第70話 器を迎えに
外部の合図なしに暴食を閉じることへ成功して二日後。
僕はバルト先生の診察室で、左腕の袖を捲っていた。
「通常魔力は許容範囲。封魔具にも異常なし。ただし炎症は残っている。右脚の痺れも消えてはいない」
バルト先生が測定具を外す。
「今日も無理はするな。訓練で一度閉じられたからといって、完全制御できたわけじゃない」
「分かっています」
黒銀色の三本の輪は、僕の左腕へ変わらず固定されていた。
診察室を出ると、ティアナ、フィア、レグルス、セルフィナが待っていた。成人監督者を務める学院騎士もいる。
次の教室までの経路が伝えられたのは、その場だった。
東棟の専用通路。
予定表へは残されず、僕たちも今まで知らなかった道だ。
「行きましょう」
セルフィナの淡い銀緑色の髪の周りを、二体の風精霊が漂う。
救出した小さな風精霊は、まだ隔離治療中だ。今回同行しているのは別の精霊だった。
専用通路は静かだった。
窓は細く、外光が石床へ白い筋を落としている。すれ違った下級生は二人だけで、学院騎士に促され、先にある階段へ向かっていった。
通路の半ばへ差しかかった時だった。
セルフィナの風精霊が、同時に動きを止めた。
「待ってください」
セルフィナの翡翠色の瞳が、右側の壁へ向く。
「壁の奥から、黒い魔力が――」
最後まで聞く前に、左腕が焼けた。
「ぐっ……!」
三本の黒銀色の輪が、一斉に赤黒い光を放つ。
左腕の魔力経路へ、熱した針を束ねて打ち込まれたような激痛が走った。
膝が石床へ落ちる。
「アルト!」
「全員、壁から離れろ!」
バルト先生と成人監督者の声が重なった。
右側の壁から一本。
天井の点検口から一本。
床の石板の隙間から一本。
三本の細い黒線が、僕の封魔具へ繋がっていた。
黒い信号が流れ込むたび、封魔具が暴食の発動を誤認する。
逆流が止まらない。
一度焼かれた経路へ、二度目の熱が食い込んだ。
「あああっ……!」
左手の指が痙攣する。
封魔具は暴食を安全に封じる道具じゃない。理由も、誰が流した魔力なのかも判断できない。
暴食と同質の黒い魔力が来れば、ただ僕の腕を焼く。
「緊急警報を発する! 一般生徒を退避させろ!」
成人監督者が通信具を起動する。
バルト先生は僕の肩を支え、逆流が左腕より先へ広がらないよう、魔力経路の付け根へ応急の遮断具を押し当てた。
「外すなよ。二重認証なしでは外せん。破壊もするな!」
分かっている。
それでも、痛みで意識が散る。
そして逆流とは別の、粘ついた黒い感覚が紋章へ潜り込んだ。
腹の底が急に空になる。
目の前にいるティアナの魔力が、温かい食べ物のように見えた。
フィアも、レグルスも。
セルフィナの魔力まで、一口で届く場所にあるように感じる。
『喰え』
頭の奥で獣じみた声が響く。
『近くに餌がある』
左腕が勝手に持ち上がろうとした。
僕は右手で左手首を掴む。
「外から封魔具へ何かが繋がった……!」
痛みに歯を食いしばりながら、声を出す。
「みんなの魔力が食べ物に見え始めてる。暴食を開こうとする力が入ってくる!」
左脚が石床を擦った。
ティアナへ一歩、身体が引かれかける。
まだ触れていない。
誰も捕食対象へ入れていない。
「ティアナ、僕を止めて!」
「止めるよ、アルト」
ティアナは一瞬も迷わなかった。
両手を床へ向ける。
石板の隙間から細い根が伸び、僕の両足首と腰を固定した。右肩にも柔らかな蔓が回り、身体がそれ以上前へ出ないよう壁と繋がる。
左腕と封魔具には触れない。
首も胸も締め付けない。
「動けるようになるまで、ここから先へは行かせない」
ティアナは僕から距離を取りながら、それでも視線を逸らさなかった。
「まだ誰も喰ってないんだよね?」
「入れてない。誰の魔力も、魂も喰ってない!」
「分かった。ちゃんと見てる」
その時、天井の点検口が外れた。
同時に、右側の保守扉が内側から開く。
灰色と黒の外套。
七芒星へ冠を重ねた仮面。
三人の教団員が通路へ姿を現した。
「主の器よ、抗う必要はない」
仮面の一人が、黒い中継具を掲げている。
「痛みは、閉じた器を開くためのもの」
「僕は器じゃない……!」
「迎えは近い」
左右から黒い捕縛帯が放たれた。
成人監督者が僕たちの前へ立ち、防壁で一本を弾く。
もう一本はレグルスの風に押し戻された。
「下級生は南階段へ!」
レグルスが通路の後方へ清浄な風の道を作る。
逃げ遅れていた生徒たちが、学院騎士の誘導に従って走り出した。
同時に、僕と仲間たちの間へ薄い風の層が生まれる。
「体内の魔力は動かせない。だが、外へ漏れる分なら遠ざけられる」
空腹は消えない。
けれど、食べ物のように感じる魔力の匂いが僅かに薄くなった。
「アルト自身の魔力ではありません」
セルフィナが僕の左腕を見つめる。
記録板を掴む指には力が入っていたが、声は冷静だった。
「黒い魔力は全て外から流れ込んでいます。三本です」
フィアが細剣を抜いた。
切っ先が僕ではなく、右側の壁へ向く。
「斬るのはアルトじゃない」
一歩。
速い踏み込みとともに、銀色の線が壁際を走った。
「封魔具でもない」
一本目の黒線が切れる。
間を置かず、フィアが身を翻す。
「外から繋いでいるものだけ」
天井から伸びる二本目が断たれた。
封魔具の光が一瞬弱まる。
だが、床下から新しい偽信号が流れ込み、逆流が再び左腕を焼いた。
「まだ止まってない!」
「最後の一本は床下へ逃げています」
セルフィナが片手を振る。
風精霊が黒線へ直接触れない距離を保ったまま、石床の上の粉塵を巻き上げた。
細かな塵が、見えなかった魔力の流れに沿って細長く歪む。
「フィア、アルトの左斜め後ろ。石板の継ぎ目です!」
「見えた」
フィアの細剣が石板の表面だけを掠める。
刃はティアナの根にも、僕の左腕にも届かない。
三本目の黒線だけが、乾いた音とともに弾けた。
封魔具へ流れ込んでいた偽信号が止まる。
赤黒い光が消えた。
左腕には焼ける痛みが残っている。けれど、繰り返されていた逆流は止まった。
紋章を押し開こうとしていた外部の圧力も弱まる。
僕は空腹の向こうにある黒い扉を意識し、閉じたまま押さえ込んだ。
「暴食は開いてない……誰も、捕食対象に入れてない」
「確認します」
セルフィナのそばに一体だけ残った風精霊が、僕の左腕を慎重に巡る。
「アルトから人間へ伸びる黒い魔力はありません。人間からアルトへの魔力移動もありません」
仮面の教団員たちが後退した。
「回収続行は不可能」
中継具を持った一人が黒い煙を床へ叩きつける。
成人監督者が防壁を広げ、煙が僕たちへ届くのを防いだ。
「増援が来る! 深追いするな!」
通路の向こうから、複数の学院騎士の足音が響く。
教団員たちは三方向へ散った。
レグルスが西側の通路へ風圧を叩き込み、主逃走路を塞ぐ。
だが二人は点検口と別の保守扉へ飛び込み、そのまま姿を消した。
セルフィナは風精霊同士の距離を空けたまま、保守通路へ風を送る。
一体は僕のもとへ残されている。
残る一体が、黒い残留魔力へ触れず、揺れた空気と舞う粉塵だけを追っていく。
「一人、西側の保守階段へ向かっています」
セルフィナが成人監督者へ告げる。
「二つ目の踊り場から脇道へ入ろうとしています」
「西側を封鎖しろ!」
駆けつけた学院警備が方向を変えた。
レグルスも脇道へ抜ける風を押し返す。追うのではなく、学院騎士が到着するまで出口を狭めるための風だ。
間もなく、金属が床へ落ちる音がした。
「一人確保! 生きている!」
残る二人の姿は見つからなかった。
学院騎士が追跡を続ける一方、僕たちはその場へ留められた。
「解除する前に答えて」
ティアナが、僕を固定したまま尋ねる。
「私たちの魔力は、まだ食べ物に見える?」
「さっきより薄い。でも空腹は残ってる」
「外から開こうとする力は?」
「消えた。暴食も開いてない」
「誰かの魔力は?」
「吸収してない。魂も喰ってない」
セルフィナが風精霊の記憶を確かめる。
「申告と観測結果は一致しています」
それを聞いてから、ティアナは根と蔓を解いた。
「止めてくれてありがとう」
「頼まれなくても、危険なら止めるよ」
ティアナは伸ばしかけた手を途中で止めた。僕が自分で立てるかを見ている。
右脚へ力を入れ、ゆっくり立ち上がる。
「止めた後で、また隣に立つ。それが相棒だから」
「うん。次も頼む」
「だから、頼まれなくても止めるってば」
短く息を吐いたティアナの横で、セルフィナが僕の顔を見ていた。
「痛みを軽く申告するつもりはありませんね?」
「左腕の奥が焼けるように痛い。指先も痺れてる。少し吐き気がする」
「記録します」
その声はいつもどおりだった。
けれど僕のそばに残された風精霊は、バルト先生の診察が始まるまで離れなかった。
応急検査の結果、封魔具の二重認証は解除されていなかった。
内部設定も変更されていない。
外部から送り込まれた偽信号を、本物の暴食と誤認して逆流しただけだった。
「だけ、で済む話ではないがな」
バルト先生が焼けた左腕へ治療布を巻く。
「炎症は悪化している。軽い熱傷もある。欠損や恒久的な麻痺はないが、今日から訓練は全面中止だ」
「はい」
「アルト自身による暴食の使用履歴はない。人間の魔力と魂の吸収もなし。異変の即時申告も確認した。故意の規約違反には該当しない」
バルト先生は封魔具を睨むように見下ろした。
「だが、安全装置を外部から攻撃へ転用された。緊急再査問が必要になる」
封魔具は外されなかった。
学院側だけでも、貴族院側だけでも外せない。
黒銀色の輪は治療布の上から固定され、僕の左腕に残り続けた。
捕らえられた教団員は、学院内の拘束室へ移された。
その日の夕方、僕は成人監督者とバルト先生の立ち会いのもと、透明な隔壁越しにその姿を確認した。
仮面は外されていたが、名前も身分も分からない。
指導者についても、拠点についても、侵入方法についても、教団員は何も答えなかった。
僕を見た時だけ、その口が動いた。
「器を迎える準備は始まっている」
それが真実なのか、僕たちを惑わせるための虚勢なのかも分からない。
何を準備しているのか。
いつ、どこで、何をするつもりなのか。
教団員は二度と口を開かなかった。
「『器を迎える準備は始まっている』――捕らえた教団員のその言葉は、暴走した封魔具の熱よりも冷たく、僕の胸に残った。」
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークといただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




