第93話 土姫の砦
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
中央分節結界に残った亀裂を見上げたティアナは、迫る災厄より先に、僕たちの背後へ続く避難路を見た。
移設した南側支柱は、十二歩東の支持線で金色の光を放っている。
第一結界面はまだ形を保っていたが、表面には蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。
その向こうで、不完全アークデーモンが右腕を引く。
胸郭中央の心臓遺物が脈打つたび、銀色の封印帯の隙間から暗赤色の魔力が流れた。
「次が来る!」
成人警備隊長の声で、盾列が三枚ずつ重なる。
ティアナは結界へ顔を向けなかった。
膝をつき、床の亀裂へ指先を置く。石を叩き、壁際へ目を走らせ、そこから東西の避難路を振り返った。
「違う……結界だけじゃない」
「何が?」
僕が尋ねると、ティアナは床を指した。
「支柱へ逃がした衝撃が、床の下を走ってる。南から北へ一本。そこから東西へ分かれて、避難路の壁まで届いてる」
見れば、東側通路の壁にも細い亀裂が生じていた。
西側では幻像の矢印を切り替えていたメルナが、成人職員と壁の状態を確認している。
「結界が耐えても、退路の床か壁が先に崩れるかもしれない」
ティアナの声が震えた。
不完全アークデーモンの拳が第一結界面を打つ。
轟音。
結界が深くたわみ、四基の支柱から床へ衝撃が抜けた。東側の壁から石粉が落ち、西側通路では窓枠が軋む。
それでも結界担当の先生たちは魔力供給を止めない。
学院長が中央制御盤を支え、セレネ先生が支柱ごとの負荷を読み上げていた。
「第一結界面、維持率三割以下! 次の同規模衝撃には耐えません!」
上層から物理札が届く。
セルフィナの健康な風精霊が捉えた空気圧は、中央から東西の通路へ偏っている。フェリナと成人監視員も、高所から窓と外壁の振動を確認していた。
続いて、ガルナと成人保守職員から床の損傷記録が届いた。
南北へ走る亀裂。
東壁へ繋がる亀裂。
第一結界面の直後にある、置いてはいけない床の範囲。
メルナも避難記録を持って走ってくる。
「一般避難は終わってる。でも、西側には伝令役の十回生が十一人。東側では先生たちと軽傷者の移動が残ってる。両方を一つの通路へ集めると詰まるよ」
ティアナは四枚の記録を床へ並べた。
土と植物の感覚だけで決めない。
物理記録と目視、空気の流れ、実際に移動する人数を一つずつ確認していく。
「壁を別々に直しても駄目」
ティアナは東西の亀裂を指で結んだ。
「床と壁と避難路を、一つの構造にする。土壁を三つ作って、内側を根で繋ぐ。正面から受けるんじゃなくて、衝撃を横と床へ分けるの」
「アークデーモンを止められるのか?」
レグルスが銀槍を立てたまま問う。
ティアナは首を横へ振る。
「止められない。最初の壁は壊される。二つ目も、多分、残らない」
言葉の途中で息を呑む。
それでも、彼女は続けた。
「でも三つ目と退路を残せれば、先生たちが次の区画へ下がる時間を作れる」
成人警備隊長が学院長へ案を伝える。
学院長は中央制御盤を離れず、成人保守責任者へ判断を求めた。
「材料は?」
「防災備蓄に土嚢、根束、発芽杭があります。水と物理楔も揃います。三十歩以内なら、導線を避けて配置可能です」
セレネ先生が床の金色の線を確認する。
「東側へ移設した南支柱から、北西へ延びる導線を跨がなければ干渉しません。第一壁を結界面から四歩、第二壁を斜め後方へ六歩、第三壁をさらに七歩下げれば、制御盤への退路も残せます」
学院長が即座に決めた。
「構築を承認する。中央分節結界は可能な限り維持する。ティアナは砦の構造を指示。全体の退避判断は成人警備隊長に従え」
「はい」
返事はした。
けれど、ティアナの膝は震えていた。
成人保守職員と十回生たちが防災倉庫へ走る。
土嚢が台車で運ばれ、乾燥を防いだ根束と発芽杭、水桶、物理楔が学院中央へ集められた。
「第一壁の後ろには立たないで!」
ティアナが声を上げる。
震えは消えていない。
「南の壁は壊される前提で作る! 土嚢だけ置いたら、すぐ第二壁へ移って!」
成人保守職員が配置を床へ記す。
「東の通路は先生たちの退路。土嚢を置かないで。西側は二人分の幅を残して!」
「二人分では盾が通らん」
レグルスが銀槍の柄を横へ置き、通路幅を測る。
「成人二人が並ぶなら、あと半歩必要だ」
ティアナは一度だけ確認し、すぐ配置を修正した。
「西側を半歩広げる。その分、第二壁の右端を内側へ曲げて」
「了解した」
レグルスは十回生二人と根束を運び、指定された床へ下ろす。
フィアは細剣を抜き、束ねられた固定帯だけを切った。
「第二壁用はこの長さ?」
「もう一腕分短く。表へ出すと破片で切られるから、全部、壁の中へ通して」
「分かった」
細剣が正確に動き、根にも魔力導線にも触れず、余分な帯だけが落ちていく。
僕は物理記録板へ三枚の壁を書き込んだ。
第一壁は結界面から四歩後方。
第二壁はそこから六歩、北東と北西へ分かれる。
第三壁はさらに七歩後ろ。中央には盾列の交代路、東西には成人二人が並べる退路を残す。
不完全アークデーモンが結界面へ爪を立てた。
金色の亀裂が増える。
時間は、ほとんどない。
ティアナが発動の起点へ立った。床へ置いた発芽杭へ触れようとして、その指が止まる。
細い指先が、はっきりと震えていた。
「アルト」
「うん」
「怖い」
小さな声だった。
彼女の視線は、結界の向こうにいる災厄から離れない。
「足が逃げたいって言ってる。手も、ちゃんと動くか分からない」
僕は大丈夫だとは言わなかった。
何が起きるか、誰にも保証できない。
「僕は何をすればいい?」
ティアナが僕を見る。
怖がっている十五歳の目だった。
それでも、判断を手放した目ではなかった。
「壁の間隔を記録して。根が東の導線へ近づいたら打音を一回。退避命令が出たら二回鳴らして」
「分かった」
「私の合図より、成人警備隊長の退避命令を優先して」
僕はうなずいた。
ティアナは発芽杭へ指を置く。
「水を!」
成人保守職員が三列の根束へ水を注いだ。
土嚢が開かれ、中の土が互い違いの線へ盛られていく。十二本の発芽杭が第一壁、第二壁、第三壁の起点へ打ち込まれた。
成人警備員はその間も結界の直後で盾を構えている。
学院長と結界担当の先生たちは、第一結界面へ魔力を送り続けていた。
ティアナが深く息を吸う。
詠唱が終わるまで、十数呼吸。
その間、起点から大きく動くことはできない。
「大地よ、根を抱き、壁を結び、退く命の道を囲め。崩れる一角を隣なる礎で支え、ここに連なる守りを築け――第二階位・土・植物複合魔法《根壁連砦》」
発芽杭の表面が割れた。
太い根ではない。
腕ほどの根が数本、濡れた土の内側へ潜り込む。土嚢の中身を抱き込み、床の亀裂を跨ぎ、既存の支持柱へ巻きついた。
根は人へ向かわない。
自分で敵を探すこともない。
ティアナが示した線だけを通り、三列の土を内側から固めていく。
第一壁が胸の高さまで隆起する。
その斜め後方へ、左右に分かれた第二壁。
さらに後ろには、東西の退路と中央の交代路を残した第三壁が立ち上がった。
一直線ではない。
一つの壁を抜けた衝撃が、次の壁へ正面からぶつからないよう、互い違いに配置されている。
根は第一壁から第二壁、第二壁から第三壁へ走り、床と支持柱を結んだ。
「東の導線まで半歩!」
僕が記録板を確認し、打音具を一度鳴らす。
ティアナが右側の根を止めた。
「そこから北へ曲げる。導線を跨がないで!」
根の先端が向きを変え、第三壁の内側へ収まる。
西側ではメルナが幻像の矢印を二つに分けた。
東は先生たち。
西は伝令役の生徒たち。
成人職員も物理案内板を同じ方向へ切り替える。
上層から物理鐘が二度鳴った。
セルフィナが、南から北東へ押し上がる急な空気圧を捉えた合図だ。フェリナと成人監視員も、中央窓の揺れを目視確認している。
「右腕の攻撃が来る!」
成人警備隊長が叫ぶ。
不完全アークデーモンの右肩が引かれた。
「結界維持担当、後退準備!」
セレネ先生が中央制御盤の記録板を外す。
学院長は最後まで供給目盛りを確認し、第二結界区画へ移す認証鍵を成人記録官へ渡した。
右拳が第一結界面を打ち抜いた。
金色の壁が中央から割れる。
無数の結界片が光となって散り、その後ろから砕けた石材と圧縮された空気が襲ってきた。
「第一壁の後ろへ入らないで! 左右へ!」
ティアナの声が飛ぶ。
学院長と先生たちは東側の退路へ動く。
成人警備員は盾を重ねながら中央の交代路を下がった。
結界片と石材が第一土壁へ突き刺さる。
胸の高さまであった壁が、中央から大きく抉れた。
土が噴き上がる。
内部を通る根が引かれ、衝撃を左右の第二壁へ流した。
ティアナの身体が跳ねた。
「っ……!」
根へ加わった衝撃が反動となり、彼女の両腕を震わせる。
膝が沈みかけた。
それでも、床から指を離さない。
「第一壁は捨てる! 崩れた壁へ戻らないで!」
第一壁が完全に崩れた。
だが、全ての破片が後方へ飛んだわけではない。
一部は左右へ流れ、第二壁の前で落ちている。
「東側、先生三名通過!」
僕が記録札を読み上げる。
「西側、伝令役七名通過!」
「残りを急がせて! でも走らせないで!」
ティアナの声は震えている。
呼吸も浅い。
それでも、誰をどこへ通すかを見失っていなかった。
不完全アークデーモンが崩れた第一壁へ右手を置く。
五本の爪が土へ食い込み、そのまま腕が第二壁まで伸びた。
「直接来る!」
王都残留警備隊が盾を構える。
だが、成人警備隊長は前進を命じなかった。
「第二壁を盾に後退! 災厄と力比べをするな!」
右腕が第二壁を横から殴った。
土壁の中央が折れる。
内部の根が引き千切られ、その衝撃がティアナへ返った。
彼女が息を詰まらせ、指先から力が抜ける。
第二壁の右半分が崩れ、第三壁へ土砂が押し寄せた。
「繋ぎ直すな!」
ティアナは自分へ言い聞かせるように叫んだ。
壊れた壁へ魔力を注げば、もう一度立たせられるかもしれない。
けれど、今の彼女にそんな余力はない。
「第二壁の南側の根を切る! 第三壁と退路を残す!」
床の下で乾いた音が連続した。
第一、第二壁へ伸びていた根が、ティアナの制御によって切り離される。
崩れた二つの壁は戻らない。
その代わり、第三壁を支える根と、東西の避難路を囲む根は残った。
押し寄せた土砂が第三壁へぶつかる。
壁面へ亀裂が入ったものの、既存支持柱へ繋がる根が衝撃を受け止めた。
「結界担当の先生、全員通過!」
東側から報告が届く。
「西側の十回生も退避完了!」
メルナの幻像標が安全区画側へ切り替わる。
ミナと成人治療職員が、新たに打撲を負った成人警備員を担架へ乗せ、医療区画へ運んでいった。
「残るのは盾列と構築班だけです!」
「構築班、退避!」
成人警備隊長が命じる。
ティアナは第三壁を見た。
まだ根は繋がっている。
不完全アークデーモンは、崩れた第二壁を踏み越えようとしていた。
一瞬だけ、彼女の身体がその場へ残ろうとする。
けれど、ティアナは自分で首を横へ振った。
「退避する。第三壁は、残った根だけで支える」
立ち上がろうとした脚が震えた。
僕が手を出すより早く、成人保守職員がティアナの右側へ入り、反対側をフィアが支えた。
レグルスは銀槍を構え、退路の最後尾を成人警備員と確認している。
僕も記録板を右手に抱え、打音具を二度鳴らした。
全員が第二防衛区画へ入る。
最後の成人警備員が物理防壁を下ろした直後、第三土壁へアークデーモンの爪がかかった。
壁は大きく軋んだ。
根の何本かが切れる。
それでも、第三壁の一部と、東西へ続く二本の退路は残った。
バルト先生が安全区画の入口でティアナを待っていた。
「座れ。呼吸と脈を確認する」
「まだ、砦が――」
「再発動は禁止だ。残った構造は成人保守職員が管理する。お前は既に、必要な時間を作った」
ティアナは反論しようとしたが、震える脚がそれを許さなかった。
椅子へ座り、痺れた指を膝の上へ置く。
不完全アークデーモンは倒れていない。
心臓遺物も、暗赤色の再生魔力を流し続けている。
第一壁は崩れた。
第二壁もほとんど残っていない。
それでも、第三壁の後ろには誰も置き去りにされていなかった。
ティアナは怖くなかったわけではない。
声も、指も、最後まで震えていた。
それでも彼女は、アルト一人ではなく、学院中央に残る全員の足元と退路を見続けた。
恐怖を消したからではない――震えたまま守る道を選んだティアナの根と土壁が、学院中央に『土姫の砦』を築いていた。
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