第76話 斬るべきもの
僕の左手が、僕の意思を置き去りにして、フィアの細剣へ伸びた。
「下がって! 左腕が、僕の命令を聞かない!」
フィアが即座に半歩退く。
僕の指は彼女にも細剣の柄にも届かない。けれど、止めようとしているのに、左肩から先だけが別の生き物のように動き続けていた。
「成人監督者、室内を閉鎖してください!」
バルト先生の声に応じ、再検査室の扉が閉ざされる。成人監督者が内側から封鎖板を下ろし、学院警備への内部警報を作動させた。
「記録を開始します。発生時刻は?」
「夕刻前、第二鐘の三分後です」
物理記録官が答えながら、硬い紙へペンを走らせる。
ローデン評議官とセレネ先生への非公開聴取が終わってから、およそ一刻。
僕はバルト先生による再検査を受けていた。
フィアが同席していたのは、封魔具へ外部術式が接続された際、その線だけを切断した経験があるからだ。
「アルト、状態を順番に報告してください」
「暴食は開いていません。空腹もありません。封魔具の逆流もないです。でも、左手首と肘を外から引かれています」
「全身への影響は?」
「ありません。考えることも話すこともできます。動かされているのは左腕だけです」
バルト先生が僕の首筋へ検査板を当て、続けて黒銀色の封魔具へ細い測定針を近づける。
「封魔具の作動なし。検知値も基準内です。暴食の魔力反応もありません」
その確認と同時に、僕の左腕が強く引かれた。
右手で押さえ込もうとする。それでも指先はフィアの腰にある細剣を求め、治療台から身体ごと立ち上がろうとした。
右脚へ痺れが走る。
「あっ――」
力が抜け、身体が横へ傾いた。
フィアが飛び込んでくる。右肩と腰を支えられ、倒れる寸前で踏み止まった。
顔を上げると、フィアの青みがかった瞳がすぐ目の前にあった。
手のひら一枚ほどしか離れていない。
浅くなった僕の息と、フィアの呼吸が重なる。その視線が一瞬だけ揺れ、僕も左腕とは違う理由で鼓動が速くなった。
「アルト?」
「左腕がまた動く。離れて」
僕が告げると、フィアはすぐに僕を治療台へ座らせ、安全な位置へ退いた。
左手は最後まで彼女へ触れていない。
「申告を確認しました」
バルト先生が僕の右肩へ固定板を当てる。
「腕の動きが強まる前に、原因を探します。フィア、剣を抜いて構いません。ただしアルト本人、封魔具、紋章は斬らないでください」
「分かっています」
フィアが細剣を抜く。
白い刃は僕へ向かず、机の上に開かれた物理報告書へ向けられた。
ローデン評議官が提出した危険管理報告書。その表紙裏で、金属質の保存墨が鈍く明滅している。
「ここから来てる」
フィアが目を細めた。
僕の左手首が跳ねる。
その直後、報告書の金属留めから、銀灰色の細い光が浮かび上がった。
「一本目。左手首まで」
フィアはすぐには斬らない。
「アルト、次に指が動く前に教えて」
「分かった。今、引かれ始めた。三、二――」
「そこ」
細剣が短く走った。
金属留めから伸びていた線だけが切れ、僕の指先から力が抜ける。
「指の痙攣が弱まりました。でも、肘はまだ引かれています」
「記録しました」
物理記録官のペンが動く。
フィアは床へ視線を落とした。報告書の下から、もう一本の銀灰色が床板の継ぎ目を走っている。
それは治療台の脚を回り、僕の左肘へ繋がっていた。
「二本目。床から肘」
左腕が再び持ち上がる。
フィアは身体を低くし、床すれすれへ細剣を滑らせた。
鋭い音さえ残らない一閃。
二本目が途切れ、細剣へ伸びようとしていた腕の勢いが大きく弱まった。
それでも、左肘から先はゆっくりと持ち上がり続ける。
「まだ……止まらない」
「三本目があります」
バルト先生が治療布の上を測定針でなぞる。
「外から入った反応が、治療布の下へ潜り込んでいます」
残った左手は、少しずつフィアへ向きを変えていた。
今ならまだ、誰にも触れていない。
このまま最後の線が見つからなかったら。
僕の腕が、彼女から剣を奪ったら。
「フィア、僕の腕を――」
「最後まで言わないで」
静かな声だった。
けれど、細剣を握る手は少しも揺れていない。
「斬るのはアルトじゃない」
フィアは僕の左腕ではなく、その周囲の空間を見つめた。
「腕でも、封魔具でも、紋章でもない。外から命令しているものだけを斬る」
「でも、見えないままなら」
「見えないなら探す。アルトが腕の動きを教えて。バルト先生が安全を確認する。私が線を切る」
誰か一人で解決できることではない。
そう言われて、僕は右手の力を緩めなかったまま頷いた。
フィアが治療布の縁へ刃先を近づける。
触れる寸前で止まり、首を横に振った。
「この下へ入ってる。でも、私が勝手に見るものじゃない」
治療布の下にあるもの。
炎症を起こした魔力経路だけではない。
ベルゼバスと僕を繋ぐ、黒い紋章がある。
フィアが封魔具を見たことは何度もある。けれど、僕が自分の意思で、その下にある紋章を彼女へ見せたことはなかった。
怖がられることよりも、見せたことで何かが変わってしまうことが怖かった。
それでも今、フィアは僕の腕ではなく、僕を動かしているものを斬ろうとしている。
僕は右手で制服の袖をさらに上げた。
「見て、フィア」
彼女の瞳が僕へ戻る。
「隠したままじゃ、君が切るべきものを探せない」
「アルト本人の同意を確認しました」
バルト先生が封魔具へ触れないよう注意しながら、治療布の検査用継ぎ目を開く。
三本の黒銀色の輪は、そのまま残っている。
布の間から、皮膚へ刻まれた黒い紋章が現れた。
左腕の内側へ熱が集まる。
暴食の反応ではない。見られていることへの緊張で、呼吸が浅くなっただけだ。
フィアは僕の左前腕を下から支えた。
指先が少し冷たい。
彼女の顔が近づく。細剣を持つ手とは反対の手で腕を支えられ、互いの呼吸が聞こえる距離になった。
フィアの視線が一瞬だけ僕の顔へ上がり、また腕へ戻る。
「私は、アルトの秘密を暴くために剣を抜いたんじゃない」
黒い紋章について、何も尋ねない。
「見ているのは、ここへ勝手に繋がった線だけ」
紋章の上で、銀灰色の光が微かに脈打った。
黒とは違う。
僕自身の通常魔力とも違う。
外側から押しつけられた、異物の線だ。
「フィア、来る。肘から先が引かれる」
「まだ」
「指に力が入った」
「まだです」
銀灰色の線が、紋章から僅かに浮かび上がる。
フィアの細剣が動きかけ、止まった。
「浅い。次を待つ」
焦って刃を入れれば、僕の皮膚か紋章へ触れる。
フィアは急がなかった。
「もう一度来ます。今度は強い」
「アルト、呼吸を止めないで」
左腕が持ち上がろうとする。
フィアは支える位置を変え、刃先と僕の腕の間に細い隙間を作った。
「三、二、一――今!」
銀灰色の線が浮く。
細剣がその一点だけを通り抜けた。
何かが弾けるような感触があり、僕の左腕から外側へ引かれる力が消えた。
腕が治療台へ落ちかける。
フィアがそのまま受け止めた。
「切断しました」
「外部操作の停止を確認。封魔具は作動していません」
バルト先生が測定板を見ながら続ける。
「暴食の反応なし。魂および体内魔力の吸収もありません。欠損、恒久的な麻痺も認められません。ただし炎症と痛みは強まっています」
「左腕が熱いです。痛みはさっきより二段階くらい強い。右脚の痺れも残っています」
「申告を記録します」
室内の安全確認を受け、待機室にいたティアナたちも扉の外まで来た。
ティアナは僕の左腕とフィアを順番に見たが、室内へ踏み込まず成人監督者の指示を待った。
レグルスは学院警備とともに通路の封鎖を続けている。
セルフィナは物理記録板へ、封魔具の不作動と暴食の兆候がなかった事実を書き加えた。
一方、学院警備は問題の危険管理報告書を透明な証拠箱へ収めていた。
「術式核を確認しました」
記録官が表紙裏の保存墨を指す。
「個人監査印はローデン評議官のものです。聴取終了時、私の目の前で加えられた生きた魔力とも一致します」
「単なる署名ではありません」
バルト先生が術式核の脈動を検査する。
「制御命令そのものが、ローデン評議官の魔力によって完成しています。この外部操作術式を仕掛けたのは、ローデン評議官です」
それは確定した事実だった。
けれど、消えた三種類の文書をローデン評議官が持ち出した証拠ではない。
正式な会議がなかった時間に上層認証を使った証拠でも、星冠教団へ文書を渡した証拠でもない。
「今回の術式と、記録消失事件は分けて扱います」
成人監督者が告げる。
「学院長へ緊急報告。ローデン評議官の追加聴取、厳重監視、全提出物の保全を要請します」
バルト先生が新しい治療布を取り出した。
「フィア、そちらの端を押さえてください」
「はい」
僕の左前腕へ布が巻かれていく。
フィアの指が治療布越しに腕へ触れる。黒い紋章は再び白い布の下へ隠れたが、見せたという事実まで消えるわけではなかった。
「フィア」
「何?」
「どうして、腕じゃなくて線を探してくれたの?」
フィアは治療布の端を押さえたまま、僕を見る。
「腕は動かされていただけだから」
答えは迷いなく返ってきた。
「斬るべきなのは、アルトの意思を奪っていたもの。見せてもらった秘密まで、私のものになるわけじゃない」
「君なら、必要なところで止まってくれると思った」
「次も絶対に間違えないとは言えない」
フィアの指先が、治療布の端から離れる。
「だから、動かされた時も、痛い時も、隠さず教えて。アルトが教えてくれるなら、私は腕を斬る前に線を探せる」
僕は巻き直された左腕を見下ろし、頷いた。
「約束する」
初めて自分から晒した黒い紋章を前に、フィアが見たのは僕の秘密ではなく、僕の意思を奪う、斬るべき制御線だけだった。
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