第73話 銀緑の追跡者
貴族院の地下書庫から学院へ戻った頃には、窓の外が夕焼けに染まっていた。
長い階段を上り下りしたせいで、右脚の痺れが朝より強い。治療布の下では、左腕の熱傷もじくじくと痛んでいた。
「右脚は感覚低下が僅かに悪化。左腕の炎症も継続中だ」
証拠確認室の隣にある処置区画で、バルト先生が僕の左指を一本ずつ動かす。
治療布の上には、三本の輪を細い板で繋いだ黒銀色の封魔具が残っている。
「空腹、吐き気、冷や汗は?」
「ありません。左腕の痛みと、右脚の痺れだけです」
「黒い魔力を感じたか」
「感じていません。暴食も開いていません」
バルト先生は封魔具の計測板を確認した。
「封魔具の作動なし。通常魔力にも異常なし。ただし、調査を許可するのは十五分以内だ」
「分かりました」
「痛み、痺れ、吐き気、空腹、魔力変化。何か一つでも強まったら即時申告しろ。隠した時点で中止だ」
「はい」
今回の調査を提案したセルフィナは、少し離れた場所で僕たちのやり取りを聞いていた。
淡い銀緑色の髪が、証拠確認室から漏れる風に揺れている。
「条件に異論はありません。調査範囲も中央棟の記録搬送路までに限定します」
「お前が監督者になるわけではない」
バルト先生が念を押す。
「承知しています。成人監督者と学院警備員には、区画入口で待機してもらいます」
僕たちが証拠確認室へ入ると、中央の台に透明な保護板が置かれていた。
その内側に、一枚の記録紙が封じられている。
消えた文書が上層監査認証で持ち出された際、保管庫側へ残された物理記録紙だ。
記載されているのは、使用時刻、持ち出し分類、監査命令の種別だけ。
個人名はない。
「紙には、認証で使われた生きた魔力の残滓が残っています」
セルフィナが保護板へ手を近づける。ただし、表面には触れない。
彼女の指先から淡い風が生まれ、小さな風精霊が姿を現した。
隔離治療中の精霊とは別の、健康な一体だ。
淡い青緑色の光を纏った精霊は、保護板の周囲をゆっくり回る。
「匂いは一つではありません」
セルフィナの前には、細い試料管が並べられていた。
書庫官、監査担当者、記録紙を回収した調査担当者。
記録紙へ触れたことが分かっている者たちから、正式に採取した比較試料だ。
セルフィナが一本目の栓を開ける。
風精霊は漂った匂いを確かめるように、小さく明滅した。
二本目。
三本目。
既知の匂いと魔力を一つずつ覚えるたび、風精霊は記録紙の周囲を回り、同じ痕跡を選り分けていく。
しばらくして、精霊が保護板の右下で止まった。
「既知の関係者とは一致しない痕跡が残っています」
「誰のものか分かる?」
僕が尋ねると、セルフィナは首を横に振った。
「分かりません。乾いた香料と、金属質の保存墨。それに微弱な魔力の脈動が重なっています。ただし、犯人本人のものとは限りません」
「手袋や書類から移った可能性もあるか」
「はい。意図的に付けられた可能性も否定できません」
風精霊に名前や顔は分からない。
人間の思考も、過去の映像も読めない。
できるのは、この匂いと残留魔力の組み合わせが触れた場所を探すことだけだ。
セルフィナは風精霊へ顔を寄せた。
「この痕跡を覚えてください。ただし、危険な魔力へ直接触れてはいけません」
精霊が一度だけ強く輝いた。
証拠確認室の外では、成人監督者と学院警備員二名が待っていた。
ティアナ、フィア、レグルスも、追跡区画へ続く分岐点に残る。
「本当に二人だけで大丈夫?」
ティアナが僕ではなく、成人監督者へ確認した。
「扉は閉鎖しない。異常があれば即座に入る。調査時間は十五分だ」
返答を聞いたティアナは、僕の左腕を見る。
「何か変わったら、セルフィナに聞かれる前に言ってね」
「うん。隠さないよ」
フィアは記録搬送路を見ながら口を開いた。
「人数が増えれば、匂いも空気も混ざる。私たちは入らない方がいい」
「追跡はセルフィナの役割だ。僕たちの風で乱すべきではない」
レグルスも同意した。
成人監督者が砂時計を反転させる。
「調査開始」
先に足を踏み入れたのはセルフィナだった。
「アルト、私と同じ場所を歩いてください。急がなくて構いません」
「分かった」
僕は彼女が踏んだ床石をなぞるように進む。
記録搬送路は、人が二人並べる程度の細い通路だった。
窓はない。
壁際には書類搬送台が置かれ、床には薄く埃が積もっている。
風精霊が床すれすれを飛び、最初の角で止まった。
淡い光が、右側の扉へ向く。
セルフィナは扉へ触れず、取っ手の周囲へ細い風を流した。
「ここにもあります。ですが、ほかの匂いが多い」
数人分の痕跡が重なっているらしい。
風精霊は何度か迷うように旋回した。
セルフィナは急かさなかった。
床の埃。
搬送台の車輪。
扉の縁に残った保存墨。
一つずつ確かめ、記録紙で覚えた匂いと魔力の組み合わせを選び直していく。
銀緑色の髪を揺らしながら進む彼女の後ろ姿は、細い風そのものに見えた。
二つ目の角を曲がったところで、右脚へ鋭い痺れが走った。
足先が床へ引っかかる。
僕は壁へ手をつく前に立ち止まった。
「セルフィナ、右脚の痺れが強くなった」
彼女がすぐに振り返る。
視線は封魔具だけでなく、僕の足元と顔色へ向いた。
「立っていられますか」
「立てる。感覚はあるけど、踏み込みづらい」
「痛みを数値で」
「十段階なら四。左腕は三。吐き気と空腹、魔力変化はない」
セルフィナは記録板へ書き込んだ。
「一分休止します。悪化するなら戻ります」
「分かった」
無理に支えようとはせず、彼女は僕が壁際の固定椅子へ座るまで見届けた。
一分後、痺れは三まで下がった。
セルフィナが区画入口へ合図を送り、成人監督者の続行確認を得る。
僕たちは再び歩き始めた。
痕跡は一般通路へ向かわず、書類だけを運ぶ細い搬送路を選んでいた。
やがて風精霊が、銀色の扉の前で強く明滅する。
扉の上には、学院評議会区画と刻まれていた。
「ここです」
セルフィナが低く告げる。
扉の脇には、小さな文書搬入口が設けられている。
学院上層部だけでなく、正式な記録係や搬送担当者も利用する共用口だ。
風精霊は搬入口の縁を回り、その先へ進もうとして止まった。
「痕跡は評議会区画まで続いていたんだね」
「はい。ただし、ここへ到達した事実だけです。記録を持ち出した者が評議会所属とは断定できません」
搬送担当者が運んだ可能性。
別の物品から移った可能性。
僕たちをここへ誘導するため、意図的に残した可能性。
どれも消えてはいない。
セルフィナは扉の向こうへ意識を向ける。
「薄い痕跡が、許可範囲の先にも続いています」
「追えそう?」
「可能性はあります。ですが、この先は複数の執務室へ分かれています。現在も人が出入りしているため、進めば痕跡が混ざるでしょう」
彼女の指が記録板の縁を押さえた。
「この先は、私たちに許可された調査範囲の外です。無断で入れば、調査対象へ警戒を与える可能性もあります」
「罠かもしれない」
「否定できません」
ここまで来たのなら、あと少し追いたい。
消えた記録の行方を知りたい。
僕を暴走させる条件も、仲間が止める方法も、誰が持ち出したのか確かめたい。
けれど、その焦りこそ利用されるかもしれない。
セルフィナが僕へ向き直った。
翡翠色の瞳は、封魔具ではなく僕の目を見ている。
「この先へ進むか、ここで痕跡を確定させるか」
短い沈黙の後、彼女は言った。
「アルト、あなたが決めてください」
「僕が?」
「事前に認められた中止判断の範囲です。学院全体の捜査方針を任せるわけではありません」
責任を投げた声ではなかった。
セルフィナ自身の判断を持った上で、僕の選択を待っている。
僕は文書搬入口と風精霊を見比べた。
「ここで止めよう」
セルフィナは黙って続きを待つ。
「分かったことを記録して、正式な調査へ渡す。無断で進めば、今ある証拠まで使えなくなるかもしれない」
「痕跡を失う可能性はあります」
「それでも、罠なら僕たちが踏み込むのを待っているかもしれない。精霊を危険へ近づけることにもなる」
僕は扉から一歩下がった。
「追わないんじゃない。次に確実に追える形を残す」
セルフィナの指から、僅かに力が抜けた。
「異論はありません」
彼女は風精霊を呼び戻した。
終点の位置。
到達時刻。
風向き。
匂いと残留魔力の強さ。
全てを記録し、床へ番号付きの物理標識を置く。
それから区画入口へ中止合図を送った。
成人監督者と学院警備員が到着し、痕跡の終点を確認する。
評議会区画の出入り記録は、正式な命令によって回収されることになった。
誰かの執務室へ踏み込むことも、評議会関係者を一斉に拘束することもない。
確定したのは、未知の痕跡が文書搬入口まで続いていたという事実だけだった。
証拠確認室へ戻ると、セルフィナは報告書へ追跡中止の経緯を書いた。
僕の判断で許可範囲を越えなかったことも、そのまま記録する。
「中止を失敗とは書かないんだね」
「痕跡の到達地点を確定し、証拠を保全しました。失敗と記録する理由がありません」
僕は証言者欄へ署名した後、彼女へ尋ねた。
「どうして僕に決めさせたの?」
セルフィナの筆が止まる。
「あなたを完全に信用したわけではありません。暴食の危険も消えていません」
「うん」
「ですが、あなたが危険と利益の両方を見た上で、止まる判断をできることは知っています」
彼女は記録板を閉じた。
「監視対象だから決めさせたのではありません。判断を任せられる相手だと思ったから、尋ねました」
胸の奥が、静かに温かくなる。
けれど、それを大げさな言葉にはしたくなかった。
「任せてくれたことは、ちゃんと覚えておく。でも、次も正しい判断ができるとは言い切れない」
僕は封魔具の残る左腕を見た。
「だから、危険だと思ったら止めて」
「その役目は続けます」
セルフィナは変わらない冷静な声で答える。
「ですが、止める必要があるかどうかも、あなた自身を見て判断します」
銀緑の追跡者が僕へ預けたのは、監視の視線ではなく、次の一歩を決めるための判断だった。
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