第80話 守るための選択
《アークデーモン心臓遺物封印簿》の赤褐色の文字が乾ききる前に、学院の三連警鐘が鳴った。
低く、鋭く、間を置かずに三度。
生徒の生命に関わる異常を知らせる音だ。
「緊急報告!」
証拠確認室の扉が開き、学院警備員が二枚の物理伝令板を抱えて入ってきた。
「外周保守環から北側の旧検査門へ、ローデン評議官の転移痕が続いています。検査門の閉鎖まで、残り六分!」
ローデン評議官を捕らえられる。
その可能性が、まだ残っていた。
「もう一件は?」
学院長の問いに、学院警備員の表情が険しくなる。
「中央演習棟の避難待機室で、非常隔壁が一斉作動。四十二名の生徒と二名の学院職員が閉じ込められました。演習用防壁核の魔力が天井側へ逆流しています」
「破裂までの猶予は」
「長くても七分です」
追跡と救助。
二つの残り時間が、ほぼ同時に削られている。
学院長が机上へ中央演習棟の簡易図面を広げた。南側に出入口、西側に避難区域、北側天井に防壁核。制御盤は東壁にある。
セルフィナのそばにいた健康な風精霊が、落ち着かない様子で淡い青緑色の身体を揺らした。
「外周の痕跡はまだ続いています。ただし、複数の偽経路が重なっています」
セルフィナが事実だけを告げる。
成人追跡班だけでも追跡は続けている。
そこへ僕たちが加われば、ティアナが検査門の床を封じ、フィアが転移制御線を切り、レグルスが残留気流を追える。僕もローデン評議官の回収記録から偽経路を見分けられるかもしれない。
捕縛できる可能性は上がる。
けれど、そのために演習棟へ向かわなければ。
「避難待機室の学院職員は?」
「二名とも無事です。生徒を西側の低壁裏へ誘導し、落下物を防護具で防いでいます。ただ、外からの手動解除が偽制御線に阻まれています」
「僕たちを救助班へ入れてください」
考えるより先に、言葉が出ていた。
学院長の鋭い視線が僕へ向く。
「追跡へ加われば、ローデン評議官を捕縛できる可能性があるぞ」
「分かっています。でも、演習棟の生徒は今すぐ助けが必要です」
「私はアルトと行きます」
ティアナが迷わず続いた。
「偽制御線なら、私が切る」
フィアも証拠台から離れる。
レグルスは一度だけ外周の伝令板を見たあと、短く息を吐いた。
「煙と熱が籠もっているなら、風路の確保が要る。救助へ回る」
学院長は僕たちの顔を順に見た。
「成人追跡班は予定どおり外周へ向かわせる。アルト、ティアナ、フィア、レグルスは、成人監督者の指揮下で中央演習棟の救助へ参加せよ」
「はい!」
「バルト先生。アルトの参加条件を」
後方から進み出たバルト先生が、僕の左腕と右脚へ視線を走らせる。
「走り続けるな。左腕を使うな。封魔具へ触れるな。右脚の痺れが強まったら即座に申告しろ。暴食は禁止だ」
「分かりました」
「お前の役割は解除手順の確認と避難誘導だ。瓦礫を持ち上げようとするな。成人監督者の手が届く範囲から出るな」
「はい」
僕たちは証拠確認室を出た。
先頭を学院警備員、後方を救護職員が固める。僕の隣には成人監督者が付き、走れない僕に合わせて全員が速足で回廊を進んだ。
中央演習棟へ近づくほど、空気が熱くなる。
扉の隙間から、黒灰色の煙が細く噴き出していた。
「内部配置を報告!」
学院警備員が叫ぶ。
「生徒は西側低壁の裏! 防壁核は北側天井! 東壁の制御盤までの通路に落下物あり! 南側隔壁は手動解除待ち!」
正面の隔壁には、成人警備員二名が解除器を接続している。
厚い金属板の向こうから、生徒たちの咳が聞こえた。
「隔壁を一尺だけ開ける! 内部魔力が流れ込む、備えろ!」
隙間が開いた瞬間、熱風が獣の咆哮のように吹き出した。
天井近くでは演習用防壁核が赤く脈打ち、その周囲を走る支持具が一本ずつ外れかけている。
残り時間を示す制御盤の灯りは、七つ。
一つが消えた。
「ティアナ、中央の支持具!」
「任せて!」
ティアナが床へ両手を向ける。
「大地よ、揺らぐ礎を抱き、崩れ落ちる天を支えよ――第二階位・土魔法《岩柱列陣》!」
轟音とともに床石の継ぎ目が光った。
避難路を避けて太い岩柱が四本せり上がり、落ちかけた天井支持具を下から受け止める。
天井全体が激しく震え、粉塵が雨のように落ちた。
「ぐっ……!」
反動でティアナの靴が床へ沈む。
それでも岩柱は生徒たちの頭上を守った。
「レグルス、煙を南東の排気口へ!」
「指図されるまでもない!」
レグルスが右手を高く掲げた。
「風よ、閉ざされた熱を攫い、命の道を空へ穿て――第二階位・風魔法《旋流排気》!」
煙が巨大な渦となって持ち上がった。
熱気だけを巻き込み、生徒のいる西側を避け、天井近くの排気口へ細く絞り込まれていく。
濁っていた視界に、一本の空気の道が生まれた。
「生徒を六名ずつ南側へ! 走らせないでください! 低い姿勢のまま!」
僕の声に、内部の学院職員が手を上げた。
一人が生徒を並べ、もう一人が落下物を防護具で受け止めている。
成人警備員が隔壁の隙間から最初の六名を引き出した。
救護職員がすぐに受け取り、煙を吸った生徒から順に状態を確認する。
「フィア、制御盤の右上! 正規線は白、偽制御線は銀灰色だ!」
「見えてる」
フィアが細剣を抜いた。
三本の銀灰色の線が制御盤から天井へ伸び、防壁核の脈動に合わせて鈍く光っている。
「紫電よ、我が刃に沿い、偽りの脈だけを断て――第一階位・雷魔法《雷装・断脈》!」
紫の雷が細剣の刃へ薄く絡みつく。
フィアは正規線へ触れない角度から踏み込み、最上段の偽制御線だけを斬り払った。
鋭い火花が散る。
防壁核の脈動が一度乱れたが、止まらない。
「二本目は今切ると逆流する!」
僕は制御盤の刻印と脈動を見比べた。
「赤い灯りが二回続いた直後だ!」
四つ目の灯りが消える。
右脚の痺れが膝まで上がってきた。
「右脚の痺れが強くなっています。でも立ったままの確認はできます」
「制御盤から動くな」
成人監督者が僕の右側へ立ち、倒れた場合に支えられる距離を保った。
「はい」
床が大きく跳ねた。
天井から石片が落ち、フィアの足元へ転がる。
細剣の先が僅かにぶれた。
「アルト、三呼吸だけ、背中を貸して」
「分かった」
フィアが一歩下がり、僕の右肩へ背中を預けた。
薄い制服越しに伝わる体温。
短く整えられた呼吸。
危険の只中なのに、その近さを一瞬だけ意識してしまう。
けれどフィアの視線は、銀灰色の線から外れない。
「一回……二回……今!」
僕の声と同時に、フィアが床を蹴った。
背中の温度が離れる。
「《雷装・断脈》!」
二本目の偽制御線が切断された。
防壁核の赤い光が半分まで弱まり、隔壁がさらに一尺開く。
「次の十二名を!」
生徒たちが順番に運び出される。
その時、外側から学院警備員が駆け込んできた。
「追跡班より伝令! 旧検査門の閉鎖まで二分! 今なら四人のうち一名でも合流すれば、経路を絞れる可能性があります!」
ローデン評議官を捕らえられるかもしれない。
今からなら、フィアの速さは間に合う。
レグルスなら残留気流を追える。
ティアナなら検査門を封じられる。
けれど、三人の誰が欠けても。
岩柱が崩れる。
煙が戻る。
最後の偽制御線を切れない。
西側には、まだ生徒が残っている。
「誰も抜けない。ここを終わらせる」
僕は言った。
「異論なし」
フィアが細剣を構え直す。
「ここを支えたまま、誰かを行かせる余裕はないよ」
ティアナの額には汗が浮いていた。
レグルスも苦しげな呼吸のまま、風を維持している。
「選んだ以上、全員助けるぞ」
成人監督者が伝令へ向き直った。
「救助班は現配置を維持する。追跡は成人追跡班へ任せると返答しろ!」
「了解!」
最後から二つ目の灯りが消えた。
天井支持具が連続して外れ、ティアナの岩柱へ亀裂が走る。
「《岩柱列陣》!」
新たな二本の岩柱が床から突き上がる。
ティアナの膝が震えたが、崩れかけた天井は再び押し止められた。
排気口の一部が落下物で狭まり、煙が西側へ戻り始める。
「《旋流排気》!」
レグルスが風の渦を細く絞った。
頬を伝う汗が横へ吹き飛ぶ。
「残り八名!」
学院職員が叫ぶ。
「三本目は中央の正規線へ重なってる」
フィアの声が鋭くなる。
最後の偽制御線は、防壁核へ直結する白い線の裏側を走っていた。
切断の機会は、脈動が線を僅かに浮かせる一瞬だけ。
「次の強い脈動まで、四回!」
僕は赤い光を数える。
「成人警備員は手動解除器へ! 三本目が切れた直後に右へ回してください!」
「了解!」
一回。
最後の生徒たちが隔壁へ向かう。
二回。
岩柱の亀裂が広がる。
三回。
防壁核が白く膨れ上がり、耳をつんざく高音を放った。
「次だ!」
四回目の脈動で、銀灰色の線が白い正規線から浮いた。
「《雷装・断脈》!」
フィアの細剣が紫の弧を描く。
銀灰色の線だけが断たれた。
「今です!」
成人警備員二名が手動解除器を回す。
防壁核に溜まっていた魔力が床下の演習用受け皿へ流れ込み、室内を真昼のような白い光が走った。
腹の底を揺らす衝撃。
それでも破裂はしなかった。
防壁核の赤い脈動が消える。
非常隔壁が完全に持ち上がり、最後の八名と二名の学院職員が外へ駆け抜けた。
「人数確認!」
「生徒四十二名、全員確認!」
「学院職員二名、確認!」
救護職員が次々と状態を確かめる。
打撲や擦り傷、煙を吸った生徒はいた。けれど重傷者はいない。
死者も、一人もいなかった。
ティアナが岩柱を維持したまま、その場へ片膝をつく。
レグルスも壁へ手をつき、大きく息を吐いた。
フィアは細剣から雷を消し、静かに鞘へ戻した。
僕の左腕には痛みが残り、右脚の痺れも消えていない。
それでも封魔具は沈黙したままだった。
暴食も使っていない。
「追跡班から最終報告」
学院警備員が戻ってきた。
「旧検査門へ到達した時点で、転移痕は複数の偽経路へ分岐。その先で全て途切れました。ローデン評議官の現在位置は不明です」
間に合わなかった。
僕たちが追跡を選んでいれば、結果は違ったかもしれない。
でも、確実だったとは言えない。
「制御板を確認しました」
別の学院警備員が、保護板へ収めた古い金属札を示す。
「ローデン評議官の個人監査印があります。転移起動札と物理的に連動した遅延式です。逃走後に遠隔操作されたものではありません」
追跡者を分断するため、あらかじめ仕込まれていた罠。
ローデン評議官には逃げられた。
「記録します」
救助指揮地点に残っていたセルフィナが、物理記録板へ書き込む。
「ローデン評議官の捕縛には失敗。四十二名の生徒と二名の学院職員は、全員救出。暴食の使用なし。封魔具の作動なし」
「逃がした。でも、見捨てなかった」
ティアナが片膝をついたまま言った。
「選択の責任は残る」
レグルスが呼吸を整えながら続ける。
「だが、間違いだったとは言わん」
フィアは救護職員に支えられて歩く生徒たちへ目を向けた。
「斬れなかった敵じゃなくて、助けられた人を見て」
証拠確認室からは、星冠教団への送付記録の調査結果も届いた。
ローデン評議官が逃げる以前から、複数の準備工程が進められていたという。
封印簿の原本は見つかっていない。
心臓遺物の状態も分からない。
大規模な計画は、まだ動いている。
救った生徒たちの咳と泣き声を聞きながら、僕は拳を握った。
騎士は、敵を倒した数だけで決まるんじゃない。
届く命を前にした時、何を選ぶか。
ローデン評議官には逃げられ、星冠教団の大規模計画も止められなかった――それでも僕は、敵を倒す一歩より、目の前の命を守る一歩を選べる騎士になりたかった。
「面白かった!」
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