第65話 ティアナの境界線
レイシアとの魔法鏡通信から二日後。
僕たちは、学院内の試験区画へ集められた。
場所と時刻を知らされたのは、開始の一時間前だ。星冠教団へ情報が漏れる可能性を考え、参加者にも直前まで伏せられていた。
左腕には、三本の黒銀色の輪。
封魔具の下では、治りきっていない魔力経路が鈍く痛んでいる。
「本日の目的は、吸収量の増加ではない」
バルト先生が物理記録へ目を落とした。
「吸収後に生じる反動と、アルトが異変を申告するまでの時間を測る。対象は前回より低出力の魔力弾一つ。二回目は行わない」
学院側責任者と貴族院側確認者が、それぞれ許可書を示す。
成人監督者も二人いる。封魔具は外さず、作動基準も変更されていない。
「事前検査に異常なし。封魔具の作動履歴もない」
バルト先生が僕の左腕から検査具を離した。
「ただし、違和感があれば即座に申告しろ。軽い、重いはお前が決めることではない」
「はい」
返事をした僕を、ティアナがじっと見ていた。
「アルト」
「分かってる。隠さないよ」
「……うん」
ティアナは頷いた。
けれど、その目から警戒が消えることはなかった。
訓練用魔導具が、部屋の中央へ運び込まれる。
人間の魔力は使われていない。内部へ蓄えられた低出力の魔力を、一発だけ弾として放つ仕組みだ。
僕たちは定められた位置へ立った。
最初に動いたのはティアナだった。
「一拍、形を定める。二拍、境界を示す。三拍、これだけを選ぶ」
淡い緑色の光が、宙に浮かぶ小さな魔力弾を三度包む。
印が定着すると、フィアが指先を走らせた。
「発射元との接続を確認。切る」
細い接続線が途切れ、魔力弾が魔導具本体から完全に切り離される。
続いてレグルスが風を細く整えた。
「経路を固定する。枝道なし。対象からアルトまでの一本道だけだ」
最後にセルフィナの風精霊が広がった。
淡い青緑色の小さな光が、僕と他の参加者の間を巡る。人の身体から自然に漏れる微量な魔力だけを拾い上げ、捕食経路の外側へ運んでいく。
「体内魔力には触れていません。周辺の漏出分離、完了しました」
セルフィナの翡翠色の瞳が、僕の左腕へ向く。
「黒い魔力の流出なし。封魔具周辺の魔力圧も基準内です」
すべての準備が揃った。
学院側責任者が許可を読み上げ、続いて貴族院側確認者が承認する。
「アルト・ロウェル。条件付き使用を許可する。使用時間は一呼吸。対象は印付き魔力弾一つに限定せよ」
「はい」
息を吐く。
左腕の奥へ意識を落とした。
黒い紋章が、皮膚の下で脈打つ。
暴食を開く。
世界が一瞬だけ、空腹の形へ塗り替えられた。
緑の印が付いた魔力弾だけを選ぶ。
細い一本道の先から、低出力の魔力が左腕へ吸い込まれた。
それ以外は喰わない。
人間も、魂も、周囲へ散った微量魔力も。
一つだけ。
一呼吸だけ。
魔力弾が消えた瞬間、僕は暴食を閉じた。
「閉鎖を確認しました」
セルフィナの声が飛ぶ。
「黒い魔力は人間へ向かっていません。封魔具も作動していません」
僕は握っていた左手を開いた。
痺れるような熱はあったが、封魔具の逆流ではない。いつもの炎症に近い痛みだ。
「反動は?」
バルト先生に問われ、腹の奥を確かめる。
「少し空腹です。ほかはありません」
「記録。経過観察を開始する」
壁際の砂時計が返された。
三分間。
ただ立ち、反動が遅れて現れないか確かめるための時間だ。
最初の一分は、本当に軽い空腹だけだった。
二分目に入ったところで、胃の奥が急に縮んだ。
吐き気が喉まで上がる。
額へ冷たい汗が浮かび、封魔具の下で左腕の痛みが一段強くなった。
呼吸が浅い。
それでも、暴食は閉じている。
黒い魔力も出ていない。
「アルト、変化は?」
成人監督者に問われた。
「大丈夫です。少し空腹なだけで――」
言いながら、僕は視線を床へ落とした。
ティアナたちを見たくなかった。
空気に漏れている魔力が、食べ物に近いものへ変わり始めていたからだ。
まだ捕食対象ではない。
けれど、意識を向ければ、誰の身体のどこを魔力が巡っているのか考えてしまいそうだった。
左手を強く握り込む。
訓練を止められたくない。
反動が強いと知られれば、次は許可されないかもしれない。
管理不能と記録されるかもしれない。
「訓練中止」
ティアナの声が、砂時計の落ちる音を断ち切った。
彼女が床へ片手を当てる。
細い緑の芽が石床の継ぎ目から伸び、僕を中心とした円を描いた。
「みんな、その線より下がって」
拘束ではない。
僕へ植物が巻き付くこともない。
ただ、近づいてはいけない範囲を示す境界線だった。
フィアとレグルスが、すぐに一歩下がる。
セルフィナは複数の風精霊を広げ、周辺から漏れる微量魔力をさらに遠くへ運んだ。
「黒い魔力の流出はありません」
セルフィナが告げる。
「封魔具も作動していません。ただし、精霊は本人が何を食べ物として感じているかまでは読めません」
ティアナは境界線の外から僕を見た。
「アルト。今、私たちの魔力が食べ物に感じてる?」
「それは……」
「大丈夫って答える前に、本当のことを言って」
返事が詰まった。
ティアナの目は逸れない。
暴食の眷属との戦いでも、彼女は僕の左手が自分へ向いた瞬間に逃げなかった。
でも今は、無条件に近づいてもこない。
その距離が、僕に事実を言わせた。
「感じ始めてる。まだ喰いたいとまでは思ってない。でも、みんなの体内魔力の位置を意識しそうになる」
「吐き気は?」
「ある」
「左腕は?」
「さっきより痛い。冷や汗も出てる」
バルト先生が即座に砂時計を止めた。
「訓練は完全中止。アルトはその場で座れ。境界線は検査終了まで維持する」
僕は指示に従い、床へ腰を下ろした。
検査具が成人監督者の手で境界線の内側へ置かれる。僕が自分で左腕へ当て、測定値だけを外へ読み上げた。
暴食は閉鎖済み。
黒い魔力の流出なし。
人間の魔力移動なし。
封魔具の作動なし。
数値が揃ってから、バルト先生が静かに言った。
「今回は、質問された時点で申告したため、故意の隠蔽成立とはしない」
胸の奥に、わずかな安堵が生まれる。
けれど、続く言葉は重かった。
「だが、報告が遅れた事実は残す。次に同じことをすれば、処刑猶予を失う条件になり得る」
「……はい」
「大丈夫という言葉は、検査結果の代わりにはならない」
僕は俯いた。
「申告が遅れたことを認めます」
レグルスが腕を組む。
「魔力弾の吸収だけなら成功です。しかし、今回の目的は反動と申告速度の記録だった。後半は失敗と考えるべきでしょう」
「そうね」
フィアも僕を庇わなかった。
「次は、ティアナが気づく前に自分で言って」
「うん」
セルフィナは記録板へ筆を走らせた。
「ティアナの中止判断は妥当です。行動変化による早期発見として記録します」
緑の境界線が消されたのは、通常魔力の流れが基準近くまで戻ってからだった。
安全確認を終えた僕は、試験区画に隣接する休憩区画へ移された。
椅子へ座ると、汗で訓練着の襟が首へ張り付いていることに気づく。
息苦しくて、右手で留め具を一つ外した。
「まだ気持ち悪い?」
冷たい布を持ったティアナが、正面へ立つ。
「少しだけ。布は自分で――」
「動くとまた汗が出るよ。今だけ」
額へ冷たい布が触れた。
熱を持った肌に心地よくて、思わず目を閉じる。
ティアナの指が布越しにこめかみをなぞり、そのまま首元の汗をそっと拭った。
緩めた襟の隙間へ冷たい空気が入り、ようやく呼吸が深くなる。
「もう平気。ありがとう」
布を受け取ろうと伸ばした指が、ティアナの指先へ触れた。
「あっ」
「ごめん」
二人同時に手を引く。
妙に意識してしまった空気を逃がそうと、僕は立ち上がった。
その瞬間、足元が揺れた。
「アルト!」
ティアナの両手が僕の肩と背中を支える。
踏みとどまった時には、互いの顔がすぐ近くにあった。
額が触れそうだった。
吐息が頬へ届く。
ティアナの薄茶色の瞳が大きく見開かれ、頬が一気に赤くなる。
たぶん、僕も同じ顔をしていた。
「ち、近いね」
「アルトが急に立つからでしょ」
「ごめん」
「謝る前に座って」
ティアナは顔を赤くしたまま、僕を椅子へ戻した。
支える手はすぐに離れる。
けれど、彼女は僕の前から立ち去らなかった。
「アルト。どうして隠そうとしたの?」
僕は膝の上で右手を握った。
「訓練を止められるのが怖かった。反動が強いと、管理不能だと思われる気がしたんだ」
「それだけ?」
「みんなの心配も増やしたくなかった。大丈夫って言えば、続けられると思った」
ティアナは冷たい布を畳んだ。
「隠す方が、管理不能だと思われるよ」
「……うん」
「心配させないための嘘は、私たちから止める機会を奪うの」
静かな声だった。
責めるだけの言葉ではない。
「支えることと、何でも許すことは違う。アルトが危険を隠したら、私は最初に止める」
ティアナは僕の目をまっすぐ見た。
「庇うために嘘をついたり、記録を曲げたりはしない。私はアルトの保護者じゃない。隣に立つ相棒だから」
その言葉は厳しい。
でも、僕を遠ざける響きではなかった。
「私を隣に置くなら、本当のことを言って。止める時は止める。でも、安全になったらまた一緒に進むから」
「次からは、感じた時点で話す」
僕は答えた。
「ティアナが最初に止めて」
「頼まれなくても止める」
ティアナの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「その代わり、戻ってきたらまた隣に立つ」
休憩を終えたあと、僕は訂正された訓練記録へ自分で署名した。
吸収成功。
遅れて強まった反動。
人間の体内魔力を食べ物に近く感じ始めたこと。
申告が遅れ、ティアナの中止判断によって発覚したこと。
どれも省かず書かれている。
ティアナは僕の代わりに説明せず、署名もしなかった。ただ僕が最後まで書き終えるのを、隣で待っていた。
部屋を出る前、彼女は僕が一人で歩けるか確かめた。
右脚に痺れは残っていたが、支えは必要ない。
だからティアナは手を伸ばさなかった。
僕たちは肩を並べ、同じ速さで廊下を歩いた。
ティアナが引いた境界線は、僕を遠ざけるためではない。対等な相棒として、隣に立ち続けるための線だった。
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