柄へ重ね、成人保守職員二人と一緒に開閉具を支える。
「下側は維持する。道は一本だ」
ユリウスは上側の歯止めを成人保守職員と固定した。
光も炎も纏わない長剣は鞘へ収めたまま。熱傷した掌を庇いながら、物理目盛りを読む。
「上側も開いている。維持可能時間は四呼吸前後」
二人だけで道を作っているのではない。
成人盾列が攻撃を受け、強弩隊が姿勢を崩し、保守職員が開閉具を動かしている。
その中央を、青緑色の印が進んだ。
精霊本体は近づかない。
印だけが胸郭中央へ入り、五つの偽核を通り過ぎる。
銀色の封印帯。
その外側から溢れ出す暗赤色の再生魔力へ、青緑色の光が付着した。
直後、セルフィナが接続を切る。
風精霊は光を失わず、休息台へ身体を沈めた。
印だけが残る。
「本物の心臓へ印を置きました」
セルフィナの声が、水面を抜けて届く。
「印は心臓本体ではありません。銀色の帯より外へ出る、再生魔力の起点です」
暗い世界で、南の一本道に青緑色の一点が灯った。
その内側に心臓がある。
喰わない。
銀色の封印帯も喰わない。
五つの偽核も喰わない。
印そのものも、印を送った精霊も喰わない。
印を通り、外へ出た暗赤色の流れ。
傷ついた仮初めの身体へ向かう再生魔力だけ。
外からの声が、条件を一つずつ渡してくれた。
ティアナが守る対象を分けた。
フィアが三本の線を断った。
セルフィナが本物へ印を置いた。
レグルスとユリウス、成人防衛隊が一本道を維持している。
けれど、誰も僕の代わりに選んではくれない。
『すべて喰え』
ベルゼバスの声が水底を揺らした。
僕は食べ物に見える光を見回した。
ティアナ。
フィア。
セルフィナ。
レグルス。
ユリウス。
先生たち。
成人警備員。
避難した生徒たちを守る学院結界。
全部、喰わない。
「僕が選ぶ」
水の中で、初めて自分の声が響いた。
「全部は喰わない。喰うのは、印を越えて外へ出た再生魔力だけだ」
暗い水面が割れた。
現実の僕が息を吸い込む。
一呼吸目。
治療布の下で、左腕の黒い紋章が動いた。
封魔具は外れない。
二重の固定部も閉じたまま。
それでも紋章は治療布の上端を越え、上腕を走った。黒い線が枝分かれしながら伸び、肩の手前で止まる。
激痛が左腕を貫いた。
僕は歯を食いしばり、青緑色の印だけを見た。
対象を固定する。
心臓ではない。
外へ出た再生魔力だけ。
二呼吸目。
《暴食》が開いた。
人間側へは向かない。
精霊休息区画にも、学院結界にも伸びない。
一本道の先で、青緑色の印を通過した暗赤色の魔力だけが細く引き剥がされた。
再生魔力が契約境界へ消えていく。
僕の通常魔力にはならない。
属性にも能力にも変わらない。
どこへ落ちたのかも分からない。
ただ、アークデーモンの右肩へ流れていた魔力が減った。
三呼吸目。
強弩で裂かれた右肩の再生が目に見えて遅れる。
不完全な脚を結び直していた暗赤色の線も細くなった。
外殻の亀裂は残る。
だが、心臓はまだ脈打っている。
五つの偽核も消えていない。
不完全アークデーモンは崩れず、右腕を盾列へ向けたままだ。
《暴食》の視界の端で、切断された三本の線が蠢いた。
人間側へ向かう線が再び繋がろうとする。
精霊側の断面も揺れている。
学院結界の光が、また食べ物に見え始めた。
「四呼吸目!」
ユリウスが告げた。
ティアナの根が軋む。
フィアの切った線の断面が伸びる。
セルフィナの青緑色の印が薄れる。
レグルスの銀槍を支点にした下側の開閉具も、再生外殻に押され始めていた。
「停止しろ、アルト!」
成人警備隊長の声。
「対象が広がる前に閉じろ!」
バルト先生の声が重なる。
まだ喰える。
もっと喰えば、右腕も脚も再生しない。
けれど次に口へ入るのが、人の魔力ではない保証は消えかけている。
僕一人では分けられない。
僕一人では印を付けられない。
僕一人では、この一本道を維持できない。
だから、ここまでだ。
「閉じる!」
僕は《暴食》を閉じた。
暗赤色の流れが途切れる。
青緑色の印が消え、精霊へ戻ることなく空気へほどけた。
根の分離も限界を迎え、成人保守職員がティアナを起点から後退させる。フィアは右手を動かせず、成人治療職員の確認を受けていた。
レグルスとユリウスも開閉具から離れる。
成人警備員が盾列中央を閉じた。
再び遮られた先で、心臓遺物は脈打ち続けている。
遅れていた右肩と脚の再生も、少しずつ再開した。
不完全アークデーモンは倒れていない。
僕の左腕には焼けるような痛みが残った。
黒い紋章は肩の手前まで広がったまま、動きを止めている。封魔具も二重固定も外れていない。
呼吸が乱れ、右脚の痺れも強い。
毛布から起き上がることすらできなかった。
それでも、人間は人間に見える。
精霊は食べ物ではない。
学院結界は、守るための力だ。
完全に制御したわけではなかった。
仲間が一つでも欠ければ、僕は対象を選べなかった。
それでも最後の選択だけは、ベルゼバスではなく僕がした。
すべてではない――仲間たちが分け、断ち、印し、守った一本道の先で、僕の《暴食》は、外へ放たれた再生魔力だけを数呼吸喰らう第一覚醒へ至った。
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