第68話 理解できないままで
風精霊を救出してから、二日が経った。
医務区画の奥に設けられた精霊隔離室へ入ると、清浄な風が頬を撫でた。
室内の中央には、透明な隔離膜がある。
その中で、小さな風精霊が淡い青緑色の光を瞬かせていた。
森から連れ帰った時より、光は少しだけ強くなっている。
けれど、身体の端には黒い染みが残っていた。飛び回るだけの力も戻っておらず、清浄な風の繭へ包まれたまま、時折ゆっくり身を揺らすだけだ。
「おはようございます」
隔離膜の前にいたセルフィナが振り向く。
腰近くまで伸びた銀緑色の髪が、循環する風を受けて揺れた。その手には記録板と、まだ署名されていない一枚の書類がある。
「おはよう。少し明るくなったね」
「通常の風へ反応できる時間が増えました。ただし、残留汚染は消えていません」
いつも通りの冷静な報告だった。
それでも、風精霊へ視線を戻した時だけ、翡翠色の瞳が僅かに柔らかくなる。
僕は成人監督者とともに室内へ入った。監督者は扉の横に立ち、入退室の時刻を物理文書へ記録している。
「まずアルトの検査からだ」
バルト先生が僕を椅子へ座らせた。
右腕へ検査具が当てられる。
「防壁を長く維持した影響は残っている。痛みは?」
「力を入れると少し張ります。十段階なら二です」
「右脚は?」
「二。左腕は三です。空腹や吐き気はありません」
続いて左腕の袖を上げる。
三本の黒銀色の輪が、黒い紋章の上を覆っている。
検査具の光が封魔具を一周した。
「作動履歴なし。暴食と同質の魔力も検出されていない」
バルト先生は結果を記録すると、隔離膜の前へ移動した。
風精霊の周囲へ複数の測定具を置き、清浄な風に混じる黒い魔力を確かめる。
「残留汚染は減少傾向だ。だが、まだ外へ出せる状態ではない。隔離観察を継続する」
「期間は?」
セルフィナがすぐに尋ねた。
「現時点では決められない。明日も同じ割合で減るとは限らないからな」
「分かりました」
「それと、セルフィナ。お前も休息を取れ。救出後から記録時間が長すぎる」
「必要な観測です」
「一人で夜まで見続ける必要はない。精霊の治療に、お前が倒れる項目は含まれていない」
セルフィナは反論しかけ、口を閉じた。
「……今日からは交代記録へ戻します」
「そうしろ」
バルト先生が部屋を出る前に、セルフィナの持つ書類へ目を向ける。
「監視任務の継続についても、今日中に返答すればいい。辞退しても処罰はない。お前の精霊が狙われた以上、学院側も継続を強制しない」
「承知しています」
バルト先生は成人監督者へ僕の検査結果を渡し、隣の処置室へ移った。
扉は開いたままだ。
僕とセルフィナが完全に二人きりになったわけではない。
それでも、室内に残ったのは風の音と、僕たちの間にある短い沈黙だけだった。
「その書類、監視を続けるか決めるものなんだね」
「はい」
セルフィナが机へ二枚の物理文書を置く。
一枚は監視任務の継続確認書。
もう一枚は、風精霊救出作戦の正式記録だった。
「救出記録は完成しています。確認しますか?」
「僕が読んでもいいの?」
「参加者には確認する権利があります。ただし、都合の悪い部分を削る権利はありません」
「削ってほしいとは言わないよ」
僕が答えると、セルフィナは記録をこちらへ向けた。
整った文字が、余白を乱さず並んでいる。
暴食を使用しなかったこと。
封魔具が作動しなかったこと。
人間、魂、精霊、黒い汚染のいずれも吸収していないこと。
薄い防壁の疲労を途中で申告したこと。
風精霊が生存したこと。
そこまで読めば、僕に有利な記録に見える。
けれど、その下には別の事実も残されていた。
星冠教団へ続く可能性のあった黒い経路を失ったこと。
敵の追跡へ繋がる証拠を確保できなかったこと。
精霊に残留汚染があること。
同じ方法が、別の汚染でも再現できる保証がないこと。
「全部書いたんだね」
「当然です」
「僕が精霊を選んだ理由も?」
「行動として確認できたことだけです。あなたの考えは精霊では観測できません」
セルフィナらしい答えだった。
彼女は記録を閉じ、未署名の継続確認書へ指を置く。
「学院は、私が監視任務を辞退した場合、別の観測者を用意するとしています」
「辞めてもいいと思う」
セルフィナの指が止まった。
「僕を監視していたから、あの精霊は狙われた。次は別の精霊や、セルフィナ自身が狙われるかもしれない」
「だから、私に離れろと?」
「そうじゃない。僕が決めることじゃないよ」
僕は隔離膜の中の風精霊を見た。
「続けてほしいとも言わない。辞めると決めても責めない。それだけ」
「随分と都合の悪い監視役を、簡単に手放すのですね」
「セルフィナは僕の持ち物じゃないから」
セルフィナは何も答えなかった。
清浄な風が、机の上の書類を僅かに揺らす。
彼女は用紙の端を指で押さえたまま、隔離膜の向こうへ目を向けた。
「幼い頃、一度だけ似た精霊を見ました」
唐突な言葉だった。
僕は黙って続きを待った。
「故郷の近くへ、人族の調査隊が来たことがあります。彼らは危険な場所の索敵を、風精霊へ任せました」
声は淡々としていた。
長い回想ではない。
ただ、記録を読み上げるように一つの出来事だけを語る。
「その精霊は汚染を受けました。調査隊は、ほかの者へ広げないために繋がりを切りました。その判断自体は間違っていません」
「必要だったんだね」
「はい。けれど、彼らは戻りませんでした」
セルフィナの指先が、確認書の角を押さえ込む。
「代わりの精霊を探せばいい。そういう意味の言葉を残し、汚染された精霊を置いていきました。私たちが見つけたのは、その後です」
「助かったの?」
「生きてはいました。ですが、長い間、人族の呼びかけには応じませんでした」
セルフィナは僕を見た。
「全ての人族が同じだとは言いません。それでも、人族は必要なら精霊を使い、危険になれば切り離す。その事実を、私は見ています」
彼女が人族へ無条件の好意を持たない理由。
それを一度の過去だけで全部分かったとは思えない。
けれど、少なくとも一つは見えた。
「森で風の道を切った時、思い出した?」
セルフィナの翡翠色の瞳が僅かに揺れた。
「……はい」
「あの精霊を切り捨てた人たちと同じだと思った?」
「同じ判断をしました。汚染を広げないために、一体との道を切った」
「でも、セルフィナは戻ったよ」
「あなたたちの協力があったからです」
「それでも、戻る方法を考えたのはセルフィナでしょ」
僕は隔離膜の向こうへ右手を向けた。
風精霊が弱い光を一度だけ返す。
「道を切ったことじゃなくて、そのままにしたか、迎えに戻ったか。違うのはそこだと思う」
セルフィナは風精霊を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「あなたの一度の行動で、人族への見方を変えるつもりはありません」
「うん」
「あなたが次も同じ選択をする保証はありません。暴食の危険も消えていない」
「それも分かってる」
「精霊を助けたからといって、あなたが安全な存在になったとは記録できません」
「しなくていいよ」
僕は彼女の目を見る。
「僕を信用しなくてもいい。危険だと思ったら、そのまま記録して」
「信用を求めないのですか?」
「求めたら手に入るものでもないから」
一度精霊を助けた。
それだけで、これから先も必ず正しい選択ができるとは言えない。
僕は仲間の体内魔力を食べ物として感じたことがある。
反動を隠しかけたこともある。
その事実は消えない。
「僕も、自分が毎回正しい選択をできるとは思ってない。でも、あの時は精霊を見捨てたくなかった。それだけだよ」
「それが理解できないのです」
セルフィナは即座に返した。
「あなたを狙った敵へ近づく機会でした。自分を守るためなら、追跡経路を優先する方が合理的です」
「そうだね」
「あなたは信用を求めず、見返りも求めず、敵より精霊を選んだ。しかも、自分の契約精霊ですらない」
「無理に理解しなくていいよ」
僕がそう答えると、セルフィナは眉を僅かに寄せた。
「理解されなくても構わないのですか?」
「僕のしたことは変わらないから」
再び沈黙が落ちた。
セルフィナは机の上の継続確認書を手に取る。
署名欄の上で、筆先が一度止まった。
学院の命令で始まった監視だ。
今なら辞退できる。
それでも彼女は、継続の欄へ自分の名を書いた。
「あなたを理解したとは言いません」
筆を置き、セルフィナが顔を上げる。
「むしろ、まだ理解できません」
翡翠色の瞳が、まっすぐ僕へ向けられる。
「だから、もう少し見ていたいのです」
「監視を?」
「それも含みます」
セルフィナは少しだけ間を置いた。
「暴食が危険かどうかだけではなく、あなたが次に何を選ぶのかを」
告白のような甘さはなかった。
アルトなら安全だという保証でもない。
ただ、学院から与えられた命令ではなく、セルフィナ自身が選んだ言葉だった。
「監視が減るかと思ったのに」
「残念でしたね」
「少しだけね。でも、セルフィナが決めたなら受け入れるよ」
成人監督者が、退室予定時刻を告げる。
必要な検査も、記録の確認も終わっていた。
僕は椅子から立ち上がる。
「では、また授業で」
「待ってください、アルト」
呼び止められ、振り返る。
セルフィナの視線は、封魔具のある左腕ではなく、僕の右手へ向いていた。
「右手は、まだ痛むのですか?」
「力を入れると少し張る。さっきバルト先生へ申告した通り、二くらい」
「隠してはいませんね?」
「隠したら、監視継続の初日から記録されるんでしょ?」
「当然です」
そう言いながら、セルフィナはすぐに記録板へ筆を走らせなかった。
僕の指がきちんと動くか確かめるように、しばらく右手を見ていた。
隔離膜の中で、風精霊が弱く明滅する。
その小さな風が、僕とセルフィナの間を一度だけ通り抜けた。
理解できないまま、それでも見ていたいと告げた翡翠色の瞳は、もう僕の左腕だけを追ってはいなかった。
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