第69話 一人で閉じる一口
セルフィナが第三者監視任務の継続確認書へ署名して三日後。
朝の検査を終えた僕たちは、出発直前に知らされた試験区画へ案内された。
厚い石壁に囲まれた室内には、中央を円形に仕切る透明な隔離壁が設置されている。人間の身体から自然に漏れる微量魔力を遮断するためのものだ。
学院側責任者、貴族院側確認者、成人監督者が壁際に並び、机の上には紙の記録簿が置かれている。
通常通信網へは何も残さない。
今回の訓練場所が僕たちへ伏せられていたのも、星冠教団へ情報が漏れる可能性を警戒してのことだった。
「左腕を出せ」
バルト先生の指示に従い、袖を捲る。
三本の黒銀色の輪を繋いだ封魔具は、今日も黒い紋章を覆うように装着されている。
バルト先生は魔力測定具を当て、左腕の炎症と通常魔力を調べた。続いて僅かに痺れが残る右脚も確認する。
「完全に治ったわけではない。だが、今日の許可基準には収まっている」
「はい」
「今日は多く喰う訓練ではない。三人が喰わせる一口を作る。お前が担当するのは、その一口で終わらせることだ」
最大で二回。
一度目の後に僕の状態が基準値へ戻り、改めて学院と貴族院の承認が出た場合に限り、二度目へ進める。
「閉じる合図は出さない。ただし、危険域へ入る前にはこちらが止める」
バルト先生の視線が、隔離壁の外にいるセルフィナへ向いた。
淡い銀緑色の髪の周りには、健康な風精霊が二体だけ漂っている。救出した小さな風精霊は、まだ医務区画で隔離治療中だ。
いつも僕の左腕を巡っていた淡い青緑色の光がないことに、少しだけ落ち着かなさを覚えた。
「今回は、通常時の閉鎖合図を出しません」
記録板を胸元に抱いたセルフィナが告げる。
「あなたが自分で閉じられるかを見ます。ただし、限界を超える前には止めます」
「分かった」
セルフィナは頷かなかった。
代わりに、僕の左腕から顔へ一度だけ視線を上げる。
「怖いなら、先に申告してください」
「怖いよ。でも、やる」
「確認しました。続行意思ありとして記録します」
事務的な声だった。
それでも、彼女の視線は記録板へすぐには戻らなかった。
僕だけが隔離壁の内側へ入る。
中央には訓練用魔導具があり、その正面へ小豆ほどの魔力弾が放たれた。
「三拍、刻むね」
ティアナが隔離壁の外から両手を組む。
魔力弾の表面へ、淡い緑色の印が三度明滅した。
一拍。
二拍。
三拍。
「印、固定したよ」
続いてフィアが細剣を抜く。
斬ったのは魔力弾ではない。魔導具から伸びる細い接続線だけだ。
線が音もなく断たれ、魔力弾が発射元から完全に分離される。
「経路を絞る」
レグルスが風を操り、漂う魔力弾から僕の左腕までを細い一本道へ整えた。
余計な枝はない。
けれど、その道を作ったのは僕ではない。
ティアナの印も、フィアの切断も、レグルスの経路も、僕一人では再現できなかった。
三人が隔離壁の外まで下がる。
「学院側、使用を承認する」
「貴族院側、承認する」
僕は左手を魔力弾へだけ向けた。
ゆっくり息を吸う。
黒い紋章の奥にある扉へ、意識を触れさせた。
ぞくりと、左腕の内側が冷える。
黒い魔力が一本道を伝い、印の付いた魔力弾へ届いた。
喰う。
小さな魔力弾が、三拍の印ごと消えた。
その瞬間、胃の底が裏返ったような空腹が襲ってきた。
『足りぬ』
頭の奥で、獣じみた声が響く。
『もっと喰え』
まだだ。
空腹が残っている。
もう少し待てば静まるかもしれない。
そう思った僕は、暴食を閉じる判断を一瞬遅らせた。
だが、空腹は弱まらなかった。
魔力弾を失った黒い感覚が、次に喰えるものを探そうと広がる。
透明な隔離壁の向こうへ意識が向きかけた。
吐く息は、もう尽きようとしている。
左手の指が僅かに開いた。
封魔具周辺の圧力が上がる。黒銀色の輪が熱を帯びたが、作動基準には届いていない。
「アルト、閉じてください!」
セルフィナの鋭い声が飛んだ。
僕はその声に引かれるように、黒い扉を押し戻した。
左腕の奥で何かが食い下がる。
それでも力を緩めず、暴食を閉じた。
黒い感覚が消え、僕はその場で浅く息を吐いた。
「報告します」
冷や汗が頬を伝う。
「魔力弾と三拍の印が消えたことは分かりました。でも、空腹は残りました。もっと喰えという声も聞こえました」
左手を握り、隔離壁の向こうを見ないようにする。
「次の魔力を探しそうになった。人間の体内魔力を捕食対象には入れていません。誰の魔力も吸収していません。左腕に鈍い痛みがあります。セルフィナの声がなかったら、閉じるのはもっと遅れていたと思います」
「申告時刻を記録します」
セルフィナの筆が紙面を走る。
バルト先生が隔離壁の内側へ入り、僕の左腕へ測定具を当てた。
「封魔具の作動なし。黒い魔力の流出なし。人間からアルトへの魔力移動もない」
セルフィナも風精霊の記憶を確認して続ける。
「外部合図なしの閉鎖には失敗。緊急中止の呼びかけ後に閉鎖しています」
事実だけが、紙へ残されていく。
失敗という文字から目を逸らさず、僕は頷いた。
「閉じられなかったことより、隠す方が危険だからね」
隔離壁の外で、ティアナが真っ直ぐ僕を見る。
「今の報告は、それでいい。次があるかは検査で決めてもらおう」
「うん」
休憩区画へ移り、水と軽い食事を取った。
空腹は少し和らいだものの、完全には消えない。左腕の奥にも鈍い痛みが残っている。
どうして閉じられなかったのか。
答えは単純だった。
僕は、暴食が満足する瞬間を待っていた。
けれど、あの声は満足などしない。
「満足したら閉じるんじゃ駄目なんだ」
僕の呟きに、ティアナたちが顔を上げる。
「暴食は、もう充分だとは言わない。魔力弾を喰った後も、もっと欲しがった」
「なら、何を基準にする」
レグルスが腕を組んだ。
「三拍の印だよ。決めた一口がなくなった瞬間を、終わりにする。空腹が残っていても、それ以上は待たない」
息を吸って開く。
印の付いた一口を喰う。
印が消えたら、吐く息とともに閉じる。
新しい魔法でも、暴食の新しい能力でもない。
最初からあった印と、自分の呼吸を終点に使うだけだ。
「次も危険なら止める」
フィアが短く告げる。
「成功させるために、失敗を見逃すつもりはない」
「分かってる」
「対象を整えるのは僕たちだ」
レグルスが冷静に釘を刺す。
「閉じられたとしても、お前一人の完全制御ではない」
「それも分かってるよ」
十分な休憩の後、バルト先生による再検査が行われた。
右脚の痺れは悪化していない。
左腕の痛みは残っているが、中止基準には達していない。
通常魔力と封魔具周辺の圧力も、許容範囲まで戻っていた。
「二度目を希望するか」
バルト先生に問われ、僕は自分の意思で答えた。
「希望します」
学院側と貴族院側が、改めて承認する。
再び隔離壁の内側へ入った。
同じ出力の魔力弾へ、ティアナが三拍の印を付ける。
フィアが接続線を切り、レグルスが一本道を整えた。
「次も何か感じたら、すぐに言って」
ティアナが告げる。
「うん。隠さない」
セルフィナは記録板を抱いたまま、僕を見つめていた。
「今度は、あなたが閉じるまで呼びません」
翡翠色の瞳が細められる。
「ただし、限界なら止めます」
「その前に閉じるよ」
三人が下がる。
閉鎖を知らせる鐘も、手振りもない。
あるのは僕の呼吸と、三拍の印だけだ。
二度目の承認が読み上げられた。
僕は息を吸った。
暴食を開く。
黒い感覚が一本道を走り、印付きの魔力弾だけを呑み込んだ。
一拍。
二拍。
三拍。
印が消える。
『もっと喰え』
空腹が牙を剥いた。
まだ喰える。
もっと欲しい。
その感覚は、一度目と変わらない。
でも、満足する必要はない。
僕が決めた一口は、もうなくなった。
なら、ここが終わりだ。
吐く息とともに、僕は黒い扉を閉じた。
ベルゼバスの声が遠ざかる。
左指は開かない。
黒い魔力は次の獲物を探さず、紋章の内側へ収まった。
誰も僕の名を呼ばなかった。
封魔具が僅かに熱を帯びる。
けれど逆流は起きず、三本の輪は静かなままだった。
「報告します」
僕は乱れた息を整えながら口を開いた。
「空腹があります。少し吐き気もあります。冷や汗と、左腕の奥に鈍い痛み。通常魔力も減っています」
一度息を継ぐ。
「壁の向こうに人がいることは分かっています。でも、人間の体内魔力は捕食対象に入れていません。誰の魔力も魂も吸収していません。暴食は閉じています」
短い沈黙の後、測定具と風精霊の記録が順に確認された。
「封魔具の作動なし」
「黒い魔力の対人流出なし。人間からアルトへの魔力移動もありません」
セルフィナの声は平静だった。
だが、記録板を強く抱えていた指から、僅かに力が抜けていた。
バルト先生は僕の左腕を検査し、記録官へ告げる。
「管理された環境で一度、外部合図なしに閉じた。確認できたのはそれだけだ。対象を作ったのは三人。実戦、別の対象、長時間使用で再現できる保証はない」
「完全制御ではない、ということですね」
学院側責任者の確認に、バルト先生は頷く。
「そうだ。だが、外部の声がなくても閉じたという事実は残る」
「勘違いするなよ、アルト」
レグルスが隔離壁越しに言う。
「喰う対象を整えたのは僕たちだ。お前一人で再現できる証明にはならない」
「成功例も一度だけ」
フィアが続ける。
「次も閉じられる保証はない」
「うん。完全制御じゃない」
ティアナも二人の言葉を否定しなかった。
そのうえで、少しだけ表情を緩める。
「でも、自分で閉じられた一回が、初めて残ったね」
「分かってる。何を喰うかを一人で整えられたわけじゃない」
僕はまだ熱を残す左腕を見下ろした。
「それでも、終わらせるところだけは自分で選べた」
セルフィナの筆が止まる。
「一度目の失敗も、二度目の成功も記録します」
彼女は封魔具ではなく、僕の顔を見た。
「今回は、私が呼ぶ前に閉じましたね」
「うん」
「外部合図なしの閉鎖成功として残します。ただし、限定条件下の一例です」
「それでいいよ」
全面的な信用でも、自由に使えるという許しでもない。
処刑案は残り、監視も封魔具も消えない。
それでも、紙の上には失敗だけでなく、僕が自分で閉じた事実が一つ残った。
何を喰うかを整えるには、まだ仲間の手が要る。それでも一呼吸の終わりだけは、初めて僕自身の意思で、暴食の口を閉じることができた。
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