第84話 七騎出陣
北側組の合格印を読み終えるより早く、東方集落の警鐘が七度、朝の空を裂いた。
一度目で、役場前にいた人々の会話が止まった。
三度目で、商店の戸が閉じ始める。
七度目が鳴りきった時には、集落警備員が街道と広場を分け、避難馬車の点検を始めていた。
七度の警鐘は、王国規定に定められた広域緊急令だ。
僕の手には、フィア、レグルス、メルナが現地任務の合格条件を満たしたと記された物理試験記録が残っていた。
その喜びを言葉にする時間さえなかった。
「学生は役場の中へ。成人職員は荷車を西側の壁際へ移動させろ」
同行していた成人試験官が即座に指示を出す。
僕とティアナ、セルフィナは成人試験官に従って役場へ入った。
外では、輸送を担当していた成人職員が馬と荷車を人の流れから外している。
「王国のどこかで、大きな異常が起きたってことだよね」
ティアナが窓の外を見た。
「一地域とは限りません」
セルフィナの周囲を、健康な風精霊が不安そうに回る。
「七度の警鐘は、複数の防衛区画へ同時に命令を出す場合にも使われます」
間もなく、二頭立ての王国記録馬車が役場前へ止まった。
降りてきた王国記録官は、鎖で腕へ固定した金属箱を役場責任者と成人試験官の前へ置く。
箱には王国の物理印、当日認証、封蝋が揃っていた。
三人がそれぞれの照合板を重ねる。
不一致を示す反応はない。
「正規命令です」
王国記録官が封蝋を割った。
「北部、西部、南部、東部の四防衛域に、同時緊急令。卒業試験より王国避難規定を優先してください」
広げられた命令書には、四つの地域から届いた情報が短く整理されていた。
北部山岳地帯。
数百体規模の魔物群が、二つの峠へ向けて移動している。周辺集落の避難は始まっているが、現地守備隊だけでは両方を守れない。
西部穀倉地帯。
複数の広域結界柱で、魔力の急低下が発生。地下と森林から侵入した魔物が、穀倉地帯と避難路の間へ流れ込んでいる。
南部水路地帯。
河川と湖を繋ぐ結界網が歪み、水棲魔物の群れが堤防と集落へ接近。避難船の確保と結界修復を同時に行う必要がある。
東部旧森林帯。
本来の生息域を離れた複数種の魔物が、交易路と巡回拠点へ集まりつつある。
昨日、僕たちが退けた五体の岩牙狼とは規模が違う。
「この報告は本物ですか」
僕が尋ねると、王国記録官は別の束を取り出した。
「現地守備隊の物理印、王国観測塔の結界記録、三方向から帰還した偵察員の報告が一致しています。北部と西部では既に交戦が始まり、負傷者も出ています」
壊された外壁。
街道を埋める足跡。
ひび割れた結界柱。
治療を受ける守備兵と、避難を始めた住民。
異なる場所で、異なる人間が残した記録が揃っている。
誤作動でも、幻像でもない。
無視すれば、本当に人が死ぬ。
「卒業試験中の組はどうなりますか」
ティアナが確認する。
「新規出発は停止。移動中の組は、成人試験官の指揮で最寄りの安全拠点へ入ります。学生を広域戦場へ転用する命令は出ていません」
成人試験官が僕たちの試験記録を閉じた。
「東側組は現地任務を終えている。王国警備が確保した西行きの経路を使い、学院へ帰還する」
北側組の記録には、現地合格印とは別に新しい安全確認印が追加されていた。
フィア、レグルス、メルナは、同行する成人試験官とともに北側の中継拠点へ入った。魔物群が確認された山岳地帯とは距離があり、現在は安全だという。
姿は見えなくても、その物理印は確かなものだった。
「フィアたちは大丈夫」
ティアナが小さく息を吐く。
「ですが、通常連絡は再開されていません」
セルフィナは事実を分けた。
「安全拠点へ到着したことまでが確定です。私たちは私たちの帰還命令へ従うべきでしょう」
「ああ」
僕はうなずいた。
騎士なら、危険な場所へ向かうべきだ。
そんな考えが、一瞬だけ胸を過ぎる。
けれど、僕はまだ卒業試験中の学生だ。左腕には治療布と封魔具があり、単独行動も禁じられている。
命令を破って戦場へ向かうことは、勇気ではない。
東方集落を出たのは、緊急令から半刻後だった。
成人試験官と輸送担当の成人職員が同行し、王国警備員二名が次の検査所まで前後を固めた。
帰路は行きよりも騒がしかった。
それでも混乱はしていない。
街道の中央を騎士団の先遣騎馬が走り、東側を避難用馬車、西側を補給隊が進む。交差点ごとに警備員が立ち、軍用路と民間の避難路を分けていた。
結界柱を修理する技師たち。
治療箱を積んだ救護馬車。
食料と魔力石を満載した補給車。
僕たちと反対方向へ進む大人たちの顔に、浮ついた高揚はなかった。
これから、本物の戦場へ向かう顔だった。
二刻ほど進んだところで、右脚へ僅かな痺れが戻った。
僕はすぐ成人試験官へ申告し、四半刻だけ荷車へ乗った。左腕の痛みは昨日より悪化しておらず、空腹と魔力にも異常はない。
封魔具も作動していない。
学院へ到着したのは、緊急令から半日ほど経った頃だった。
東門の警備員は普段の倍に増えている。
僕たちは帰還人数、封魔具の状態、卒業試験記録を確認された後、成人試験官の同行で緊急作戦広間へ移動した。
広間の中央には、王国全土を示す大きな物理地図が置かれていた。
北、西、南、東。
四つの方角へ、赤い危険標が並んでいる。
学院長、王国連絡官、成人記録官、残留する学院職員が、その周囲を囲んでいた。
「帰還した学生へ必要な範囲だけ説明する」
学院長が告げる。
「各地の警報は全て真正だ。現地の物理記録、観測塔、帰還者の証言が一致している。偽報や幻像で七大魔法騎士を誘い出した事件ではない」
赤い標の一つが、北部の二つの峠へ置かれた。
「雷虎騎士団と風鷹騎士団を北部へ」
次に西部。
「炎獅子騎士団と土亀騎士団は西部穀倉地帯。結界柱と住民の避難路を同時に守る」
南部の河川と湖へ、二つの標が動く。
「水蝶騎士団と光龍騎士団は南部水路地帯。堤防防衛、避難船護衛、結界修復を担当」
最後に東部。
「灰鬼騎士団は東部旧森林帯。交易路と巡回拠点を防衛する」
七大魔法騎士。
二十ある騎士団の団長から選ばれた、王国最高の七人。
その全員が、王都を離れる。
「七人全員でなければ、間に合わないのですか」
セルフィナが尋ねた。
王国連絡官は、南部の報告板を地図の横へ置く。
「一人を残せば、その一人が向かうはずだった地域で結界修復か住民避難のどちらかが遅れる。現地守備隊だけでは、両方を維持できない」
「なら、出陣は必要です」
ティアナが静かに言った。
誰かが王都へ残れば安心できる。
けれど、その安心と引き換えに、遠くの誰かを危険へ置くことになる。
七大魔法騎士は王都を見捨てるのではない。
王都の外にもいる、守るべき人々のもとへ向かうのだ。
成人記録官が、古い結界点検票を地図の脇へ並べた。
「ただし、不自然な点もあります」
西部の結界柱には、数か月前から微細な摩耗があった。
南部の結界網にも、一度では測定限界へ届かない小さな揺らぎが積み重なっている。
魔物群の移動経路を逆に辿れば、生息域の変化や繁殖は短期間で起きたものではなかった。
「異常が始まった時期は、地域ごとに違う」
成人記録官が言う。
「だが、七大魔法騎士の派遣基準を超えた時刻は、四半刻以内に集中している」
偶然。
そう片づけることはできる。
長く蓄積していた異常が、たまたま同じ朝に限界を迎えた。
あり得ないとは言えない。
けれど、セルフィナの翡翠色の瞳が細くなる。
「本物の脅威だからこそ、出陣しない選択肢がない。誰かがそれを理解した上で時期を揃えた可能性も、まだ否定できません」
「その可能性を裏づける証拠はない」
学院長が答える。
「今は各地の人命を優先する。同時に、学院と王都の残留警備を再編する」
学院の門。
封印区画。
医療区画。
下級生寮。
残っている学院警備員と職員は、区画ごとに配置し直される。
王都にも王城警備隊、都市警備隊、各騎士団の残留隊がいる。結界維持担当者も残る。
完全に守りが消えるわけではない。
それでも、大規模な異常へ即座に向かえる七人と、主力部隊の多くがいなくなる。
卒業試験へ出た十回生と成人試験官も、各地の安全拠点に散ったままだ。
学院長は僕たちへ向き直った。
「帰還した学生は、学院の許可区画から出るな。戦場への志願も認めない。異常を発見した場合は、自分で追わず、残留警備へ申告しろ」
「はい」
僕は答えた。
出陣する騎士たちと並びたい気持ちは消えない。
けれど、今の僕の役割はそこではない。
夕刻前、七つの隊列が王都の各門へ動き始めた。
学院の高い外廊から、僕とティアナ、セルフィナはその出陣を見送った。
北へ向かう雷虎の旗。
空を裂く翼を描いた風鷹。
西へ進む炎獅子と、重い歩調を揃える土亀。
南へ流れる水蝶と、白く輝く光龍。
東門を抜ける灰鬼。
その後ろには銀鷲、蒼牛、白鯱をはじめとする主要騎士団の増援隊が続く。
結界資材を積んだ馬車。
救護車。
補給隊。
成人記録官。
旗だけを見れば壮麗だった。
だが、沿道の市民から上がるのは歓声ばかりではない。
祈る声。
家族の名を呼ぶ声。
不安を押し込めた、短い激励。
これは祝祭ではない。
七つの戦場へ向かう出陣だった。
水蝶騎士団の選抜部隊が、学院南側の大路を通る。
その中に、レイシアがいた。
整然と進む大勢の騎士の一人。
それでも僕は、すぐに見つけた。
レイシアも外廊を見上げる。
離れた距離で、一瞬だけ視線が重なった。
あれほど多くの人が見送っているのに、彼女が僕を見つけた。
その事実に、胸が不意に強く鳴る。
レイシアは剣の柄へ二本の指を添えた。
必ず帰る。
騎士が出陣前に交わす、短い仕草。
僕も右手の二本の指を、自分の剣の柄へ触れさせた。
レイシアは僅かに目を細めると、すぐ前へ向き直った。
水蝶の旗が翻り、隊列は南門の向こうへ消えていく。
ティアナもセルフィナも、何も茶化さなかった。
ただ、それぞれの旗が見えなくなるまで、同じ外廊に立っていた。
やがて、七つの隊列が王都を出た。
廊下を歩けば、足音が不自然なほど響く。
十回生の声がない。
成人試験官の多くもいない。
主力騎士団の号令も、演習場から消えていた。
警備員は増えている。
門も閉じられている。
結界も動いている。
それでも学院には、これまでとは違う静けさが満ちていた。
各地の脅威は本物だ。
七騎の出陣も正しい。
だからこそ、その結果として生まれた静けさが、僕にはひどく不自然に思えた。
七騎が本物の脅威へ向けて王都を離れたあと、学院には、偶然と呼ぶには整いすぎた空白だけが残った。
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