第83話 最下位ではない
高台道へ入って一刻、セルフィナの風精霊が、僕の鼻先で三度鋭く旋回した。
「止まってください」
セルフィナの声に、輸送担当の成人職員が手綱を引いた。
治療薬と封印資材を積んだ荷車が、軋みながら停止する。
道の左側は岩の露出した斜面。右側は低い谷へ落ち込んでいる。僕たちが共同判断で選んだ高台経路は、ここから先で大きく左へ曲がっていた。
曲がり角の向こうに、連絡を絶った巡回所があるはずだった。
成人試験官が僕たちより半歩後ろで足を止める。
「状況を確認しろ。危険基準を超えた場合、こちらで介入する」
答えを教える言葉ではない。
セルフィナは翡翠色の瞳を細め、戻ってきた風精霊へ両手を差し出した。
「前方の様子を、近い範囲だけ確認してください。建物、人、動いているもの、風の抜け方を分けて」
風精霊は淡い光を引き、曲がり角の向こうへ消えた。
「私も地面を見るね」
ティアナがしゃがみ、指先で湿った土を押す。
僕は地図を広げた。
巡回所は道が広くなった場所に建っている。背後には斜面、東側には小さな資材小屋。逃げ道になるのは、僕たちが来た西側の道と、集落へ続く東側の道だけだ。
やがて風精霊が戻った。
セルフィナは報告を受け取りながら、地図の上へ細い指を置く。
「巡回所まで約七十歩。建物内に二人います。一人は立っていますが、もう一人は床に座ったままです。呼吸はあります」
「連絡線は?」
「倒木の下です。雨で根元から倒れた木が、物理連絡線を切断しています」
まず、人が生きている。
それだけで胸の奥にあった力が少し抜けた。
だが、セルフィナの表情は緩まない。
「岩牙狼が五体。扉の前に一体、左の斜面に二体、資材小屋の陰に一体。倒れた連絡柱の近くに、ほかより大きな一体がいます」
「群れ長だね」
ティアナが地面へ三本の線を引いた。
「このまま近づいたら、五体に囲まれる。だけど地面は動かせるよ。斜面と道の間に低い壁を作って、走れる場所を分ける」
「全部を止められる?」
僕が尋ねる。
「無理。三本の通路に分けるところまで。群れ長が本気で壊せば、長くは保たないと思う」
セルフィナが風向きを確かめる。
「今は私たちから巡回所側へ吹いています。匂いはいずれ届きます。作戦を決めるなら早いほうがいいでしょう」
僕は地図と実際の地形を見比べた。
「荷車をここから二十歩戻して、岩陰へ移すのはどうですか」
成人職員へ提案する。
「馬車一台なら入る。正面からも見えにくい」
成人職員は岩陰までの幅を目で測った。
「可能だ。獣が抜けてきても、すぐ東へ走れない向きに馬を置く」
次に、ティアナとセルフィナを見る。
「ティアナが道を三つへ分ける。セルフィナは中央から五体の位置を追う。僕は中央の通路を止める」
「一人で五体を受ける形にはしないよ」
ティアナが念を押す。
「壁が崩れたら、すぐ言う。私が補強できない時は撤退」
「私の風精霊が見失った場合も、前進を止めてください」
「分かった。群れ長と二体以上が同時に中央へ入ったら撤退。成人試験官にも介入をお願いします」
「三名の作戦と撤退条件を確認した」
成人試験官が物理記録板へ書き込む。
「続行を許可する」
成人職員が荷車を岩陰へ移し始めた。
僕は剣を抜き、右手で握りを確かめる。治療布に覆われた左腕は身体の近くへ置いた。黒銀色の封魔具は沈黙したままだ。
「アルト、少し動かないで」
ティアナが僕の正面へ立った。
手には、荷車の目印に使う緑色の布がある。
「何に使うの?」
「土煙が出たら、セルフィナから見えなくなるかもしれないから」
ティアナは背伸びするように顔を寄せ、僕の右肩にある装備紐へ布を通した。
結び目を作る指が、僕の頬のすぐ横で動く。
一瞬だけ上がった視線が、僕の目と重なった。近い距離から伝わる呼吸に、戦いとは別の理由で胸が鳴る。
「動かないで。見失わないためだから」
「う、うん」
ティアナは結び目を二度確かめると、すぐに離れた。
「これでよし」
何事もなかったように地面へ手を向ける。その横顔の耳が僅かに赤く見えたけれど、確かめている時間はなかった。
岩牙狼の遠吠えが、高台道を震わせた。
僕たちの匂いに気づいたのだ。
「始めるよ」
ティアナが両足を開き、地面へ両手を重ねた。
「大地よ、根を抱き、走る牙の道を分かち、我らの足場を守れ――第二階位・土魔法《地脈分陣》」
地鳴りが走った。
湿った道が三本の筋に沿って盛り上がり、低い岩壁へ変わる。
左右の壁は斜面と巡回所の柵へ繋がり、中央に細長い通路を残した。道そのものを破壊せず、獣の走れる方向だけを分けている。
その反動でティアナの靴が土へ沈んだ。
「通路、完成! でも長くは保たない!」
「五体、動きます」
セルフィナの周囲で三体の風精霊が散った。
「中央に一体。左に二体。右に一体。群れ長は後方!」
灰色の影が、岩壁の向こうから飛び出した。
岩牙狼。
岩片のように逆立った体毛が擦れ合い、硬い音を立てる。中央へ入った一体が地面を蹴ると、湿った土が後方へ爆ぜた。
距離は十歩。
八歩。
五歩。
狼の前脚が地面を離れる。
牙が僕の喉へ向いた。
正面から受ければ、右腕一本では押し負ける。
だから、止めない。
ずらす。
僕は剣先を狼の着地点へ向けた。
「集え、散るな。形なき力よ、我が一点に重みを結べ――第一階位・基礎魔法《衝圧》」
剣先の前で空気が弾けた。
派手な光はない。
岩牙狼の身体も吹き飛ばない。
ただ、着地寸前だった右の前脚が半歩だけ外へ押された。
それで十分だった。
狼の爪が湿った地面を滑る。
僕は右へ身を開き、すれ違いざまに剣を振り下ろした。
刃が硬い毛を擦り、火花を散らす。狙ったのは毛の薄い前脚の内側だ。
血が一筋走り、岩牙狼が地面へ転がった。
一体目。
倒れた狼を追撃せず、僕は中央通路へ剣を戻す。
「右、壁の外から回り込んでいます!」
セルフィナの声が飛んだ。
見えない。
だが、迷って振り返れば正面が空く。
僕は右足を軸に半身だけ回した。
岩壁の切れ目から、二体目の牙が現れる。
近い。
「《衝圧》!」
短く放った圧力が、開かれた顎の横を叩いた。
噛みつきが肩から外れる。
牙が緑の目印布を掠めた。
僕は身体を沈め、狼の首下へ剣の腹を当てた。その勢いを殺さず横へ流し、岩壁へ叩きつける。
鈍い衝撃。
二体目が崩れ落ちた。
たった二度の基礎魔法で、息が熱い。
胸の内側が空になる感覚がある。
僕の魔力量は増えていない。
あと一度。
安定して使えるのは、それが限界だ。
左側の岩壁へ、二つの影が同時にぶつかった。
土と石が散る。
ティアナが歯を食いしばった。
「左の二体、まだ止められる!」
「群れ長が来ます!」
連絡柱のそばにいた大型の岩牙狼が、頭を低くした。
ほかの個体より一回り大きいだけだ。
それでも、地面を蹴った瞬間の圧力は別物だった。
一歩ごとに土が抉れる。
群れ長は中央へ向かわず、二本の岩壁が交わる根元へ肩から突っ込んだ。
轟音。
岩壁がひび割れ、土煙が爆発するように広がった。
視界が茶色に染まる。
「アルトが見えません!」
「右肩の布!」
ティアナの声が土煙を貫いた。
緑色の布が視界の中で揺れる。
セルフィナの風精霊がその目印へ集まり、僕の周囲だけ土煙を薄くした。
「アルト、右前方三歩! 群れ長が通路へ入ります!」
「ティアナ、壁は?」
「一度だけ補強する!」
ティアナが沈んだ足を踏み直す。
「《地脈分陣》!」
割れた岩壁の根元から、新しい土の隆起が突き上がった。
左から来ていた二体の足元が傾き、進路が再び分断される。
だがティアナの肩が大きく上下した。
魔力の負担で、両脚がさらに土へ沈んでいる。
長くは保たない。
群れ長が土煙を裂いた。
口が開き、岩を噛み砕けそうな牙が迫る。
「左前脚の下、崩れています!」
セルフィナが叫ぶ。
群れ長の踏み込む地面が、先ほどの体当たりで僅かに陥没していた。
僕は正面から剣を構えた。
残る魔法は一度。
右脚には疲労が溜まっている。大きく跳ぶことはできない。
必要なのは、半歩だけ。
群れ長の前脚が陥没した土へ着く、その直前。
「《衝圧》!」
最後の圧力を、狼ではなく前脚の着地点へ叩き込んだ。
湿った土が横へ弾ける。
群れ長の足が沈み、突進の軸が僅かに右へ傾いた。
僕は左腕を身体へ寄せたまま、右足を半歩だけ外へ滑らせる。
止めない。
力で勝とうとしない。
突進の先から、僕自身を消す。
「学院式剣術・第三型――《流し月》!」
狼の牙が僕の肩先を掠める。
同時に、剣が低い弧を描いた。
刃は岩のような体毛の表面を滑り、その下にある前脚の内側へ潜り込む。
一閃。
支えを失った群れ長の身体が傾いた。
勢いのまま地面へ激突し、巡回所の前を何度も転がる。最後に倒木へぶつかり、動きを止めた。
高台道に、重い静寂が落ちる。
左側にいた二体が足を止めた。
群れ長を見て、僕たちを見て、低く唸る。
僕は追わなかった。
剣を構えたまま、巡回所から離れる方向だけを空ける。
「退路を残します」
セルフィナの風精霊も、二体の背後を塞がなかった。
やがて岩牙狼たちは身を翻し、斜面の林へ消えた。
「追跡しない」
僕が言うと、ティアナとセルフィナが同時にうなずいた。
守るべきなのは荷車と巡回所の二人だ。
魔獣を何体倒したかではない。
成人試験官が剣の柄から手を離した。
緊急介入はなかった。
戦いが終わったと理解した途端、右脚へ細い痺れが走った。左腕にも鈍い痛みが戻る。
僕は剣を納める前に申告した。
「右脚に軽い痺れ。左腕の痛みも少し強くなっています。空腹は通常。魔力変化と暴食の兆候はありません」
成人試験官が近づき、呼吸と歩行を確認する。
黒銀色の封魔具は作動していない。
「申告を記録する。ここからは歩行を制限する。巡回所の確認後、四半刻休め」
「はい」
巡回所の扉は、内側から机と棚で補強されていた。
成人職員が外の安全を伝えると、警戒しながら一名の巡回職員が顔を出す。
もう一名は脚へ布を巻き、壁際に座っていた。
二人は戦えない状態でも、連絡記録と非常食、窓の補強を済ませていた。救援が来るまで、自分たちで持ちこたえていたのだ。
倒木の下を調べると、切断された物理連絡線が見つかった。
不審な術式も、誰かが工具で切った痕跡もない。
雨で緩んだ根が倒れ、線を切断した。その後、岩牙狼が巡回所周辺へ入り込んだ。
それが連絡途絶の原因だった。
負傷した巡回職員を荷車へ乗せ、もう一人にも同行してもらう。
治療薬も封印資材も、一箱も失っていない。
四半刻の休憩を挟んだ後、僕たちは東方集落へ向かった。
到着したのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
物資は現地職員へ正式に引き渡され、二名の巡回職員も治療所へ運ばれた。
成人試験官が物理記録板へ一つずつ記す。
成人介入なし。
護送対象保全。
巡回所確認完了。
巡回職員二名救助。
三名共同判断。
負傷と異変の申告適切。
魔獣を無理に追跡せず。
最後に、現地任務の合格条件を満たしたことを示す印が押された。
卒業が決まったわけではない。
僕たち自身による物理報告書も残っている。
それでも、三人で得た最初の結果だった。
翌朝。
学院から東方集落へ到着した物理試験記録便に、北側組の要約も含まれていた。
フィア、レグルス、メルナは停止した中継所へ到達し、中継所職員を保護した。
フィアが近距離を確認し、レグルスが広い範囲と退路を確保し、メルナが幻像で視界を管理した。
安全を確定できない旧街道を無理に開放せず、危険区間を封鎖して正式な報告を選んだ。
成人試験官の戦闘介入はなし。
北側組も、現地任務の合格条件を満たしていた。
僕がいなくても、三人は自分たちの役割を作り、守るべきものを守った。
僕たちも、フィアとレグルスがいない隊列で任務を通した。
「アルト」
成人試験官が、前日の記録板を閉じる。
「お前の魔力量の順位は変わっていない」
「はい」
三度《衝圧》を使っただけで、僕の魔力はほとんど尽きた。
その事実は消えない。
「だが、卒業試験は魔力量を並べる試験ではない。持っている力をどう使い、誰を守り、任務を通すかを見る」
僕の右肩には、土煙で汚れた緑色の布がまだ結ばれていた。
僕の魔法だけでは、岩牙狼を止められなかった。
ティアナの地形がなければ、五体を分けられなかった。
セルフィナの索敵がなければ、死角からの牙にも、群れ長の崩れた足場にも気づけなかった。
それでも僕は、二人の力の後ろへ隠れていたわけではない。
中央通路に立ち、自分の剣と小さな魔法を、必要な瞬間へ届かせた。
魔力量が学年下位のままでも、暴食に頼らず仲間の力を繋いで任務を果たした僕は、もう『何もできない最下位』ではなかった。
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