第8話 雷を纏う少女
朝練の終わりを告げる鐘が鳴ったころには、腕が重くなっていた。
「今日はここまでだ」
バルト先生の声に、僕は木剣を下ろす。
昨日よりは、右脚への身体強化が少しだけ安定した。
でも、短距離加速へ繋ごうとした瞬間に魔力が散る。剣先へ纏わせる分まで残せない。
できることは増えた。
だけど、できないことのほうがずっと多い。
「アルト、手」
訓練場の外で待っていたティアナが、僕の前へ小さく手を差し出した。
「大丈夫だよ」
「その台詞、昨日も聞いた」
言い返せずにいると、ティアナは僕の右手を取った。
手のひらへ巻かれた包帯を確かめるように、彼女の指先がそっと触れる。
「うん。血は出てないね」
「ティアナがちゃんと薬を塗ってくれたから」
「なら、今日もちゃんと褒めてもらわないと」
「褒める?」
「昨日より頑張ったんでしょ?」
僕は少し迷ってから、頷いた。
「……一歩だけなら、少し」
「すごいじゃん」
ティアナは自分のことみたいに笑った。
その笑顔を見ていると、うまくできなかった悔しさが少しだけ薄れる。
「そうだ。今日は上の訓練場で空中標的迎撃訓練があるんだって」
「空中標的?」
「飛行魔獣の動きを真似して飛ぶ、訓練用の的。見学できるらしいよ」
ティアナは、僕の包帯を結び直してから手を離した。
「見に行こう、アルト。たぶん、すごいものが見られるよ」
上級生用の訓練場は、学院の中央棟に近い高台にあった。
石壁に囲まれた広い円形の演習場。その上には高い支柱と足場が組まれ、魔導具の光がいくつも浮かんでいる。
すでに多くの生徒が集まっていた。
僕たちが観覧用の柵へ近づいた時、ざわめきが一段低くなった。
「来た」
「フィアだ」
人垣の奥から、一人の少女が歩いてくる。
腰まで届く金髪が、朝の光を受けて静かに揺れていた。
黒いカチューシャで髪を押さえ、学院の制服の上から短いローブを羽織っている。華奢な体つきなのに、近寄りがたい空気があった。
腰には、細身の剣。
片手剣よりさらに細く、刺すためだけに研がれたような細剣だった。
「学院最速のフィア・――」
誰かが名前を呼びかけたが、少女は振り向かない。
「名のある騎士族の娘だろ」
「飛行魔獣の実習なら、あの子に勝てる生徒はいないって聞いた」
「騎乗戦も首席らしいぞ」
周囲の噂を、フィアは聞いていないようだった。
正確には、聞こえていても関心がないのかもしれない。
彼女の目は、演習場の上空だけを見ていた。
「静粛に!」
担当教師が手を上げる。
「本日は飛行型魔導標的を用いた迎撃訓練を行う。標的は七機。制限時間は一分だ」
魔導標的は、魔石の力で動く訓練用の的だ。
今回は翼を持つ飛行魔獣を模して、複雑な軌道で演習場を飛び回るらしい。
「フィア・ヴァルティエ。始めろ」
フィアは、細剣を抜いた。
「……はい」
短い返事だった。
次の瞬間、七つの光球が上空へ放たれる。
翼のような光を広げ、魔導標的が一斉に飛び出した。
その中心に、フィアの姿があった。
彼女の細剣へ、青白い雷が細く絡みつく。
同時に、足元で雷光が弾けた。
消えた。
そう見えた。
フィアがいた場所に遅れて乾いた音が響き、最初の標的が空中で砕ける。
細剣の突きは、光球の中心を正確に貫いていた。
「はや……」
声が漏れる。
フィアは止まらない。
二つ目の標的が急角度で上昇するより早く、彼女は石壁を一度だけ踏んだ。
雷を纏った足が壁を蹴る。
華奢な身体が、矢のように宙へ跳ね上がった。
細剣が二度、三度、閃く。
標的は落ちる暇もなく、中心の魔石だけを貫かれて消えていく。
斬り裂くのではない。
最短の一点へ、最短の動きで届く。
僕が昨日、木人形の印へ傷をつけた一太刀とは、何もかもが違った。
四つ目が背後へ回り込む。
フィアは空中で身体をひねり、振り返りもせずに細剣を伸ばした。
雷光が走る。
標的の核が砕けた。
残る三つは、わざとばらばらの高さへ逃げた。
それでもフィアは迷わない。
地面を蹴り、足場を踏み、細剣を一度だけ振る。
雷が弾けるたび、標的が一つずつ消える。
最後の一体は、演習場の最も高い位置まで上がった。
観覧席から小さなざわめきが起こる。
あの高さでは、普通の跳躍では届かない。
けれどフィアは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
細剣を後ろへ引く。
雷が、彼女の踵の下で爆ぜた。
轟音とともに、金髪が空へ伸びる。
フィアは高く跳び、空中で身体をまっすぐにした。
細剣の先が、最後の標的の中心へ触れる。
ぱきん、と小さな音がした。
七つ目の光が消えた。
一分どころか、砂時計の砂は半分も落ちていない。
しばらく遅れて、演習場に歓声が広がった。
「すげえ……」
「やっぱりフィアだ」
「学院最速って、本当なんだな」
フィアは歓声に応えなかった。
着地すると、細剣から雷を消し、刃に傷がないか確かめる。
ただ次の戦いに備える騎士みたいに。
「すごいね」
隣のティアナが、小さく息を吐いた。
「うん」
僕は頷いた。
すごい、では足りなかった。
速いだけじゃない。
彼女の剣には、一切の迷いがなかった。
僕が目指している“最短で必要な場所へ届く剣”を、フィアはもう遥か先で完成させているように見えた。
演習が終わり、生徒たちが少しずつ散り始める。
僕は気づけば、フィアのほうへ歩いていた。
細剣を鞘へ収めようとする彼女の前で、足を止める。
「……すごかった」
フィアは、初めて僕を見た。
淡い色の瞳だった。
そこに嘲笑も、見下す色もない。
ただ、何の感情も浮かんでいなかった。
「感想はいらない」
彼女は細剣を鞘へ収める。
「次の訓練がある」
それだけ言って、フィアは僕の横を通り過ぎた。
金色の髪が揺れ、黒いカチューシャが朝日に光る。
振り返ることはなかった。
「……ちょっとくらい、話してくれてもいいのに」
ティアナが頬を膨らませる。
「アルトは褒めただけなのに」
「嫌われたわけじゃないと思う」
「そうかな?」
「うん。たぶん、僕がまだフィアの視界に入っていないだけだ」
言ってから、少しだけ苦く笑った。
彼女の目は、もっと遠くを見ている。
今の僕は、同じ訓練場に立っていても、彼女にとっては道端の石と変わらないのかもしれない。
悔しくないと言えば、嘘になる。
「アルト」
ティアナが、僕の制服の袖をそっと掴んだ。
「私は見てるよ」
「え?」
「アルトが頑張ってるところ。今日も、明日も」
その言葉に、僕は救われた。
「おい、見学は終わりだ」
バルト先生が、演習場の端から僕を呼ぶ。
「こっちへ来い、アルト」
案内された先には、拳ほどの大きさの魔導標的が一つ浮かんでいた。
さっきの飛行型よりは低い。
けれど、左右へ不規則に動いている。
「これを斬れ」
「僕がですか?」
「お前以外に誰がいる」
バルト先生は腕を組む。
「動く相手に届かない剣は、守りたいものにも届かん」
僕は木剣を握り直した。
右脚へ身体強化。
足元へ短距離加速。
剣先へ魔力纏い。
三つを繋げる。
そう考えた途端、頭の中にフィアの姿が浮かんだ。
雷を纏い、空を駆けた金髪の少女。
僕も、あんなふうに。
そう思った瞬間、魔力が一気に右脚へ流れ込んだ。
「っ……!」
踏み込みすぎた。
身体が前へ流れ、木剣は標的の後ろを空振る。
「焦るな!」
バルト先生の声が飛ぶ。
「全身で速くなろうとするな! 必要なのは、標的へ届く速さだけだ!」
僕は息を整え、もう一度構えた。
二度目。
今度は加速を恐れて、踏み込みが足りない。
剣先は標的の手前で止まった。
三度目。
魔力纏いを意識しすぎて、足元の強化が途切れる。
標的は、僕の木剣を嘲笑うように横を通り過ぎた。
「……できません」
悔しくて、木剣を握る指に力が入る。
フィアなら、こんな標的は一瞬で貫く。
僕は、学院最下位だ。
あの背中を見てしまったら、なおさら自分が遅く見える。
「見惚れるな」
バルト先生の低い声がした。
「……先生」
「あれはフィアの剣だ」
先生は、上空に残る標的の傷跡を指差す。
「お前があの速さを真似しても、魔力が尽きて転ぶだけだ」
その通りだった。
「お前は、お前の一歩を作れ」
ティアナが僕の隣へ来る。
包帯の巻かれた右手へ触れないように、そっと僕の腕へ手を添えた。
「アルトは、アルトの速さでいいんだよ」
僕は彼女を見る。
「私は、アルトが届くところを見てる」
誰かより速くなくてもいい。
誰かと同じ剣じゃなくていい。
必要な時に、必要な場所へ届くための一歩なら。
僕にも、作れるかもしれない。
バルト先生は標的を止め、僕へ木剣を向けた。
「明日、動く標的に一太刀を届かせろ」
僕は頷く。
「それができれば、お前の一歩は剣になる」
高い場所には、フィアが貫いた標的の小さな穴が残っていた。
まだ届かない。
でも、届きたい。
僕は木剣を握り直し、空を見上げた。
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