第85話 王都の空白
七つ目の騎士団旗が王都の門外へ消えて一刻、学院正門に二本目の封鎖梁が落とされた。
地響きにも似た重い音が、夕暮れの学院に響く。
正門を閉ざしたわけではない。許可を受けた人員と物資は、脇の通用口で身分証、物理印、積み荷を二重に確認してから通される。
けれど、七騎が出陣する前とは明らかに空気が違った。
半日かけて東方集落から戻った僕たちも、つい一刻前にあの門を通ったばかりだ。
「全区画、再編した配置へ移行する」
学院長の声が緊急作戦広間へ通った。
壁に掛けられた学院図には、学院警備員と残留職員の配置札が並んでいる。学院は無人ではない。王城警備隊や都市警備隊との連絡要員も残っている。
それでも、札と札の間は広かった。
十回生と成人試験官の多くは学院外。七大魔法騎士と主力騎士団も、本当に救援を必要としている各地へ向かっている。
今ある戦力で、守る形を作り直さなければならない。
「正門、裏門、文書搬入口は二重確認を継続。上層監査認証の凍結は維持する。封印区画と医療区画へ警備を増員。下級生寮は日没前に人数を確定させろ」
学院長が物理記録板の配置札を動かす。
「巡回は必ず二名以上。通常通信網だけに頼らず、物理伝令を併用する。古い地下経路、保守口、換気路も図面から洗い直せ。不審物だけではない。不審音、空気の流れも即時報告だ」
指示を受けた学院警備員と残留職員が、次々に広間を出ていく。
慌ただしいが、混乱はない。
誰もが、自分の守る場所を理解して動いていた。
「医療区画は私が担当する」
バルト先生が治療薬の在庫表を閉じた。
寝台、成人治療職員、負傷者を受け入れる導線。出入口には学院警備員が追加され、廊下の一方が搬送専用に指定された。
「アルト。お前に認めるのは、許可区画内の経路確認までだ。戦闘任務ではない」
「はい、バルト先生」
「成人警備員から離れるな。左腕の痛み、右脚の痺れ、空腹、魔力の変化。どれか一つでもあれば、その場で申告しろ。暴食の使用は認めない」
治療布の上にある黒銀色の封魔具を見下ろし、僕はうなずいた。
炎症と熱傷は改善している。けれど完治はしていない。東方集落からの帰路でも、疲れが溜まると右脚に僅かな痺れが出た。
動けることと、無理をしていいことは違う。
「地下経路の照合は、私が成人記録官と学院警備員とともに行います」
セレネ先生は、机に重ねられた二組の学院図を指した。
片方は現行図面。もう片方は、角が擦り切れた古い物理図面だ。
「古い図面には、現在使われていない保守路もあります。ただし、壁や床を推測で開けることはしません。認証印と鍵も複数名で管理します」
セレネ先生一人を地下へ向かわせる様子はない。
学院長が承認印を押した直後、広間の入口から金髪の少年が進み出た。
「学院長。学生側の防衛補助配置について、提案があります」
ユリウスは一礼し、綴じ紐の掛かった物理文書を差し出した。
彼の卒業試験は後発組だった。王国緊急令が届いたため、出発前に停止され、学院に残っている。
「先に断っておくが、学生だけで学院を守れるとは考えていません」
ユリウスの青い瞳が、学院図へ向く。
「先生と成人警備員を重要区画へ集中させるための補助です。下級生寮の人数確認、避難経路の案内、物理伝令板の運搬、廊下や階段、窓、換気口の観測。医療区画への導線確保と、食料、水、照明具の確認を担当させます」
「戦闘配置ではないのね」
ティアナが確かめる。
「ああ。不審者の追跡、地下制限区画への侵入、鍵や認証印の操作、未確認術式の解除は禁止する。成人命令なしの戦闘も、学院外への追跡も認めない」
「一名での巡回も禁止事項に入っています」
セルフィナが文書の末尾を見て言った。
「学生は二名以上で組み、成人責任者の指揮下に置く。配置表も通常通信網には保存しない。異論があるなら今聞く」
ユリウスは自分の案へ従えとは言わなかった。
僕は学院図に並ぶ巡回経路を見た。
「巡回の時刻と経路を完全に固定するのは危険だと思う」
ユリウスの視線が僕へ動く。
「理由は?」
「配置が外へ漏れた場合、巡回が通り過ぎた直後に長い空白ができます。成人責任者の承認を条件に、時刻と経路を一定の範囲で変えたほうがいい」
「無秩序にはしないのね」
「うん。変更前と変更後を物理記録へ残す。誰か一人の独断では変えない」
ユリウスは短く考え、文書の余白へ書き加えた。
「合理的だ。採用する」
「避難経路も一つに絞らないほうがいいよ」
続いてティアナが学院図を指す。
「大勢が同じ場所へ集まれば、転倒や詰まりが起きる。床の沈みや壁のひび、窓の状態も確認して、使える経路を複数残したい。土や植物の変化なら、私にも見つけられることがある」
「ただし、ティアナ一人へ全経路の確認を任せない」
学院長が念を押す。
「はい。見つけた異常を成人責任者へ報告します」
セルフィナも翡翠色の瞳を学院図へ落とした。
「私は健康な風精霊に、近距離の空気と煙、人の流れを確認させます。ただし学院全域へ飛ばすことはできません。異常を見つけても追跡はせず、成人警備員へ報告します」
隔離治療中の風精霊を使うつもりもないらしい。
学院長は三人の補足を物理文書へ記録させた。
「修正後の案を承認する。ただし、これは成人指揮下の防衛補助配置だ。学生を主力戦闘要員にはしない。危険を発見した時点で役目は果たしたと考え、必ず報告へ移れ」
「承知しました」
ユリウスが答えた。
日が沈みきる前、僕たちは最初の経路確認へ向かった。
場所は学院下層にある、許可された避難通路だ。
僕、ティアナ、セルフィナ、ユリウスに、成人警備員が二名同行する。地下封印区画へ続く制限線より、ずっと手前にある。
確認するのは通路の幅、照明、階段の状態、物理伝令板の設置位置だけだった。
「担架を通すなら、この角の荷箱は移動させるべきだな」
ユリウスが壁際の箱を記録する。
「床の沈みはないよ。ひびも古いものだけ」
ティアナは屈み込み、石床を目と指先で確かめた。魔法で床を動かすことはしない。
僕は伝令板を掛ける金具の高さを確認していた。
そのとき、セルフィナの肩にいた小さな風精霊が、急に通路の奥へ引かれた。
「待ってください」
セルフィナが足を止める。
風精霊は金属格子で閉じられた保守口の手前まで流され、下方へ沈んだ。
次の瞬間、見えない何かに押し戻されたように、ふわりと上昇する。
「今の学院換気計画に、地下側からの上向きの流れはありません」
セルフィナの声が低くなる。
成人警備員が僕たちの前へ出た。
保守口の格子には物理封印が残っている。壊れた跡も、開けられた形跡も見えない。
「精霊を奥へ入れるな」
「入れません」
セルフィナはすぐに風精霊を呼び戻した。
流れてきた空気は、冷たく乾いていた。古い石粉の匂いに、僅かな金属臭が混じっている。
血や人の匂いではない。黒い汚染を思わせる気配もなかった。
成人警備員が携行箱から物理式風向測定具を取り出す。
細い測定糸と軽い金属環、目盛り板だけで作られた簡素な道具だ。
僕は指示を受け、無事な右手で金属環を支えた。ティアナが目盛り板を水平に保ち、ユリウスが時刻と位置を記録する。
セルフィナは僕の隣で測定糸を整えた。
「少しだけ下げてください」
「このくらい?」
「はい。その位置で――」
突然、冷たい風が格子の下から吹き上がった。
金属環が強く引かれる。
僕とセルフィナは同時に手を伸ばした。
重なった指先から、ひやりとした温度が伝わる。狭い通路で互いに踏み込んだせいで、肩と顔の距離まで近くなった。
翡翠色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「離さないでください。測定がずれます」
「う、うん」
調査中だと分かっているのに、僕の鼓動が一拍だけ余計に跳ねた。
セルフィナの髪先が風に揺れ、すぐ目の前を横切る。
ティアナは何も茶化さず、目盛り板を見たまま告げた。
「上向き。さっきより強いよ」
測定糸が三つ目の目盛りを越えたところで、風は急に弱まった。
僕とセルフィナはすぐに手を離す。
その瞬間だった。
左腕の奥が、どくり、と一度だけ脈打った。
心臓の鼓動とは違う。
痛みとも、外部操作で引かれた感覚とも違う。
けれど、治療布の下で左腕が動いたわけではない。封魔具も沈黙したままだ。
「異変です」
僕は即座に声を上げた。
成人警備員が振り返る。
「左腕が一度だけ、内側から脈打ちました。勝手には動いていません。空腹と暴食の兆候はありません。封魔具も作動していません」
「発生源は分かるか?」
「分かりません。方向も距離も、何に反応したのかも分かりません」
もう一度確かめようと意識を向けても、左腕は何も返さなかった。
再現できない。
僕はそれ以上探ろうとはせず、右手も身体の横へ戻した。
「全員、格子から離れろ」
成人警備員の一人が僕たちを安全な距離まで下げる。
もう一人は保守口へ近づかず、通路の両端を封鎖した。正式な内部連絡が医療区画と調査担当へ送られる。
短い待機の後、バルト先生とセレネ先生が、成人治療職員と成人記録官、追加の学院警備員を伴って到着した。
「アルト、申告した順にもう一度話せ」
僕が反応を説明すると、バルト先生は呼吸と脈拍を測り、右脚の感覚を確かめた。
続いて治療布の上から左腕の熱を確認する。
封魔具には触れず、監視用の物理表示板へ目を向けた。
「封魔具の作動なし。暴食が開いた兆候もない。周囲から魂や魔力を吸収した反応もないな」
「左腕は?」
ティアナが尋ねる。
「炎症と熱傷に新しい悪化はない。ただし、異常がなかったという意味ではない。アルトはこれ以降、地下経路の調査には参加させない。反応が再発すれば即座に医療区画へ移す」
「はい、バルト先生」
セレネ先生は保守口へ近づく前に、成人記録官と封印番号、確認順序、担当者を照合した。
格子には触れない。
細長い物理試験紙を保持具へ挟み、離れた位置から空気の流れへ差し入れる。
白かった紙面へ、淡い灰色の線がいくつも浮かんだ。
「現在の学院標準術式とは組み方が違います」
セレネ先生は試験紙を保護板へ収めた。
「古い魔力構造が、空気へ非常に薄く混ざっています。ただし、正確な年代も、誰が何のために作ったものかも分かりません」
「保守口の下に、魔力源があるのですか」
ユリウスが問う。
「そうとは限りません。保守口の直下だけから来た魔力ではありません」
セレネ先生は古い物理図面を開く。
現行図面にはない細線が、何本も王都側へ伸びていた。けれど、その多くは途中で途切れ、封鎖済みの印が押されている。
「古い経路を長く通って、薄く混ざった可能性があります。遠いことは分かっても、方向と距離までは特定できません」
生物なのか。
遺物なのか。
術式なのか、それとも古い建物そのものが残した魔力なのか。
何一つ分からない。
僕の左腕が反応した理由も同じだった。
「左腕を使って、もう一度探らせることはできないのですか」
ユリウスは僕ではなく、バルト先生へ尋ねた。
「認めない」
バルト先生は即答した。
「再現できない反応を探知能力とは呼べん。暴食を意図的に開くことも、黒い魔力を伸ばすことも許可しない」
「僕もやりません」
僕ははっきり告げた。
分からないものを確かめたい気持ちはある。
だからこそ、一人で危険を背負わない。身体の反応を、安全なふりで小さくもしない。
学院長から新しい命令が届いた。
保守口は開けず、成人警備員を二名以上配置する。物理封印、周辺の足跡、工具痕、認証使用記録を確認し、現行図面と古い物理図面を照合する。
地下経路の調査は、成人中心の専任班が非破壊測定から始める。
僕たち学生は退避経路の確認へ戻され、制限線の内側へ入ることは認められなかった。
正しい判断だ。
それでも、離れていく途中で一度だけ振り返る。
二重の警備の向こうで、閉ざされた金属格子から細い測定糸が揺れていた。
風が止まったように見えた次の瞬間、糸はまた僅かに上を向く。
七騎が去った王都の空白で、閉ざしたはずの学院地下だけが、誰にも許可されていない呼吸を続けていた。
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