第7話 土姫の隣
早朝の訓練が終わるころには、手のひらがじんじんと熱を持っていた。
木剣を握るたび、擦れた傷が痛む。それでも昨日よりは、ほんの少しだけ剣先に魔力を集められた気がした。
「アルト、手を見せて」
訓練場の隅で水を飲んでいると、ティアナが僕の前にしゃがみ込んだ。
「え? 大丈夫だよ」
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよ。ほら」
断る間もなく、ティアナは僕の右手をそっと取った。
白い指先が、赤く擦れた手のひらをなぞる。彼女は小さく眉を寄せてから、制服のポケットから小瓶を取り出した。
「木剣でも、こんなになるまで振ったの?」
「慣れてないだけだよ。魔力を使いながら振るのに」
「じゃあ、慣れるまで私が見てる」
迷いのない声だった。
傷薬がしみて、思わず指先が跳ねる。
「痛かった?」
「だ、大丈夫」
「今のは絶対に痛かった顔」
ティアナはくすっと笑いながら、丁寧に薬を塗っていく。
土と植物の魔法を使う彼女は、薬草にも詳しいらしい。甘い草花の香りが、手のひらからふわりと漂った。
「こんなに頑張ってるのに、隠そうとしなくていいのに」
「頑張ってるっていうより、できないことが多すぎるだけだよ」
「それでも、剣を手放さないんでしょ?」
顔を上げると、ティアナはまっすぐ僕を見ていた。
「だったら私は、ちゃんと見てる。アルトが届くまで」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
僕はうまく返事ができず、「ありがとう」とだけ言った。
ティアナは満足そうに笑って、手のひらへ小さな布を巻いた。
「よし。今日は無茶しないこと」
「訓練は?」
「無茶と努力は違うよ」
それを言われると、反論できなかった。
朝の授業へ向かう廊下でも、ティアナはいつも通り僕の隣を歩いていた。
昨日までなら、それだけで周囲の視線が集まることはなかったと思う。
でも、迷宮の事故と実習停止の話は、もう学院中に広がっている。
戦闘順位最下位の僕が、また問題を起こした。
そんな噂を、すれ違う生徒たちの声で何度も聞いた。
聞こえないふりをするのには、少し慣れている。
「アルト。お昼、一緒に食べようね」
「うん。でも、ティアナは友達もいるだろうし」
「いるよ。でも今日はアルトと食べたい」
そう言って、ティアナは僕の袖を軽く引いた。
その直後だった。
「ティアナ様」
前方から、整った制服を着た三人の生徒が歩いてきた。
胸元の徽章や仕立ての良さから、全員が貴族の家の子だとわかる。彼らは僕を見たあと、すぐにティアナへと視線を戻した。
「おはようございます。土姫様」
「おはよう」
ティアナは笑顔で返したけれど、その声は少しだけ硬かった。
中央にいた男子生徒が、僕へ目を向ける。
「失礼ですが。土姫様が、なぜ学院最下位と行動を共にされているのですか?」
丁寧な口調だった。
だからこそ、その言葉は余計に冷たく聞こえた。
「卒業後を考えれば、もっと相応しい方々と関わられるべきではありませんか。土亀騎士団団長のご息女でいらっしゃるのですから」
土亀騎士団。
土の魔法を得意とする王国の騎士団で、その団長は七大魔法騎士の一人だ。
ティアナの父親が、僕たちとは遠い場所にいるほどすごい人だということは知っていた。
だから、その言葉を否定しきれなかった。
「ティアナが嫌なら、僕は――」
「嫌じゃない」
言いかけた僕の袖を、ティアナが掴んだ。
力は強くない。
けれど、僕を行かせないという意思だけは、はっきり伝わってきた。
ティアナは三人へ向き直る。
「私がどこにいるかは、私が決める」
明るい声ではなかった。
けれど怒鳴ってもいない。ただ、静かで、誰にも曲げられない声だった。
「私はアルトの味方だよ」
廊下が、しんと静まった。
貴族の生徒たちは、わずかに目を見開く。
「ですが、彼は――」
「学院最下位です」
ティアナは、僕の代わりに言った。
「それは今の順位だよ。でも、それだけでアルトのことを決めないで」
彼女の指が、僕の袖をきゅっと握る。
「毎朝、誰より早く訓練場へ来てることも。できないことから逃げずに剣を振ってることも。私は知ってる」
僕の喉が、少しだけ詰まった。
「それに」
ティアナは笑った。
「私の父や、土亀騎士団との繋がりが欲しいなら、私じゃなくて父に会いに行ってください。私は、私を見てくれる人の隣にいたいの」
三人は言葉を失った。
しばらくして、一人が深く頭を下げる。
「……出過ぎたことを申しました」
「ううん。気にしないで」
ティアナはいつもの調子で答えた。
けれど彼らが去ってからも、袖を掴んだ手は離れなかった。
「ごめんね。変に巻き込んじゃった」
「僕のほうこそ、ごめん。ティアナに迷惑を――」
「謝らないで」
ティアナは僕を見上げる。
「味方でいるって、自分で決めたんだから」
その笑顔が眩しくて、僕はもう何も言えなかった。
放課後、ティアナに誘われて学院の庭園へ向かった。
石畳の先には、小さな湖がある。授業を終えた生徒たちの声も、ここまではあまり届かない。
ティアナは湖畔のベンチに腰掛け、足元の土を指先でつついた。
「土姫って呼ばれるの、嫌いってわけじゃないんだ」
土から、小さな芽が顔を出す。
「最初は、ちょっと嬉しかったし。すごそうな呼び名だなって思った」
芽はゆっくり伸び、白い花を一輪だけ咲かせた。
「お父さんは土亀騎士団の団長で、七大魔法騎士の一人。私は小さいころから土と植物の魔法が使えたから、周りが勝手にそう呼び始めただけ。本当の王族とか、そういうのじゃないんだけどね」
ティアナは花を眺めたまま、少しだけ笑う。
「でも、みんなその呼び名が好きだったみたい。私に近づく人は、お父さんのことを聞きたがった。避ける人は、団長の娘と関わると面倒だからって離れていった」
「……ティアナ」
「みんな、私の隣には立つの。でも、私の顔は見てくれなかった」
その言葉は、静かだった。
泣いているわけでも、怒っているわけでもない。
だからこそ、ずっと一人で飲み込んできた寂しさが伝わってきた。
「学院に入ったばかりのころも、同じだったよ」
ティアナが僕を見る。
「覚えてる? 庭園の裏で、私が一人で花を咲かせてた日」
記憶の奥に、小さな景色が浮かんだ。
まだ制服が大きくて、木剣もまともに振れなかったころ。
庭園の隅で、土だらけの手をした少女がしゃがみ込んでいた。彼女の周りには、淡い色の花がいくつも咲いていた。
綺麗だと思った。
ただ、それだけだった。
「……覚えてる。少しだけ」
「その前にね。周りの子たちが、土姫だから近づかないほうがいいって言ってたの」
ティアナは懐かしそうに目を細める。
「でも、アルトは何も聞かずに来てくれた」
幼い僕の声が、記憶の中でよみがえった。
『すごいね。ティアナの魔法、きれいだ』
「アルトは、私を土姫じゃなくて、ティアナとして見てくれた」
花を咲かせる彼女の指先が、少しだけ震えた。
「だから、私はアルトの味方でいたい」
胸の奥が、熱くなった。
僕はあの日、特別なことを言ったつもりなんてなかった。
でも、ティアナにとっては違ったのだ。
「僕は、ティアナが土姫だから一緒にいるんじゃない」
言葉を選びながら、僕は続けた。
「ティアナだから、一緒にいたい」
ティアナが息を止めた。
その頬が、少しだけ赤くなる。
僕も、自分が何を言ったのか遅れて理解して、心臓がうるさくなった。
それでも、目を逸らしたくなかった。
「今は話せないことがある」
僕は握った手に力を込める。
「でも、ティアナを利用したり、置いていったりはしない」
ティアナはしばらく黙っていた。
それから、やわらかく笑った。
「言える時に聞かせて」
「うん」
「その代わり、アルトも私を一人にしないでね」
「……うん。約束する」
ティアナは満足そうに頷くと、足元の土へ手をかざした。
咲いたのは、掌に収まるほど小さな白い花だった。
「明日も、アルトの隣を空けておいて」
「うん。いてほしい」
ティアナは花よりも明るく笑った。
夕暮れの学院を、僕たちは並んで歩く。
僕は、土姫の隣ではなく、ティアナの隣を歩いた。
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