第66話 森の誘拐者
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
ティアナが二度目の条件付き訓練を止めてから、四日が経った。
僕たちは学院外周結界の内側にある管理林へ来ていた。
今日の目的は、結界杭の状態と非常時の退避経路を確認することだ。
学院騎士とバルト先生が同行し、僕の移動経路は出発直前に知らされた。学院側の正式な許可を得た実習だが、暴食の使用許可は出ていない。
「予定外の戦闘は避けろ。異常を発見した場合は、調査より報告を優先する」
先頭を歩く学院騎士が告げた。
「特にアルト。右脚と左腕は完治していない」
バルト先生が僕を見る。
「はい。無理はしません」
「その言葉だけで安心できないことは、お前も知っているな?」
「異変があれば、感じた時点で申告します」
今度は迷わず答えた。
隣にいたティアナが、僕の横顔を確かめるように見てから頷いた。
僕の腰には学院支給の実習剣がある。刃は潰されているが、魔法の術式や捕縛道具を切る程度の強度はあった。
少し前を歩くセルフィナの周囲では、淡い青緑色の風精霊たちが木々の間を飛び回っている。
そのうち一体は、日々の監視で僕の左腕を巡っている小さな精霊だった。
精霊は僕の封魔具の周りを一周すると、先行する仲間を追って森の奥へ消えた。
「北側、異常ありません。南東の結界杭までは二百歩ほどです」
セルフィナが風精霊から受け取った情報を記録板へ書き込む。
「こちらの退避経路も問題ない」
レグルスが木々の間を抜ける風を確かめた。
実習は順調だった。
だからこそ、最初の異変は小さすぎた。
「……止まってください」
セルフィナが不意に足を止めた。
腰近くまで伸びた銀緑色の髪が、風もないのに揺れている。
「どうしたの?」
ティアナが尋ねる。
「北へ送った二体が、東から戻ると伝えています。ですが、東を確認していた一体も、北から戻ると」
「森で方角を見失ったのでは?」
レグルスの問いに、セルフィナは首を振った。
「風精霊が風向きを取り違えることはあります。しかし、三体が同時に互いの位置を入れ替えることはありません」
木の葉が、ざわりと鳴った。
その音は右から聞こえたのに、頬へ触れた風は左から吹いていた。
「全員、警戒態勢!」
学院騎士の声が飛ぶ。
直後、木々の隙間から小さな風精霊が現れた。
いつも僕の左腕を観測していた一体だ。
淡い青緑色だった身体の端に、墨を垂らしたような黒い染みが付着している。
飛び方が不規則だった。
こちらへ進んだかと思えば、見えない糸に引かれるように後ろへ戻る。
「近づいてはいけません!」
セルフィナが鋭く制した。
周囲にいた風精霊たちを、一斉に自分の背後へ退避させる。
「黒い魔力が、あの子の外側の風へ付着しています。接触すれば、ほかの精霊にも広がる可能性があります」
「解除できるか?」
「今は分かりません。観測網を切り離します」
セルフィナが細い指を閉じる。
周囲を満たしていた風の気配が、一気に小さくなった。
同時に、森の奥から黒い風が吹き出した。
視界が歪む。
数歩先にいた学院騎士とバルト先生の姿が、黒い霧の向こうへ霞んだ。
「位置は変えるな! 同じ区域内にいる!」
バルト先生の声が届く。
続いて、緊急警報の赤い光が木々の上へ打ち上がった。
成人監督者は動いている。増援も呼ばれた。
それでも、その短い隙を狙っていた者たちがいた。
木々の陰から、三つの人影が現れる。
灰色と黒の外套。
顔を覆う仮面には、七芒星へ冠を重ねた紋章が刻まれていた。
「星冠教団……!」
ティアナが僕の隣で息を呑む。
三人の教団員は武器を構えなかった。
代わりに、一人が両手を僕へ差し出す。
「主の器。お迎えに参りました」
「僕は器じゃない」
実習剣を抜く。
「王立学院の生徒、アルト・ロウェルだ」
「誤った名も、狭き檻も、間もなく不要となります」
教団員が指を曲げた。
木の枝に偽装されていた黒い帯が、一斉に僕へ襲いかかる。
「第一階位防壁!」
右手の前へ薄い膜を展開する。
防壁は最初の帯を弾いたが、二本目が表面へ食い込み、亀裂を走らせた。
完全には止められない。
僕は防壁の横を抜けた帯を実習剣で打ち払う。
「地面にも術式がある!」
ティアナが叫んだ。
足元に黒い線が浮かび、土そのものが森の奥へ滑り始める。
「動かさせない!」
ティアナが両手を地面へ当てた。
緑色の光が土へ走る。
周囲の樹木の根が地中で結ばれ、柔らかな土が一枚の岩盤のように固まった。
滑っていた地面が止まる。
右脚に痺れを抱えた僕の足元も、ティアナの魔法が支えてくれた。
「右後方に黒い魔力!」
索敵網を縮めたセルフィナが、自分の目で見えた範囲だけを伝える。
教団員の一人が、小さな黒い塊を放った。
魔力塊は術者の手を離れ、僕の前へ浮かぶ。
表面には星冠の紋が刻まれていた。
その瞬間、胃の奥が強く縮んだ。
食べ物だ。
黒い魔力が、ひどく甘い匂いを放っているように感じる。
『喰え』
頭の奥で、獣じみた声が響いた。
『口を開け』
「さあ、主の器。御力のままに」
教団員が囁く。
僕は左手を握り込んだ。
けれど、黙らなかった。
「黒い魔力が食べ物に見える!」
全員へ届くように声を張る。
「でも、暴食は開かない。こいつらは僕に使わせようとしている!」
「申告を確認した!」
ティアナが即座に返した。
「アルトは右手と剣だけに集中して!」
「分かった!」
あまりにも食べやすそうな魔力だった。
だから罠だ。
何が仕込まれているのか分からない。吸収した瞬間に何が起きるかも確認されていない。
星冠教団は僕を殺しに来たのではない。
暴食を開かせ、生きたまま連れ去るために来た。
黒い帯が足首へ巻き付いた。
「第一階位、摩擦軽減!」
帯の内側へ魔法を流す。
締め付けられる寸前、抵抗を失った帯が靴の表面を滑った。
抜けた足を固い地面へ戻す。
右脚の痺れで体勢が傾いたが、ティアナが固定した根が踵を受け止めた。
「アルトを運ぶ線は、あれ」
フィアが樹木の間へ目を向ける。
黒い導線が幹から幹へ張られ、その先だけ森の景色が細く歪んでいた。
用意されていた主脱出路だ。
「切る」
フィアの姿が低く沈む。
雷魔法は使わない。
最短の歩法だけで木々の間を抜け、細剣を三度走らせた。
黒い導線が次々と切断される。
歪んでいた森の道が閉じた。
「主経路、消失!」
「こちらへ退け!」
レグルスが銀槍を横へ払う。
放たれた風が、黒い霧と通常の空気を分けていく。
僕たちからバルト先生たちまで、一本の清浄な風の道が生まれた。
「退避路は確保した! ただし汚染された精霊は通すな!」
黒い捕縛帯が、セルフィナの背後から伸びる。
彼女はほかの風精霊を汚染から離すことに集中していて、反応が遅れていた。
「セルフィナ!」
右手で薄い防壁を展開する。
帯の軌道が僅かに逸れ、セルフィナの肩ではなく地面へ突き刺さった。
僕は実習剣へ軽量補助をかけ、帯を根元から断つ。
「なぜ私を――」
「目の前にいたから守っただけだ」
答えながら、地面へ打ち込まれた黒い杭へ剣を振り下ろす。
「第一階位、加重補助!」
一瞬だけ重くなった実習剣が、杭の中央を砕いた。
誘拐術式の黒い線が消える。
遠くから、学院警備の笛が聞こえた。
教団員たちは閉じた主脱出路を見て、同時に後退する。
「回収条件が失われました」
「器を傷つけるな。撤退する」
黒い粉が撒かれた。
レグルスの風でも押し返しきれない濁った幕が広がる。
「追うな!」
黒い霧の向こうから、バルト先生の声が飛んだ。
僕たちは命令に従った。
霧が晴れた時、三人の教団員は消えていた。
地面には複数の足跡が残っていたが、それぞれ別の方向へ分かれている。
誰も捕まえられなかった。
それでも、僕はここにいる。
人間の魔力も魂も喰っていない。
左腕の封魔具も作動していなかった。
「風精霊を戻します」
セルフィナが両手を広げる。
退避していた淡い青緑色の光が、彼女の周囲へ集まってきた。
一体、二体、三体。
けれど、足りない。
「……戻りなさい」
セルフィナが森の奥へ呼びかける。
黒く濁った木々の間で、弱い風が揺れた。
普段、僕の封魔具の周りを巡っていた小さな精霊だ。
黒い風の膜へ絡め取られ、羽ばたくように何度も身を震わせている。
「引き寄せられないの?」
僕が尋ねる。
「繋がったまま引けば、汚染がこちらの精霊へ広がります」
セルフィナは右手を上げた。
精霊と彼女を結んでいた細い風の道が見える。
それを切ろうとする指先が、僅かに震えていた。
「待って。ほかの方法が――」
「今ここで全員を汚染させる方が、あの子も望みません」
声は冷静だった。
けれど、いつもより少しだけ細い。
「……ごめんなさい。必ず迎えに戻ります」
セルフィナが指を閉じる。
細い風の道が途切れた。
森の奥で、小さな精霊が一度だけ明滅した。
僕は思わず一歩を踏み出した。
「アルト、今は追わないでください」
セルフィナが僕の袖を掴む。
「あの子の汚染と本体を、安全に分けられる保証がありません。あなたが暴食を開けば、あの子まで喰うかもしれない」
ミナから呪いを吸収できたのは、呪いが本人から安全に分離されていたからだ。
今の精霊は違う。
黒い汚染が身体を包み、境界すら見えない。
それに、教団は僕へ暴食を使わせようとしていた。
ここで開けば、それこそ敵の望みどおりになる。
「分かってる。勝手には使わない。無断で森へも戻らない」
握っていた左手を開く。
「でも、あの精霊を見捨てるつもりもない」
セルフィナの指が、僕の袖から離れた。
翡翠色の瞳は、まだ森の奥を見つめている。
「私も見捨てません」
彼女は小さく息を吸い、いつもの静かな声を取り戻した。
「学院へ戻って救出条件を作ります。救出案が成立した時は、あなたにも来てもらいます」
「うん」
バルト先生が僕の封魔具と魔力経路を確認する。
「暴食の使用なし。封魔具の作動なし。黒い魔力を食べ物と認識した時点で申告したことも記録する」
「はい」
「だが、今から戻ることは許可しない。精霊を救うためにも、まず汚染の性質を調べる」
僕たちは退避経路を通り、管理林を離れた。
最後まで、セルフィナは何度も振り返っていた。
星冠教団は僕を奪えなかった。けれど森の奥には、セルフィナの小さな風精霊が一体、黒く濁った風の檻に取り残されていた。
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