第79話 奪われた封印簿
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
保存薬液が一滴落ちると、削られていた題名が赤褐色に浮かび上がった。
《アークデーモン心臓遺物封印簿》
誰も、すぐには声を出せなかった。
透明な保護板の向こうで現れた文字は、乾いた移送票へ血が染み出したように見えた。
「薬液の反応を固定します。証拠板には触れないでください」
物理記録官が細い器具を引き、保護板の縁を閉じる。
フィアが証拠台の横から移送票を覗き込み、目を細めた。
「右端に切れ目があります。紙が古くなって裂けたんじゃない。内側の層だけ、刃物で薄く開かれてる」
「位置を記録する」
学院警備員が答え、透明板の外側へ標識を置いた。
フィアはそれ以上近づかなかった。当然、細剣へ手を伸ばすこともない。
ローデン評議官が転移で逃走してから、まだ一刻も経っていない。
学院警備の成人追跡班は、転移痕が途切れた学院外周の古い保守環へ向かっている。その間に旧監査補助室から回収された証拠箱が、非公開証拠確認室へ運び込まれたのだ。
室内には学院長と成人監督者、学院警備員、物理記録官がいる。
さらに貴族院書庫官と貴族院記録官が立ち会い、僕たちの前には地下書庫から持参された保管標が置かれていた。
「ユリウス・クラウゼル。読み上げを許可する。ただし原本には触れるな」
「承知しました」
ユリウスは貴族院記録官が開いた台帳へ青い目を落とした。
「地下第三封印書架、保管番号は一致。頁数も同じだ。装丁重量、封印紐の管理番号……いずれも誤差なし」
そこで一度言葉を切り、証拠板に浮かんだ番号を見比べる。
「学院・貴族院共同監査番号も一致している。この移送票が示しているのは、地下書庫から消えた一冊で間違いない」
貴族院書庫官が硬い表情でうなずいた。
「これまで使用者を特定できなかったのは、古い共同監査制度が個人名を記さないためです。双方の組織が発行した共同監査番号だけで、封印箱を受け渡す規則でした」
「その番号へ対応する内側移送票が、ローデン評議官の監査箱から出た」
学院長の声が低く落ちる。
「はい。外側の記録だけでは、正規の共同監査が行われたとしか分かりません。しかし内側移送票には、実際に封印箱を受け取った管理者の認証が残ります」
物理記録官が、別の透明板を横へ並べた。
黒ずんだ個人監査印。
当日更新された認証応答。
そして魔力感応紙へ定着した、生きた魔力の反応。
「三項目全て、ローデン評議官のものと一致しています」
「ほかの者が複製した可能性は?」
レグルスの問いに、物理記録官は首を横へ振った。
「個人監査印だけなら可能性を捨て切れません。ですが、当日応答と本人の生きた魔力反応まで一致しています。旧監査補助室から回収した内側移送票であることも含めれば、使用者は確定できます」
貴族院書庫官が続けた。
「当時の書庫官は、有効な共同監査番号と双方の認証を確認し、規定に従って封印箱を引き渡しています。返却処理では、外側の移送箱が先に登録されました」
「中身の確認より先に、箱だけを戻せたのか」
僕の問いに、貴族院書庫官の顔が苦く歪む。
「学院側で内部監査を終えた後、封印簿は別の受入口から戻される制度でした。二つの返却工程が分かれていたのです。ローデン評議官は外箱だけを返し、封印簿を戻さなかった」
書庫官が手順を破ったわけではない。
正しい認証を持つ学院上層部が、正規の制度そのものを悪用したのだ。
「では、確定事項として記録します」
セルフィナが物理記録板へペンを走らせる。
「貴族院地下書庫から《アークデーモン心臓遺物封印簿》を持ち出し、返却しなかった人物はローデン評議官です」
銀緑色の髪が肩からさらりと落ちる。
その声に迷いはなかった。
疑いではない。
貴族院から消えた一冊も、ローデン評議官が奪ったのだ。
「セレネ先生」
学院長が視線を向ける。
監視解除の正式手続を待つセレネ先生は、成人記録官とともに証拠台から離れた席に立っていた。
「この名称について、開示可能な範囲だけ説明してくれ」
「分かりました」
セレネ先生は、浮かび上がった題名を静かに見つめた。
「五百年前、アークデーモンと呼ばれる災厄が存在したと伝えられています。その災厄は英雄たちに討伐され、討伐後、心臓遺物と呼ばれるものが封印された――記録に残っているのは、そこまでです」
「英雄たちの記録は?」
ティアナが尋ねた。
「名は伏せられています。戦いの場所も方法も、私が今ここで話せる記録にはありません」
「心臓遺物が何なのかも?」
「封印簿原本がない以上、断定できません。名称だけで形や性質を推測するべきではありません」
セレネ先生は余計な説明を加えなかった。
五百年前に災厄が討たれた。
その後、心臓遺物が封印された。
分かるのは、それだけだった。
「待て」
レグルスが腕を組んだまま、証拠板を見据える。
「奪われたのは封印簿だ。記録を奪われたことと、遺物まで奪われたことは別だろう」
「そのとおりです」
セルフィナが即答した。
「心臓遺物の現在状態は未確認。ローデン評議官が封印場所へ到達した証拠もありません」
「封印簿の原本も、旧監査補助室にはなかった」
僕は机の縁へ右手を置いた。
「ローデン評議官が持って逃げたのか、別の場所へ移したのか、誰かへ渡したのか。それも分からない」
「だが、目的を推測できる証拠はある」
学院長の合図で、物理記録官が次の保護板を出した。
七芒星へ冠を重ねた紋章。
星冠教団の送付票だった。
送付先の名前も場所も削られている。ただし、中央に記された分類番号は、封印簿の共同監査番号と一致していた。
その下には、短い四文字が残っている。
――媒体適合照会。
「媒体……」
僕の喉がひどく乾いた。
捕らえられた教団員が残した言葉が、脳裏をかすめる。
器を迎える準備は始まっている。
けれど、それがこの封印簿を意味していたという証拠はない。
「セレネ先生。召喚に使えるものなんですか?」
ティアナの問いに、セレネ先生はすぐには答えなかった。
「一般論だけを話します。強い由来を持つ遺物は、召喚術における媒体や座標として扱われる場合があります」
「心臓遺物も?」
「可能性はあります。しかし実物の状態も、術式も、召喚対象も分かりません。可能性があることと、実行できることは別です」
ユリウスも送付票を見つめたまま口を開く。
「同じ分類番号と媒体適合照会。星冠教団が心臓遺物へ関心を向けていた可能性は高い。だが、召喚計画の存在まで確定する証拠ではない」
「まして、何を呼ぶつもりかも分からないってことか」
フィアの声に、ユリウスはうなずいた。
セルフィナが記録板へ二本の線を引いた。
一方は確定事項。
もう一方は推測。
「アルト。分けてください」
「確定したのは、封印簿をローデン評議官が持ち出したこと」
僕は赤褐色の題名を見た。
「星冠教団の送付票に、同じ分類番号と媒体適合照会があること。心臓遺物が奪われたかは分からない。召喚媒体にするつもりだというのも、まだ推測だ」
「その区分で記録します」
封印簿の原本には、封印場所や維持に必要な情報が記されているのかもしれない。
それが星冠教団へ渡っていたら。
僕は思わず証拠板へ身を乗り出した。
右脚の感覚が薄れ、左腕の奥を鋭い痛みが走る。
「っ……左腕の痛みと、右脚の痺れが強まりました。封魔具の反応はありません。空腹の変化もないです」
後方にいたバルト先生がすぐに近づく。
「そこで止まれ。椅子へ腰を下ろせ」
「はい」
僕が右手で机を支え直した瞬間、その手首を柔らかな指が包んだ。
ティアナだった。
危険の残る左腕にも、封魔具にも触れない。ただ僕の右手首へ指を添え、脈を確かめている。
近い。
真剣な緑の瞳と目が合い、手首から伝わる温度まで意識してしまう。
僕の脈が一つだけ速くなった気がした。
「一人で確かめに行かないで」
声は小さかった。
けれど、あの中庭で土を鳴らした時と同じ強さがあった。
「行かない。正式な確認を待つ」
「約束だからね」
「うん」
ティアナは僕が椅子へ座ったのを確認してから、そっと指を離した。
バルト先生が封魔具へ視線を落とす。
「作動なし。暴食の兆候もない。残っている負傷による痛みだ。ここからは座ったまま聞け」
「分かりました」
学院長は僕たちのやり取りが終わるのを待ち、成人監督者たちへ向き直った。
「心臓遺物の封印状況を確認する。学院、貴族院双方の成人職員で合同確認班を編成しろ。場所は必要な者以外へ開示しない」
「学生の同行は?」
成人監督者が確認する。
「認めない。アルトたちはここに残し、成人監督者の管理下へ置く」
反対する者はいなかった。
僕も立ち上がろうとはしなかった。
封印簿原本の所在は分からない。
心臓遺物が今も封じられているかも分からない。
ローデン評議官の逃走先さえ、まだ追跡できていない。
それでも、別々だったはずの痕跡が一本の線になり始めていた。
アルトに関する記録。
星冠教団への送付票。
そして、五百年前に英雄たちが討伐したという災厄の封印簿。
奪われた封印簿の先で、星冠教団が召喚の座に据えようとしているもの――それは、五百年前に討たれた災厄の心臓遺物かもしれなかった。
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