第71話 消えた査問記録
星冠教団が学院内部へ侵入し、僕の封魔具を暴走させた翌朝。
左腕には厚い治療布が巻かれ、その上から三本の黒銀色の輪が固定されていた。
歩くたび、焼けた魔力経路が鈍く疼く。
「通常魔力に異常な増減はありません。黒い紋章からの流出もなし。封魔具も作動していません」
僕の斜め後ろを歩くセルフィナが、風精霊の観測結果を記録板へ書き込む。
「顔色は悪いままですが」
「それは記録に必要?」
「必要です。痛みを隠していないか確認する材料になります」
「隠してないよ。左腕はまだ痛いし、右脚も少し痺れてる」
「申告内容も記録します」
成人監督者を務める学院騎士に挟まれ、僕たちは緊急再査問室へ入った。
室内には学院長、バルト先生、学院側と貴族院側の記録担当者が揃っていた。
ティアナ、フィア、レグルスも、侵入事件の当事者として壁際の席へ座っている。
捕らえた教団員は生きている。
けれど、「器を迎える準備は始まっている」と告げた後、具体的な質問には何も答えていなかった。
「アルトの故意による規約違反は確認されていない」
学院長が再査問の開始を告げる。
「本日の目的は、封魔具への外部干渉、教団員の侵入経路、情報管理上の欠陥を確認することだ。学院預かりと処刑猶予は、調査中も維持する」
僕は小さく息を吐いた。
無罪になったわけではない。
それでも、昨日の強制干渉だけで処刑審議を再開されるわけではなかった。
「非公開査問記録を」
学院長が記録担当者へ命じる。
「……まだ届いておりません」
「開始時刻は伝えてあるはずだ」
「確認させてください」
記録担当者が通信具ではなく、封をされた連絡紙を補佐役へ渡す。
通常通信網へ内容を流さないため、隣接区画との連絡さえ物理文書で行われていた。
数分後、補佐役が青ざめた顔で戻ってくる。
「中央査問保管庫に、原本がありません」
室内の空気が固まった。
「貸し出し記録は」
「上層監査中となっています。しかし、現在開かれている上層監査はありません」
「棚の取り違えではないのか」
「封印番号を照合済みです。管理用の限定複製もありません」
僕は治療布の巻かれた左腕を右手で押さえた。
消えた記録には、僕がベルゼバスと契約していたことを隠した事実も残っている。
同時に、人間の魂や魔力を一度も喰っていないという証拠もあった。
ティアナへ左手が向いたこと。
触れなかったこと。
三人が僕を止めたこと。
学院預かりとなった理由と、処刑猶予を維持するための条件。
僕に不利な事実と、僕を処刑から遠ざけている事実の両方が、一冊の原本から消えていた。
「関係者の証言まで消えたわけじゃないよ」
ティアナが静かに言った。
「必要なら、私はもう一度同じことを証言する」
「僕もだ」
レグルスが続ける。
「だが、正式な原本が失われた影響を軽く見るべきではない」
「同意する」
学院長が頷く。
「別保管されている診療記録と証言者一覧を保全しろ。直ちに――」
「学院長」
別の記録担当者が立ち上がった。
その顔も強張っている。
「魔力研究記録庫を確認しました。アルトの暴食に関する計測結果がありません」
「どこまでの記録だ」
バルト先生が低い声で問う。
「条件付き訓練の開始前基準値から、外部合図なしの閉鎖成功まで、全てです」
左腕の痛みとは違う冷たさが、背中を走った。
黒い紋章の魔力圧。
封魔具が作動基準へ近づいた時の数値。
空腹や吐き気が現れるまでの時間。
僕が人間の体内魔力を食べ物として意識した時、どんな仕草を見せるのか。
ティアナの三拍の印。
フィアが接続線を切る位置。
レグルスが作る一本道。
セルフィナが観測する項目。
僕が自分で閉じられた一回と、誰かの声を必要とした失敗。
暴食を止めるために積み重ねたものが、そのまま僕を暴走させるための手引きにもなり得る。
「私の診療記録は別に残っている」
バルト先生が治療記録を机へ置く。
「人間の魔力を吸収していない事実も、別系統の測定紙で一部は再証明できる。だが、訓練中の連続計測は代替できん」
「次に外部術式を使うなら、私たちの切断手順へ対策できる」
フィアが指先を握る。
「接続線を隠す位置も、私が反応するまでの時間も記録にある」
「私の固定方法もだね」
ティアナの声から、普段の柔らかさが消えた。
「アルトを止める方法が、次はアルトを奪うために利用されるかもしれない」
扉が再び開いた。
施設管理の担当者が、長い筒を抱えて入室する。だが、その筒は空だった。
「封印区画事件後に更新された図面も、施設封印庫から消失しています」
三つ目だった。
修復した結界の継ぎ目。
保守通路。
非常用の遮断箇所。
魔力供給を切り替える位置。
図面だけで学院結界を解除できるわけではない。それでも、どこを狙えば警備へ負担をかけられるかは分かる。
「査問記録だけなら、狙いは僕だと思えました」
僕は机に並べられた三枚の消失報告を見る。
「でも、暴食の計測結果と封印区画の図面まで選ばれている」
拳へ力が入る。
「僕を暴走させる方法も、みんなが僕を止める方法も入ってる。持ち出した人は、記録の意味を分かって選んでいます」
「そのとおりです」
セルフィナが三枚の報告書を順に見る。
「三つの記録は、偶然近くにあったものではありません。アルトの危険性、管理方法、学院の防衛情報が選ばれています」
翡翠色の瞳が僕へ向いた。
左腕ではなく、僕の顔を見ていた。
「記録の選び方そのものが、目的を持っていたことを示しています」
「三つは別の保管庫だ」
レグルスが確認する。
「中央査問保管庫、魔力研究記録庫、施設封印庫。単独の記録係による紛失では説明できない」
「各保管庫を封鎖し、認証痕を回収しろ」
学院長の命令から間を置かず、調査が始まった。
扉も錠も壊されていない。
保管結界も正常。
転移、遠隔操作、外部通信の痕跡も見つからなかった。
文書は盗まれたようには見えなかった。
正規の手続きを踏み、正式に持ち出されたようにしか見えなかった。
そして三つの保管庫全てに、同じ分類の認証痕が残っていた。
上層監査認証。
その報告が届いた後、再査問室へセレネ先生が入ってきた。
左右には二人の監視者がいる。
セレネ先生は鍵も監査印も持っていない。机へ置かれたのも、認証痕を写した三枚の封印板だけだった。
「セレネ先生には、監視を継続したまま認証構造の確認を命じる」
学院長が告げる。
「異議はあるか」
「ありません」
セレネ先生は監視者から一歩も離れず、封印板を見下ろした。
「私を信用する必要はありません。監視と記録を続けたまま確認してください」
無実だとも、疑うなとも言わなかった。
一枚目の封印板へ顔を近づける。
触れずに魔力波形と刻印だけを追い、二枚目、三枚目へ視線を移す。
「全て同じ上層監査分類です」
「複製された君の認証ではないのか」
貴族院側の確認者が問う。
「違います」
セレネ先生は即答した。
「私の固定式教員認証が複製された件と、今回の認証は構造が異なります」
封印板に刻まれた三重の輪を指し示す。
「上層監査認証には、毎朝更新される変動式の応答が必要です。それに加え、現役権限者本人の生きた魔力反応と、上層管理区画に保管された物理監査印を使う必要があります」
「過去の魔力波形を写したものでは?」
「通りません。失効認証も、退職者の認証も拒絶されます。外部から古い認証を複製しただけでは、この痕跡は残せません」
室内が静まり返った。
「つまり、外部犯ではないと?」
「外部犯だけでは不可能です」
セレネ先生が三枚の封印板を見比べる。
「三つの保管庫は、学院上層部の正式な命令によって開かれています。持ち出し理由も意図して選択されています」
「使用者の名は」
「秘匿監査の制度上、保管庫側には残りません。残るのは現役上層権限が有効だった事実、使用時刻、持ち出し分類だけです」
誰なのかは分からない。
一人なのか、複数なのかも分からない。
星冠教団へ渡したのか。
脅されたのか。
利益や思想のために動いたのか。
何も分からない。
けれど、現役上層部の生きた魔力が使われたことだけは、否定できなかった。
「セレネ先生自身は、調査対象から外れるのですか」
僕は尋ねた。
「いいえ」
セレネ先生は僕を見た。
「私も含め、証拠が揃うまで誰も調査対象から外すべきではありません。私の認証が複製された件と、今回の持ち出しが無関係だとも、同一犯だとも確定していません」
「僕も、証拠がないうちは誰か一人を犯人だとは決めません」
「それが妥当です」
信用したわけではない。
疑いが消えたわけでもない。
ただ、分かっていないことを分かったことにはしない。
それだけだった。
学院長が立ち上がる。
「現時点をもって、現役上層部の監査認証を全て凍結する。上層監査印を回収し、全員の行動実績と物理記録を照合せよ」
次々と命令が下される。
三つの保管庫を封鎖。
僕に関する新規記録を複数区画へ分散。
一人の上層部だけでは閲覧も持ち出しもできない方式へ変更。
調査担当者同士にも情報を分割する。
「アルトの学院預かりと処刑猶予は維持する。消失した原本を理由に、既に確認された事実を無効とはしない」
「はい」
「ただし、文書がどこへ渡ったかは不明だ。今後、敵がこちらの管理手順を知っている前提で行動する」
僕たちを守るための記録が、次は僕たちを追い詰めるために使われるかもしれない。
しかも、その記録を持ち出した者は学院の外にはいない。
上層部全員が敵ではない。
それでも、その中の誰かは既に学院を裏切っている。
「学院を守るはずの上層部に、今も学院の秘密を持ち出す裏切者がいる――それだけは、もう疑いではなかった。」
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