第90話 五百年前の遺物
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
配置板の戦団名欄へ最初の亀裂が走った時、学院地下のさらに奥から、心臓の鼓動に似た音が響いた。
――どくん。
空気を伝う音ではなかった。
石床から靴底へ入り、骨を通って胸の奥まで届く。
中央交差廊の灯火が一斉に揺れた。支持柱から細かな石粉が落ち、空白の配置板に走った亀裂を白く縁取る。
名のない防衛線が形になってから、まだ数呼吸しか経っていない。
同じ夜だ。
《重環封鎖》は外環と中環を失い、セレネ先生と成人封印官たちが最後の内環だけを維持している。
その向こうでは、《深層遺物牽引》を繋ぐ四本の召喚杭が、低い振動を放ち続けていた。
「地下補助経路より物理報告!」
南の階段を、成人保守職員が駆け上がってきた。
手にしているのは、ガルナから送られた金属製の報告札だ。
「全封鎖口に破損なし、侵入痕なし! ですが基礎の振動源が変化しています。固定位置から、上方へ移動中!」
「移動している?」
ティアナが床へ視線を落とす。
「下にあった何かを、引き上げてる……」
再び、鼓動。
今度は先ほどより近い。
僕の身体が震えたのではない。学院そのものが、巨大な胸郭に変わったように上下した。
成人警備隊長が盾列へ命じる。
「全員、足場を広く取れ! 中央交差廊の南半分から下がれ!」
僕たちは即座に従った。
南へ続く中央避難階段。その下に成人警備員の防衛線があり、さらに先に淡い金色の内環が見える。
封印越しの外側回廊で、ローデン評議官が一冊の分厚い本を掲げた。
黒褐色の表紙。
周囲を覆う古い金属枠。
縁には、幾重にも封印番号が刻まれている。
それを見たセレネ先生の表情が変わった。
「原本……」
傍らの成人記録官が息を呑む。
「《アークデーモン心臓遺物封印簿》……!」
所在が分からなくなっていた原本。
それが今、ローデン評議官の手にあった。
ローデン評議官が封印簿を開く。
全ての頁を見せるのではない。
見開きに並ぶ複数の封印番号を確かめ、四本の召喚杭へ向けて順に読み上げていく。
東側の杭が回転した。
次に西。
北、南。
四本の杭へ刻まれた目盛りが、原本の封印番号と同じ位置で止まる。
床を這っていた《深層遺物牽引》の術式線が、四方から一点へ収束した。
「内環維持! 成人記録官は予備索引を!」
セレネ先生の声に、成人記録官が金属箱から薄い物理台帳を取り出す。
学院に残されていたのは、原本そのものではない。遺物の封印番号だけを記した予備索引だ。
「深層座標、照合!」
「一致!」
「緊急移送番号!」
「一致します!」
ローデン評議官が持つ原本。
学院内部の古い認証。
四本の召喚杭。
長い時間をかけて準備された術式。
その全てが揃った瞬間、外側回廊の床へ巨大な円環が投影された。
地面が掘り返されたわけではない。
円環の内側だけが、遠い深層へ通じたかのように暗く沈む。
そこから銀色の光が浮上した。
幾重もの封印帯。
古い文字と番号を刻んだ金属環。
それらに巻かれた何かが、ゆっくりと外側回廊へ引き出される。
成人の両手に収まるほどの大きさだった。
乾いた暗赤色の表面。
人間の臓器に似ているようで、細部はまるで違う。
血液は流れていない。
それでも、四本の杭が脈動するたび、封印帯の内側で収縮した。
――どくん。
その一度で、残る《重環封鎖》の内環が学院側へ膨らんだ。
成人封印官たちの靴底が、石床を半歩滑る。
「封印帯の記号を確認!」
セレネ先生が叫ぶ。
成人記録官が予備索引と見比べ、震える指で一つずつ追う。
「心臓遺物、第三封印番号一致。旧深層座標一致。外周封印環の配列も一致します」
一瞬の沈黙。
成人記録官が、掠れた声で結論を告げた。
「五百年前に封印された、アークデーモンの心臓遺物です」
幻像ではない。
模造品でもない。
星冠教団が作った偽物でもなかった。
五百年前の災厄から残された本物の心臓が、僕たちの学院の地下から呼び出されたのだ。
外側回廊に置かれた物理拡声筒を、ローデン評議官が持ち上げた。
「主の器よ。ようやく、お前へ与えられる」
声が石壁へ反響する。
僕の名前を口にしなくても、誰へ向けた言葉なのか分かった。
「アルト自身の口へ押し込む必要はない。心臓遺物を《暴食》へ捕食させる」
レグルスが銀槍を握り直す。
フィアの指が細剣の柄へ掛かる。
ローデン評議官は、それ以上声を張り上げなかった。
「心臓が持つ魔力と残留構造を取り込ませ、暴食の魔神ベルゼバスを完全に目覚めさせる。そのために、お前は生きて必要だった」
その言葉と同時に、僕の左腕の奥が強く脈打った。
痛みとは違う。
空腹でもない。
治療布の下から、存在しない指で骨を押されたような圧迫感。
けれど左腕は勝手に動かなかった。
黒銀色の封魔具も冷たいままだ。
《暴食》が開く感覚も、何かを喰いたいという衝動もない。
僕は心臓へ手を伸ばさず、その場で成人警備隊長へ告げた。
「左腕が一度だけ脈打ちました。暴食は開いていません。封魔具も作動していません」
成人警備隊長が僕の左腕と呼吸を確認する。
「空腹の変化は」
「ありません。心臓の位置や性質が分かったわけでもありません」
「アルトを防壁の後ろへ。成人警備員四名、前後につけ」
命令は学院長からの物理札によって、すぐ正式なものとなった。
心臓遺物と僕を接触させない。
間に複数の防衛線を置く。
僕だけを逃がすのではない。避難者の経路からも離し、教団が狙える直線を作らないための配置だった。
「計画が分かったなら、止める条件が一つ増えただけ」
ティアナが、僕ではなく南の階段を見たまま言う。
「心臓をアルトへ近づけさせない」
フィアも細剣を抜かず、成人警備員の盾列に合わせて位置を変えた。
レグルスが僕と地下入口の間へ立つ。
「喰わされる前提で考えるな。お前も命令どおり下がれ」
「分かってる」
今度は、自分一人で決めようとはしなかった。
僕は成人警備員とともに、中央防壁の後ろまで下がった。
外側回廊では、星冠教団の信徒たちが心臓を囲んでいた。
ローデン評議官が封印簿を閉じる。
「運べ」
心臓を直接持ち上げる者はいなかった。
代わりに、四本の召喚杭へ信徒たちが手を重ねる。
一人ではない。
複数の術者が息を合わせ、長い詠唱を始めた。
「失われた骸よ、残る心臓を核とし、灰より骨を、魔素より肉を結べ。滅びの輪郭を仮初めに取り戻せ――第四階位・再構成術《魔骸仮生》」
四本の杭から、暗赤色の魔力線が伸びた。
線は心臓を貫かず、周囲を取り巻く封印帯へ接続する。
学院地下の空気が急速に冷えた。
石床に積もっていた灰と粉塵が浮き上がり、大気中の魔素と混ざる。
最初に作られたのは、骨に似た支持構造だった。
巨大な胸郭。
太い背骨。
そこへ暗赤色の魔素が筋の束となって巻きつく。
外殻が重なり、片方の肩と腕が形を得た。
一瞬ではない。
術者たちは詠唱後も魔力を送り続け、次々に膝をつく。呼吸は乱れ、腕は震えている。
それでも誰も生贄にはならず、人間の魂も魔力も吸われていない。
心臓に残された構造を型に、周囲の魔素だけで仮初めの肉体が組み上げられていく。
やがて、四メートルほどの巨体が外側回廊へ屈むように現れた。
完成しているのは上半身の片側と、異様に長い腕。
反対側の腕は輪郭が薄く、脚部も左右で長さが揃っていない。
顔らしき部分には表情がなく、灰色の魔素が崩れては結び直されていた。
胸郭中央には、銀の封印帯を残した心臓遺物が露出している。
「これは……復活ではありません」
セレネ先生が内環を支えながら言った。
「魂を呼び戻す構造がない。記憶も人格も復元していません。元の肉体ではなく、現代の魔素で心臓の残留構造をなぞっているだけです」
成人封印官が、歪な巨体を見上げる。
「では、五百年前の個体そのものではない?」
「ええ。仮初めの再構成体です。完全な能力も知性も戻った証拠はありません」
その言葉へ、ローデン評議官が短く返した。
「完全復活である必要はない」
再構成体の胸で、心臓が脈打つ。
「学院を壊し、心臓を器へ運べれば足りる」
不完全な巨体が背を伸ばした。
ただ、それだけだった。
外側回廊の空気が一気に圧縮される。
灯火が消えた。
石粉と砕けた封印光が奔流となって学院側へ押し寄せる。
《重環封鎖》の内環が限界まで膨らみ、セレネ先生と成人封印官たちの身体が後ろへ引かれた。
「維持限界です!」
「学院長命令! 封印班、計画後退! 警備員は盾列で援護!」
誰もその場に固執しなかった。
成人警備員が盾を重ね、セレネ先生と封印官たちの前へ入る。
後列が腕を支え、内環への魔力供給を順に切っていく。
セレネ先生も一人で残ろうとせず、成人封印官と歩調を合わせて階段側へ下がった。
再構成体が、不完全な右脚を一歩前へ置く。
足裏が石床へ触れた。
轟音。
攻撃ですらなかった。
ただの一歩から放たれた魔力圧が、最後の内環を内側から押し潰した。
淡い金色の封印面が、無数の破片となって消える。
衝撃は中央避難階段を駆け上がり、僕たちのいる交差廊まで届いた。
支持柱へ細い亀裂が走る。
移動防壁が床を滑り、成人警備員たちが盾を傾けて受け止めた。
数名が膝をついたが、すぐ後列が肩を貸す。
「負傷者を東へ! 中央防壁を下ろせ!」
王都残留警備隊も列へ加わり、重い物理防壁を降ろし始める。
「中央交差廊を放棄! 次の防衛線まで計画後退!」
成人警備隊長の命令が響いた。
僕たちは従った。
ティアナが支持柱の亀裂を確認し、崩れにくい東寄りの経路を示す。
フィアは後方を見ながら歩幅を合わせ、レグルスは銀槍で退路の幅を確保する。
僕も右脚の状態を申告しながら、成人警備員の間を移動した。
東側では、メルナの幻像案内がさらに奥へ切り替わる。
ミナと成人治療職員が、衝撃で打撲した警備員を担架へ乗せた。
バルト先生の指示で、負傷者と下級生は支持柱から離れた安全区画へ移されていく。
上層ではセルフィナの風精霊が空気の急変を捉え、フェリナの物理鐘が高所退避の信号を鳴らした。
ガルナも地下補助経路から撤退を始めている。
正門のユリウスは増援路を維持したまま、地下へは来ない。
誰も役割を捨てていなかった。
七大魔法騎士も、主要騎士団の主力も戻っていない。
それでも学院側は、壊れた一線へしがみつくのではなく、次の防衛線を作ろうとしていた。
僕は後退しながら、下ろされていく中央防壁の向こうを見た。
崩れた内環。
開かれた地下入口。
その先で、心臓を胸に抱えた左右非対称の巨体が、二歩目を踏み出そうとしている。
五百年前のアークデーモンは蘇っていない――それでも、心臓一つから組み上がった不完全な災厄は、学院を滅ぼすには十分すぎる力で立ち上がった。
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