第74話 幻像の会議室
未知の痕跡が学院評議会区画まで続いていると判明した翌朝。
僕はバルト先生の前で、右脚をゆっくり曲げ伸ばししていた。
「痺れは昨日より僅かに強いまま。左腕の炎症と熱傷も治ってはいない」
バルト先生が治療布の上から封魔具の計測板を当てる。
黒銀色の三本の輪は、何の反応も示さなかった。
「空腹、吐き気、冷や汗は?」
「ありません。左腕の痛みは十段階で三。右脚の痺れも三です」
「黒い魔力は」
「感じていません。暴食も開いていません」
バルト先生は計測値を物理記録へ書き込んだ。
「短時間の同行だけ許可する。痛み、痺れ、空腹、吐き気、魔力変化。どれか一つでも強まれば、その場で申告しろ」
「はい」
「今日のお前の役割は戦うことでも、魔力を探すことでもない。記録を並べて、時刻を照合することだ」
その役割なら、今の僕にもできる。
評議会区画全体を封鎖すれば、学院内部にいる裏切者へ調査の進展を知らせることになる。
だから今回の調査は、通常業務が続く中で秘密裏に行われることになった。
共用会議室の手前にある控え区画には、僕たちのほかに成人監督者、学院警備員、記録官が集まっている。
貴族院記録官も、封印された出席簿を抱えて待っていた。
「役割を再確認する」
成人監督者が声を落とした。
「メルナは廊下側の偽装。ガルナは匂いの照合。フェリナは上方経路。ユリウスは貴族院側記録を確認する」
続いて、僕たちの役割も告げられる。
ティアナは床と下方保守口。
フィアは書類搬送用の導線。
レグルスは室内の気流。
セルフィナは認証台の残留魔力と僕の監視。
僕は会議予定、認証時刻、文書持ち出し時刻の整理だ。
「誰も許可された範囲を越えるな。何かを発見しても、単独で追わない。証拠へ触れる前に記録官を呼べ」
全員がそれぞれうなずいた。
共用会議室の前に立ったメルナは、扉と覗き窓へ両手を向けた。
指先から薄い光が広がり、廊下側の壁面を覆っていく。
目の前にある扉そのものは消えていない。
けれど覗き窓の向こうには、消灯された無人の会議室が映っていた。
実際の室内には学院警備員が先に入り、長机の周囲を確認している。それでも外側からは、椅子一つ動いていないように見えた。
「幻像には実体がありません」
メルナが集中を保ちながら告げる。
「扉へ触れられれば偽装だと分かります。大声や大きな衝撃も隠せません」
「扉へ近づく者は警備員が対応する。メルナは幻像の維持だけに集中しろ」
成人監督者の指示を受け、僕たちは一人ずつ会議室へ入った。
内側から見る室内は明るい。
中央には長机と複数の椅子。
壁際には書類搬送台があり、その上に認証用の金属板が設置されている。
天井近くには狭い点検足場と、黒い筒状の書類搬送路が通っていた。
僕たちが配置へついた直後、廊下から足音が聞こえた。
メルナの指先が僅かに震える。
覗き窓の幻像には、暗い会議室しか映っていない。
書類を抱えた記録係が扉の前を通る。
一瞬だけ覗き窓へ顔を向けたが、歩みを止めることなく通り過ぎていった。
幻像は僕たちの姿も、小声で交わす報告も隠し切った。
足音が遠ざかる。
「通過を確認」
外側の学院警備員から合図が届いた。
メルナは息を整えながら、幻像を維持し続ける。
「始めるぞ」
レグルスが室内の中央へ手を向けた。
弱い風が生まれ、入口から書類搬送台へ向かって、一定の速度で流れ始める。
「人間の周囲には触れていない。室内に残った匂いを、新しい空気で混ぜないための流れだけだ」
ガルナが透明な試料管の栓を開けた。
中に封じられているのは、上層監査用の記録紙から採取された未知の匂いだ。
短く息を吸い、ガルナは目を閉じる。
「乾いた香料。金属質の保存墨。それ以外は混ざりすぎている」
最初に向かったのは長机だった。
だが、上層部が使用する個別の椅子には近づかず、複数人が書類を置く共用部分を調べていく。
「ここに薄く残っている」
ガルナの指は机へ触れず、その上をなぞった。
次に文書投入口。
最後に壁際の書類搬送台。
「同じ組み合わせだ。ただし、人間そのものの匂いとは限らない。文書か、保存箱か、手袋から移った可能性もある」
「特定人物へは結び付けられないということですね」
記録官が確かめる。
「そこまでは分からない」
断定を避けたガルナの報告が、そのまま記録される。
上方では、学院警備員がフェリナの安全索を点検していた。
許可が下りると、フェリナは壁際の固定梯子から点検足場へ上がる。
天井の梁に沿って進み、通気口と搬送筒を一つずつ確認した。
「外壁側の格子に破損なし。屋根から入った痕跡もありません」
声だけが上から降ってくる。
「搬送筒はどこへ?」
フィアが尋ねた。
「学院内部の認証補助室へ続いています。外には出ていません」
外部から忍び込んだ者が、天井を通って会議室へ入ったわけではない。
少なくとも、上方経路にその痕跡はなかった。
ティアナは床へ片膝をついている。
掌を床石へ触れ、弱い土の魔力で石同士を固定した。
証拠を覆わず、調査中の足音で古い埃や隙間が動くのを防いでいる。
「壁際の下方保守口は閉じたまま。床石にも、持ち上げられた痕跡はないよ」
「下から運び出した可能性は低いか」
「今回残っている痕跡を見る限りはね。絶対に使えない経路って意味じゃない」
一方、フィアは認証台の裏へ回っていた。
細剣には触れず、細い物理導線と滑車の擦れを目で追っていく。
「導線は切れていない。認証台から書類搬送台を経由して、上の筒へ続いてる」
指先が、導線についた新しい擦れの手前で止まる。
「ここだけ摩耗の向きが上向き。最近、搬送台が上へ動いた可能性はある」
「消えた文書が運ばれた証拠になる?」
僕が尋ねると、フィアは首を横に振った。
「ならない。別の書類を運んだ跡かもしれない。でも、上方へ送れる状態だったことは確認できる」
セルフィナの風精霊は、上層認証台の周囲をゆっくり巡っていた。
淡い青緑色の光が、金属板の一角で小さく揺れる。
「残留魔力があります」
セルフィナが翡翠色の瞳を細める。
「記録紙に残っていた未知の脈動と似ています。ただし、どちらも劣化しています。個人識別には使えません」
彼女は風精霊を僕の左腕へ戻した。
「アルトの封魔具は作動していません。黒い魔力の流出も、暴食の兆候もありません」
「左腕の痛みは三のまま。右脚の痺れも変わってない」
僕は聞かれる前に報告した。
セルフィナが短くうなずき、記録板へ追記する。
室内の調査が進む間、僕は長机の端へ三種類の物理記録を並べていた。
学院側の会議室利用予定表。
上層認証台の使用時刻。
三つの文書が各保管庫から持ち出された時刻。
時刻を線で結ぶ。
三つの持ち出しが集中した時間帯に、会議室の上層認証台が一度だけ使用されている。
しかし、その欄に会議名はなかった。
招集状の番号も、議事記録の番号も空白だ。
「ユリウス。この時刻の貴族院側記録は?」
貴族院記録官が封印を確認した後、出席簿を開く。
ユリウスは原本へ触れず、提示された頁と学院側の時刻を照合した。
青い瞳が、二つの記録を何度も往復する。
「ない」
「何が?」
「全てだ」
ユリウスの声が低くなる。
「貴族院側に、この時刻の招集記録はない。立会人の出席も、監査印も、議事記録の受領番号も存在しない」
アルトの封魔具や査問記録を扱う正式会議なら、貴族院側の立会いが必要になる。
学院側の記録だけが消されたのなら、貴族院側には別系統の痕跡が残るはずだ。
だが、それもない。
「少なくとも、正式な会議として開かれた事実はない」
ユリウスが断言した。
「それでも学院上層部の認証だけは、この部屋で使われている」
会議がなかったからといって、部屋が無人だったとは限らない。
誰かが非公式に入った可能性。
一人で認証を使った可能性。
複数人がいた可能性。
誰かへ認証だけを渡した可能性。
僕たちが確認できないことは、まだ多い。
「アルト」
セルフィナが僕へ向き直った。
「この場で確定できる事実を分けてください」
僕は並べた記録を見下ろした。
ガルナが確認した匂い。
フェリナが調べた上方経路。
ティアナが確認した床と保守口。
フィアが見つけた導線の摩耗。
レグルスが守った室内の気流。
セルフィナが確認した残留魔力。
そして、ユリウスが照合した貴族院側の出席簿。
どれか一つだけでは、同じ結論には届かなかった。
「正式な会議はなかった」
僕は最初の事実を告げる。
「上層部の有効な認証は使われた」
次に、認証台の記録を見る。
「誰が使ったかは分からない」
セルフィナは三つを分けたまま記録した。
記録官も、全員の報告を一つにまとめず、それぞれ別の物理文書へ残していく。
消えた文書は見つからない。
裏切者の名前も分からない。
それでも、正式な会議を装ったわけですらないことは判明した。
調査終了の合図が出る。
フェリナが安全索を使って点検足場から下り、ティアナが床石の固定を解除する。
レグルスが気流を止め、セルフィナが風精霊を戻した。
最後にメルナが両手を下ろす。
廊下側を覆っていた幻像が、薄い水面のように揺れて消えた。
外から見える会議室は、現実の姿へ戻る。
誰にも知られず調べた幻像の内側で、僕たちは存在しなかった会議の痕跡を見つけた。
正式な会議などなかったその時刻、幻像ではない学院上層部の認証だけが、誰もいないはずの会議室で確かに使われていた。
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