第77話 土姫の怒り
再検査室の扉が開いた瞬間、ティアナの視線が僕の左腕へ突き刺さった。
巻き直された治療布は、入室前より厚くなっている。その上には黒銀色の封魔具が残り、布の先から出た左指も僅かに震えていた。
「十分だけ中庭で休ませます」
背後からバルト先生が告げる。
「成人監督者は同行してください。アルト、痛みや痺れが強まった場合は、すぐに申告すること」
「はい」
「詳しい事故報告は証拠保全が終わってからです。現時点では、関係者以外へ話さないでください」
ローデン評議官の危険管理報告書は、透明な証拠箱へ封じられていた。
ティアナたちは再検査室へ入ることを許されていない。中で外部術式が起動し、フィアが何かを切ったことしか知らされていなかった。
僕たちは成人監督者とともに、医療区画の小さな中庭へ移った。
土の地面へ足を踏み入れたところで、ティアナが僕の前へ回る。
「中で、何があったの?」
正直に答えるべきだった。
それでも、僕は左腕を制服の陰へ寄せた。
「検査中に少し引かれただけだよ」
そう言った僕の足元で、土が低く鳴った。
小石が一つだけ浮かび、すぐに落ちる。風のない中庭で、低い植え込みの葉が震えた。
ティアナは笑っていない。
「少しって、どのくらい?」
「外部術式が残ってて、左腕に繋がった。でも、フィアが切ってくれたから、もう止まってる」
「左腕は自分で止められたの?」
「最後には止まったよ」
「何へ向かって動いたの?」
答えが喉につかえる。
バルト先生、成人監督者、学院警備、物理記録官には全て申告した。公式記録も残っている。
規約上の隠蔽ではない。
ティアナへ細部まで話さなくても、学院の規則には違反しない。
そんな言葉を、僕は言い訳にしようとしていた。
「誰も傷ついてない。暴食も開いてないし、人間の魔力も魂も吸収してない。封魔具も作動しなかった」
「聞いたことに答えて」
声は大きくなかった。
それなのに、怒鳴られるより重い。
「アルトの左腕は、何へ向かって動いたの?」
「それは……」
「アルト、それは省きすぎ」
フィアが口を開いた。
細剣は鞘へ収まっている。その手も柄には触れていない。
「左手は私の細剣へ伸びた。アルトの意思とは関係なく」
ティアナがフィアを見る。
「怪我は?」
「ない。アルトには触れられてもいない」
「制御線を切ってくれたんだよね」
「三本とも切った」
ティアナは深く息を吐いた。
「ありがとう、フィア」
「斬るべき線があったから切っただけ」
フィアは短く答える。
そこに張り合うような響きはなかった。
ティアナも、フィアが僕のそばにいたことを責めない。再び僕へ向き直ると、その足元で土がもう一度鳴った。
「フィアに見せたことへ怒ってるんじゃない」
心臓が跳ねる。
ティアナは黒い紋章を見たわけではない。それでも、治療布が巻き直された理由まで軽いものではないと気づいていた。
「止めるために必要だったなら、その判断は正しいよ。フィアが近くにいて、線を切ってくれたことにも怒ってない」
ティアナの拳が固く握られる。
「私が怒ってるのは、そのあと私へ『少しだった』って言ったこと」
「学院には全部報告した」
「学院が知ってたら、私は知らなくてもいいの?」
言葉を返せなかった。
ティアナの視線が、治療布の先から出た僕の指へ落ちる。
「自分では止められなかったんだよね」
「……うん」
「線はどこに繋がってたの?」
「一本目は左手首。二本目は肘。最後の一本は……治療布の下に入ってた」
フィアは黙っている。
あの場で見たものを、僕の代わりに話そうとはしなかった。
「黒い紋章に重なってた」
ティアナの瞳が僅かに揺れる。
「フィアに見せたの?」
「僕が頼んだ。最後の線を切るには必要だったから、バルト先生に治療布の検査用の継ぎ目を開いてもらった」
「それで全部?」
まだ言っていない。
ティアナは急かさずに待っている。
逃げずに答えなければならなかった。
「ほかに隠してることは?」
「僕は……左腕を斬ってもらおうとした」
中庭から音が消えた気がした。
「誰に?」
「フィアに。『僕の腕を――』まで言ったところで、止められた」
地面の小石が一斉に浮かぶ。
けれど、飛ぶことはない。
土はティアナの足元で固く締まり、植え込みの葉が震えるだけだった。
「それを、一人で決めようとしたの?」
「誰かを傷つけるくらいなら、そのほうが――」
「そのほうが何?」
続きは口にできなかった。
ティアナの怒りは、僕が用意した言い訳を許さない。
「腕を失えば安全だった? フィアに斬らせれば、それで終わりだった?」
「少なくとも、その場では止まると思った」
「また一人で背負ったんだね」
静かな声が、胸の奥へ刺さる。
「自分の腕だから、自分だけで決めていいって思ったの?」
「ティアナを怖がらせたくなかった」
ようやく本当の理由を口にする。
「条件付き訓練の記録が消えた。君が僕を固定する方法も、誰かに知られてるかもしれない。そのうえ、黒い紋章から左腕を動かせるって分かった」
左手を少し持ち上げようとして、残った痛みに顔をしかめる。
「僕のそばにいる危険が増えたんだ。詳しく知らなければ、ティアナが離れる理由になると思った」
「私を離れさせるために隠したの?」
「離れたほうが安全なら、そのほうがいい」
ティアナはしばらく何も言わなかった。
浮いていた小石が一つずつ地面へ戻る。
「怖がらせたくないから黙るのは、守ることじゃないよ」
「でも――」
「何も知らなければ、私は止める方法も選べない」
ティアナが一歩近づく。
僕の左腕にも封魔具にも触れない。
「アルトが危険だって知ったら、私が離れるかもしれない。残るかもしれない。怖くて動けなくなるかもしれない。それを決めるのは誰?」
「ティアナだ」
「そうだよ」
怒りの奥に、隠しきれない恐怖があった。
僕の腕が仲間へ向くことを、ティアナも怖がっている。
「全部話せとは言わない」
ティアナははっきり告げた。
「アルトにしか話せないことも、まだ話せないこともあるんだと思う。でも、私やみんなが巻き込まれる危険と、止めるために必要なことは話して」
僕は頷いた。
「黒い紋章は、ベルゼバスとの契約に関わる接点の一つなんだ。そこへ外部術式を繋がれると、暴食が開いていなくても左腕だけを動かされることがある」
「意識は残るの?」
「今回は残ってた。考えることも報告することもできた。でも、精神力だけじゃ腕を止められなかった」
「次に同じことが起きたら?」
「左腕や封魔具へ植物を巻かないで。足と腰、右肩を固定してほしい」
ティアナは一つずつ覚えるように頷く。
「アルトが大丈夫って言っても、術式が止まったと確認できるまでは解除しない」
「うん。成人監督者とバルト先生、それからフィアを呼んで。僕一人でも、ティアナ一人でも止められるとは限らない」
「暴食の兆候は別に確認する?」
「空腹があるか、周囲の魔力が食べ物に見えるか、人間を捕食対象へ入れていないか。今回は全部なかった。でも、次も同じとは断言できない」
「黒い紋章のほかのことは?」
「そこから先は、今は全部説明できない」
「ベルゼバスのことも?」
「うん」
僕は目を逸らさなかった。
「分かった」
ティアナも、それ以上は求めなかった。
「でも、説明できないことを『安全』に置き換えないで」
「約束する。説明できないことは、説明できないと言う」
少し間を置いて続ける。
「安全じゃないのに、大丈夫だとは言わない」
「今度こそ守って」
「うん」
ティアナが片足を軽く踏み込んだ。
中庭の土が滑らかに盛り上がり、低い長椅子を形作る。誰かを閉じ込める壁でも、押さえつける枷でもない。
彼女は僕の無事な右袖をつまんだ。
「座って」
「まだ怒ってるんじゃ」
「怒ってるから、隣で話すの」
引かれるまま腰を下ろす。
ティアナもすぐ隣へ座った。
肩が触れる。
左腕の痛みとは違う熱が、右側から伝わってきた。何を言えばいいのか分からず、正面の植え込みを見つめる。
「怖くても隣にいるかは、自分で決める」
ティアナも前を向いたまま告げた。
「アルトが私を守りたいからって、その選択まで奪わないで」
「分かった」
「本当に?」
「僕は守るつもりで、ティアナが選ぶ前に答えを決めてた」
今度は小さくせずに、自分の間違いを認める。
「仲間へ及ぶ危険と、止めるために必要なことは省かない」
「うん」
ティアナの身体が僅かに傾いた。
ほんの一呼吸だけ、額が僕の右肩へ触れる。
「怖くないわけじゃないから」
小さな声だった。
驚いて振り向きかけた時には、ティアナはもう身体を起こしていた。
けれど、触れた温度は肩に残っている。
少し離れた場所では、フィアが黙ってこちらを見守っていた。ティアナは立ち上がると、彼女へもう一度向き直る。
「アルトが最後まで言う前に止めてくれて、ありがとう」
「斬るべき線があったから切っただけ」
「それでも、ありがとう」
フィアが短く頷く。
二人の間に、敵意はなかった。
「記録を補足します」
物理記録板を持つセルフィナが告げた。
「異変自体は、発生時に正式申告されています。規約上の故意の隠蔽には該当しません」
翡翠色の瞳が僕を見る。
「ですが、正式報告をしたことと、相棒へ必要な情報を渡したことは同じではありません。説明を小さく見せようとした事実は残します」
「分かった。残して」
「承知しました」
レグルスも腕を組んだまま口を開く。
「安全手順を共有しないまま相棒を置くほうが危険だ。次は先に説明しろ」
「うん」
回廊の入口では成人監督者が見守り、その奥の再検査室にはバルト先生もいる。
僕は一人ではない。
だからこそ、誰を隣に置くかまで、僕一人で決めてはいけなかった。
「怖くても隣にいるかは自分で決める――土姫の怒りは、僕が守るつもりで奪いかけた、相棒自身の選択を取り戻すためのものだった。」
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