第67話 精霊を守る手
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
星冠教団による誘拐未遂が起きた翌朝。
学院外周の管理林は、学院騎士によって封鎖されていた。
森へ通じる門の前で、バルト先生が僕の左腕へ検査具を当てる。
「通常魔力に大きな乱れなし。封魔具の作動履歴もない。右脚の痺れは?」
「昨日と変わりません。左腕も少し痛むだけです」
「少し、という表現は曖昧だ」
「十段階なら、右脚が二。左腕が三です」
「その答え方を続けろ」
検査具が離される。
今日の目的は、昨夜のうちに学院長から正式な許可を得た風精霊の救出だ。
暴食の使用許可は出ていない。
僕たちの周囲には成人監督者と学院騎士が配置され、汚染区域の外側には二重の警戒線が作られている。
星冠教団の構成員が残っていないことも、夜間の捜索で確認されていた。
「教団の追跡は別働隊が行う」
学院騎士が僕たちへ告げる。
「こちらは精霊の救出と汚染源の回収だけに集中しろ。敵の痕跡を発見しても追うな」
「分かりました」
僕は一人で森へ入らない。
勝手に暴食も使わない。
その二つを確認してから、封鎖線を越えた。
昨日より静かな森だった。
鳥や小動物が避難させられ、風の音だけが木々の間を通っている。
やがて、黒く濁った空間が見えてきた。
複数の木の間に黒い風が渦巻き、檻のような形を保っている。
その中心で、小さな淡い青緑色の光が明滅していた。
「まだ生きています」
セルフィナが告げた。
声はいつもと変わらない。
けれど、記録板を支える指先には強く力が入っていた。
「あの子の本来の風は、昨日の半分以下です。黒い汚染が外側の風へ絡み、流れを逆向きにしています」
「呼びかけには反応してる?」
「僅かに」
セルフィナが精霊へ向かって右手を伸ばす。
「聞こえていますか。今から迎えに行きます。無理にこちらへ来ようとしないでください」
黒い風の中で、淡い光が一度だけ揺れた。
いつも僕の封魔具の周りを巡っていた精霊だ。
下級生へ倒れた木板を逸らした時も、あの小さな風が僕の防壁を助けてくれた。
「汚染は精霊から出ているのか?」
バルト先生が尋ねる。
「表面だけを見れば、そう見えます」
セルフィナは黒い渦を見つめた。
「中心から外へ黒い風が広がっています。精霊自身が汚染源へ変えられている可能性も否定できません」
それなら、精霊を檻から出しても汚染は止まらない。
最悪の場合、救出した精霊からほかの精霊へ黒い魔力が広がる。
僕は地面へ膝をついた。
魔力を見通せるわけではない。
黒い流れの色や形を、特別な目で確認できるわけでもない。
だから、観察できるものを並べる。
「レグルス。弱い風を、檻の手前から横へ流してくれる?」
「汚染へ触れない強さでいいのか?」
「うん。流れを見るだけだから」
レグルスが銀槍を地面へ立て、手のひらを横へ向けた。
穏やかな風が落ち葉を運ぶ。
黒い檻の手前まで流れた葉は、三つの場所で不自然に沈んだ。
「三本ある」
僕は沈んだ葉の位置を地面へ書き込んだ。
記録担当者から魔力測定紙を受け取り、長く切ったものを地面へ並べる。
黒い風が脈打つたび、測定紙が端から順番に灰色へ変わった。
精霊が揺れるのは、その直後だ。
「セルフィナ。黒い風が強くなってから、精霊が乱れるまでに間があるよね?」
セルフィナの翡翠色の瞳が細められる。
「……あります。ごく僅かですが、黒い魔力が増えたあとに、あの子の風が引かれています」
「それなら、汚染は精霊から出てるんじゃない。外から入ってる」
地面へ描いた三本の線を逆に辿る。
落ち葉が沈んだ場所は別々でも、測定紙の変色は一か所から始まっていた。
「ティアナ。この根の下を少しだけ開けられる?」
「周りを崩さないようにやってみる」
ティアナが土へ手を当てる。
細い根を傷つけないよう、土だけが左右へ分かれた。
その下から、手のひらほどの黒い杭が現れる。
表面に七芒星と冠を重ねた紋章が刻まれていた。
「これが汚染源……」
フィアが細剣へ手をかける。
「今切れば?」
「まだ駄目だと思う」
僕は測定紙の変化を見た。
「杭から精霊へ三本の経路が伸びてる。先に杭を壊したら、切れた魔力が全部、精霊側へ残るかもしれない」
「では、どう分けるのですか」
セルフィナが僕へ視線を向けた。
「薄い防壁を、間へ入れる」
「防ぐのではなく?」
「境界として使うんだ。黒い魔力が弱くなる瞬間に、精霊の風と接触している場所へ薄い膜を差し込む。流れを止められるのは短い時間だけだけど、その間にセルフィナが精霊を引いて、フィアが外側へ出た経路を切る」
防壁は汚染を消せない。
精霊を治すこともできない。
ただ、混ざろうとする二つの魔力の間へ、一時的な壁を作るだけだ。
バルト先生が測定紙と地面の図を確認する。
「失敗すれば?」
「防壁が先に割れます。割れる前なら解除できます」
「黒い魔力が食べ物に見える可能性は?」
僕は左腕の感覚を確かめた。
地中の杭から漏れる黒い魔力は、僅かに食べ物のように感じられる。
けれど、まだ周囲の人間や精霊へ意識が向くほどではない。
「杭の魔力だけ、少し食べ物に見えます。暴食は開きません」
「申告を記録。異常が強まれば、即座に中止する」
「はい」
バルト先生が学院騎士と短く確認し、作戦の実行が正式に許可された。
ティアナが地面へ両手を置く。
「杭と周りの根を固定する。これで地中へ逃げられない」
土が固まり、黒い杭の下まで包み込む。
レグルスが通常の風を細く整えた。
「精霊からこちらまで一本道を作る。黒い風は左右へ流すが、浄化まではできない」
「それで充分です」
セルフィナが汚染されていない風精霊たちを後方へ下げる。
自分の周囲へ清浄な風を集め、黒い檻の中心へ向けて細く伸ばした。
「接触位置を伝えます。最初は精霊の右下。次に左。最後が杭の正面です」
フィアが細剣を抜く。
「分離された線だけを切る。合図して」
僕は黒い檻の前へ右手を出した。
「第一階位防壁」
淡く透明な膜が生まれる。
攻撃を受け止める形ではなく、紙より薄い一枚の板へ整える。
黒い風が強くなる。
一度目の脈動。
二度目。
その後に訪れる、ごく短い静けさ。
「右下、今です!」
セルフィナの声に合わせ、防壁の端を接触部分へ差し込む。
黒い魔力と青緑色の風が、膜の左右へ分かれた。
「一つ!」
防壁の表面に細い亀裂が入る。
「残存魔力は七割。右腕に軽い震え。続けられます」
「申告を確認。次まで許可する」
バルト先生の答えを受け、二度目の脈動を待つ。
「左、今です!」
二本目を分ける。
セルフィナの清浄な風が、精霊を僅かにこちらへ引いた。
黒い檻が歪む。
地中の杭から、北へ向かって一本の細い黒い流れが伸びた。
「遠隔経路が動いた!」
学院騎士が声を上げる。
「今なら方向を固定できる可能性がある!」
黒い流れは、森の奥へ引き戻されようとしている。
あれを辿れば、星冠教団が撤退した方向をさらに絞れるかもしれない。
僕を狙った者たちへ近づけるかもしれない。
けれど、そのためには右手の防壁を外さなければならない。
まだ一本、精霊と汚染源が繋がっている。
ここで手を離せば、押し分けた黒い魔力が戻る。
「アルト」
セルフィナが僕を見る。
選択を迫る声ではなかった。
ただ、僕がどちらを見るのか確かめていた。
「追跡班へ方向だけ伝えて。僕は防壁を維持します」
「経路は消えるぞ」
「この精霊は、今助けないと弱り続けます」
学院騎士が一瞬だけ黙り、北の方角を記録担当者へ伝えた。
「救出を継続しろ」
「はい!」
黒い追跡経路が森の奥へ消えていく。
僕はそちらを見なかった。
「正面、最後です!」
セルフィナの声に集中する。
三度目の静けさへ、防壁を滑り込ませた。
黒い魔力が膜の外側へ押し出される。
「三本とも分離!」
「切る」
フィアの細剣が三度閃いた。
防壁の外へ出た黒い接続線だけが断たれる。
「こちらへ!」
レグルスの風が、精霊までの一本道を完成させる。
セルフィナが両手を広げた。
「もう大丈夫です。こちらへ来なさい」
黒い檻から、淡い青緑色の光が抜け出した。
セルフィナの胸元へ届く直前、清浄な風が精霊を柔らかく包む。
小さな風の繭が生まれた。
精霊の光は弱い。
黒い染みも僅かに残っている。
それでも、生きていた。
「ティアナ、杭を!」
「任せて」
ティアナが土を持ち上げ、黒い杭を箱のように包み込む。
学院騎士がさらに封印具を重ね、複数の認証を施した。
僕は防壁を消した。
右腕が重く、指先が震えている。
「通常魔力は二割ほどです。吐き気なし。空腹なし。左腕の痛みは三のままです」
「申告を確認する」
バルト先生が僕と風精霊を順番に検査した。
「暴食の使用なし。封魔具の作動なし。人間、魂、精霊、黒い汚染の吸収もない」
続いて風の繭へ検査具を近づける。
「精霊は生存。汚染源との分離にも成功している。ただし残留汚染がある。完全回復ではない。学院へ戻り、隔離観察を続ける」
セルフィナは風の繭を両手で抱えるように支えた。
その表情から張り詰めたものが僅かに消える。
けれど、彼女はすぐに僕を見た。
「なぜ追わなかったのですか」
「え?」
「あの黒い経路を辿れば、あなたを狙った者たちへ近づけたかもしれません」
セルフィナは腕の中の精霊へ目を落とす。
「あの子は、あなたの精霊ではありません。学院の命令だけなら、経路を失ってまで防壁を維持する必要もなかったはずです」
本当に分からないのだろう。
責めているわけでも、試しているわけでもない。
僕は少し考えた。
でも、答えは一つしかなかった。
「セルフィナの大事な精霊でしょ?」
風の繭の中で、小さな光が揺れる。
「理由なんて、それで充分じゃないかな」
セルフィナが黙った。
翡翠色の瞳が僅かに見開かれる。
記録板を持っていない方の手が、風の繭をそっと包み直した。
「あなたは……」
何かを言いかけて、止める。
いつものように観測結果を述べることも、事実として記録すると答えることもしなかった。
しばらく精霊を見つめたあと、セルフィナは小さく息を吐いた。
「人族は、時々ひどく非合理的です」
「そうかもしれない」
「まだ、あなたを全面的に信用したわけではありません」
「うん」
「ですが――」
セルフィナが僕を見る。
「……ありがとう、アルト」
緊急の呼びかけではない。
監視記録を読み上げる声でもない。
僕はただ頷いた。
風の繭の中から、淡い青緑色の光が僅かに身を起こす。
小さな風がセルフィナの腕を抜け、僕の右手の指先まで届いた。
暴食を宿す左手ではなく、精霊を守り続けた僕の右手へ、小さな風がそっと触れた。
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