第86話 卒業試験の罠
地下保守口の測定糸がまだ上向きに揺れているうちに、六枚の帰還札を抱えた物理伝令が階段を駆け下りてきた。
「緊急作戦広間より報告! 卒業試験中の六組が、正規の帰還経路から外れました!」
成人警備員が即座に伝令を止め、物理印を確認する。
学院地下から吹き上がった風の調査は、成人中心の専任班が引き継いだ。保守口は開けず、二名以上の学院警備員が残る。
僕たちは制限線から退き、伝令とともに緊急作戦広間へ向かった。
同行するのはティアナ、セルフィナ、ユリウス。それに成人警備員二名だ。
広間へ戻るまで、五分もかからなかった。
六枚の帰還札は学院図の中央ではなく、東と北の外縁へ置かれていた。
「六組、十八名。成人試験官六名も同行しています」
成人記録官が告げる。
「三組が東側旧排水路。残る三組が北側旧検査所へ入りました。北側にはフィア、レグルス、メルナ組も含まれます」
僕の背中が冷たくなる。
フィアたちは北側の安全な中継拠点にいたはずだ。そこから学院へ戻る指令を受け、正規の帰還筒を開いた。
それなのに、学院から遠ざかる道を選ばされていた。
「成人試験官に手順違反はありません」
別の成人記録官が、回収済みの帰還筒を保護台へ載せた。
これは僕たち東側組が持ち帰ったものだ。王国緊急令を受けたとき、僕たちは王国警備が確保した別経路で戻ったため、帰還板を使っていなかった。
「物理封印、学院印、当日認証。全て正規です」
セレネ先生が成人記録官と確認し、筒の外蓋を外す。
内部には学院への帰還経路が刻まれた金属板がある――はずだった。
けれど、セレネ先生が細い保持具を差し入れると、紙よりも薄い金属板が一枚だけ浮き上がった。
その下から、学院へ続く正規の帰還板が現れる。
「正規板は改竄されていません」
セレネ先生が二枚を別々の保護板へ固定した。
「外側の封印を外した際、薄い板が正規板の上へ滑り込む構造です。成人試験官が目にしたのはこちらでしょう」
偽装板の表側には、有効な経路番号と検査印が刻まれていた。
裏返すと、七芒星へ冠を重ねた紋章がある。
星冠教団の紋章だ。
「分類記号も一致する」
ユリウスが、ローデン評議官の旧監査補助室から回収された送付票の写しを示した。
「保存墨と金属処理も同系統。偶然で片づけられる一致ではない」
「製造時期は?」
学院長が問う。
成人記録官が金属表面の層を確認する。
「最終的な組分けより前です。個人名ではなく、どの帰還筒にも合う汎用経路番号が使われています」
僕たちの筒にも入っていた。
フィアたちだけではない。僕と接点のない生徒たちの帰還筒にも、同じ罠があった。
「星冠教団が卒業試験の帰還制度を利用したことは確定とする」
学院長が告げる。
「ほかの試験組には現在地待機を命じろ。通常通信網だけではなく、物理伝令で確認する。学院の残留防衛は維持したまま、東と北へ成人救助班を出す」
配置札が二方向へ動かされた。
僕は一歩前へ出る。
「学院長。東側旧排水路の解除番号なら、試験経路の資料で確認しています。同行させてください」
「許可の前に私を通せ」
背後から、バルト先生の声が飛んだ。
バルト先生は僕の呼吸と左腕を確認し、封魔具の物理表示を見た。
「地下で起きた反応は再発していないな?」
「はい。左腕は動いていません。空腹と魔力変化もありません」
「東側旧排水路は学院外周に近い。成人警備員、成人結界技師、成人救護職員の同行を条件に許可する」
バルト先生の目は厳しかった。
「暴食は禁止。封魔具には触れるな。左腕を使うな。重いものを持つな。戦闘も認めない。痛み、脈動、右脚の痺れ、空腹、魔力変化があれば即時申告。異変が再発すれば、その場で撤退だ」
「分かりました、バルト先生」
東側救助班は成人警備員四名、成人結界技師一名、成人救護職員二名。そこへ僕、ティアナ、セルフィナが救助補助として加わった。
ユリウスは学院に残り、帰還筒と配置記録の照合を続ける。
夜の闇が降り始めた学院を出て、旧排水路までは速足で二十分ほどだった。
学院外壁の東側。斜面を削って造られた点検路の入口から、濁った水が流れ出している。
前方隔壁は閉鎖。
その奥に九名の生徒と三名の成人試験官がいる。
成人試験官たちは生徒を両側の高い点検足場へ上げ、負傷者と人数を確認していた。固定式の打鐘管から、短い救難信号が繰り返し届いている。
「水位は足場まで指二本分!」
成人結界技師が目盛りを読む。
「この流入量なら、八分で足場を越える!」
水は中央水路を手前から奥へ流れている。
隔壁の上では、天井を支える古い石材が軋んでいた。前方隔壁を開けても、崩落すれば出口そのものが塞がる。
セルフィナが健康な風精霊を通気口の手前へ放つ。
小さな精霊は奥へ入り込みすぎず、流れに沿って一度だけ旋回した。
「十二名全員の呼吸を確認。三名が右側、九名が左側の足場です」
セルフィナが目を閉じ、風の動きを読む。
「隔壁の直後に人はいません。水は後方隔壁の下から流入。天井支持部は中央より少し奥が崩れかけています」
「なら、先に天井を支える」
ティアナが濡れた石床へ両足を据えた。
「大地よ、揺らぐ礎を抱き、崩れ落ちる天を支えよ――第二階位・土魔法《岩柱列陣》」
重い振動が足元を走った。
中央水路の左右から三本の岩柱がせり上がる。一本目が亀裂の手前を、二本目が中央を、三本目が隔壁寄りを支えた。
落ちかけていた石材が、轟音とともに岩柱へ受け止められる。
水しぶきと石粉が舞った。
ティアナの靴が僅かに泥へ沈み、息が詰まる。
「維持できる?」
「できる。でも、長くは無理」
僕は成人結界技師とともに隔壁の操作盤へ近づいた。
水音が壁に反響し、声が聞き取りにくい。
そのとき、ティアナが僕の右袖を引いた。
振り向くより先に、彼女の顔が右耳の近くへ寄る。
「三歩先の床が沈んでる。私の足跡だけ踏んで」
近い声と息遣いに、一瞬だけ鼓動が跳ねた。
ティアナの琥珀色の瞳も僕を見て僅かに揺れる。
けれど、すぐに崩れかけた天井へ戻った。
僕も短くうなずき、彼女が選んだ足場だけを踏んだ。
操作盤には三つの解除輪と、四本の安全留めがある。
帰還板に刻まれた番号は、三、二、一。
旧排水路の標準解除順も同じ――そう見えた。
「違う」
僕は偽装板と、成人結界技師が持つ旧設備表を並べた。
「この三は解除輪の番号じゃありません。安全留めの深さです。番号をそのまま輪へ当てはめると、逆圧が掛かる」
成人結界技師が歯車の刻印を確認する。
「正しい順番は一、二、三か」
「はい。ただし、二つ目の輪を半分で止めてから、三番の安全留めを抜く必要があります」
「物理記録と一致。採用する!」
成人警備員二名が手動解除器の取っ手を握った。
「一番、回せ!」
歯車が噛み合い、隔壁が震える。
一つ目。
二つ目。
金属音が連続し、隔壁が人ひとり分ほど持ち上がったところで停止した。
「動力軸が噛んだ!」
その直後、天井から大きな石片が剥がれた。
ティアナの岩柱へ激突し、通路全体が揺れる。
水位が足場の縁へ届いた。
「《岩柱列陣》!」
四本目の岩柱が斜めに立ち上がり、傾いた天井を押し返す。
ティアナの膝が沈み、呼吸が荒くなった。
「あとどれくらい?」
「一分……それ以上は約束できない!」
「隔壁の向こう、全員離れました!」
セルフィナが風精霊の報告を叫ぶ。
「開放範囲に人はいません!」
僕は途中で止まった解除輪を見た。
三番の安全留めは、歯車の陰に隠れている。偽装板の番号を信じれば、最後まで抜かない位置だ。
「あそこです! 右下、泥に埋まった赤い留め具!」
成人結界技師が確認する。
「正規表と一致! 外せ!」
成人警備員が工具を差し込み、安全留めを引き抜いた。
もう二名が手動解除器へ加わる。
「回せ!」
四人分の力が取っ手へ掛かった。
金属の悲鳴が水音を押しのける。
隔壁が一気に持ち上がり、濁流が僕たちの足元を抜けた。
「救助開始!」
内側の成人試験官が、冷えた生徒を一人ずつ送り出す。
成人警備員が両脇を支え、成人救護職員が安全地帯へ運ぶ。僕は右手だけで人数札を受け取り、避難順を記録した。
歩ける者。
脚を打った者。
身体が冷えている者。
九人目の生徒に続き、三人の成人試験官が隔壁を越える。
「十二名、全員確認!」
最後の一人が安全地帯へ出た直後、ティアナが魔法を解いた。
岩柱に支えられていた石材が低く沈んだが、避難路までは届かない。
ティアナはその場で大きく息を吐く。
僕の右脚にも僅かな痺れが出ていた。
「右脚に軽い痺れがあります。左腕の反応、空腹、魔力変化はありません」
同行する成人警備員へ申告すると、すぐ安全地帯で座るよう命じられた。
封魔具は一度も作動していない。
救護職員が救助した生徒たちを確認している間、外から三回、間を置いて二回の鐘が鳴った。
北側旧検査所からの固定式救難信号だ。
救助完了。
生存者全員。
三十分後、北側成人試験官の物理記録が、騎馬伝令によって届けられた。
フィアは偽制御線だけを切断。
レグルスは粉塵を排気口へ流し、呼吸できる空間を維持。
メルナは光と小さな音の幻像で、視界の悪い検査所に避難路を示した。
成人試験官が手動隔壁を開き、北側の九名と成人試験官三名も全員救出。
そこに僕の指示は一つもなかった。
必要な役割を、自分たちで選んで成立させていた。
東側の救護を終え、僕たちは成人職員の護衛を受けて学院外周の帰還集結所へ向かった。
到着したのは、それから半刻ほど後だった。
北側の隊列は、僕たちより少し遅れて夜道の向こうから現れた。
先頭には成人試験官。
その後ろに救助された生徒たちが続く。
フィアの細剣は鞘へ収まり、レグルスは粉塵で汚れた外套を払い、メルナは最後尾の人数を確認していた。
「全員いるな」
レグルスが言う。
「東もね」
ティアナが答える。
フィアは僕の左腕へ一度だけ視線を向けた。
「異変は?」
「隠してない。右脚の痺れは申告済み。左腕の反応はないよ」
「ならいい」
短い言葉だけで、フィアは救助した生徒の列へ戻った。
道が違っても、必要な時は同じ場所へ。
口にしなくても、四人だけの誓いではなかった。
セルフィナもメルナも、成人試験官たちも、それぞれの場所で生徒を守り抜いたからこそ、僕たちはここへ戻れた。
回収された北側の偽装板にも、同じ星冠教団の紋章と分類記号があった。
六枚全てが学院から遠ざかる経路を示していた。
生徒だけではない。
成人試験官も戻さないための配置だ。
学院には下級生も、学院警備員も、先生も残留職員もいる。それでも、卒業試験で十回生と成人試験官を外へ出し、帰還まで妨げれば、防衛力は限界まで薄くなる。
各地の脅威まで星冠教団が起こした証拠は、まだない。
地下から流れた古い魔力との関係も分からない。
だが、この罠だけは偶然ではなかった。
僕たちは救助した十八名の生徒と六名の成人試験官を囲み、二重の封鎖梁が待つ学院へ歩き始めた。
卒業試験に仕掛けられた罠が狙っていたのは、僕一人ではない――十回生も成人試験官も外へ取り残し、学院を守る力そのものを空にすることだった。
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