第64話 届く鏡、遠い背中
条件付き暴食訓練が成功して三日後。
学院とレイシアの所属先から、一度限りの魔法鏡通信が許可された。
与えられた時間は十分。
接続先の場所は非公開。
通信が終われば、使われた経路そのものが閉鎖される。
外部通信を遮断した通信室には、僕のほかにティアナ、フィア、セルフィナ、成人監督者、通信担当者が集まっていた。
バルト先生も、僕の治療記録を持って立ち会っている。
「緊張してる?」
隣に立つティアナが、小声で尋ねた。
「少し」
「少し、ですか」
セルフィナの風精霊が、僕の左腕を一周する。
「通常時より魔力循環が速くなっています」
「鏡を繋ぐ前から全部記録するんだね」
「あなたの緊張が暴食へ影響しない保証はありません」
セルフィナは記録板へ視線を落とした。
黒い紋章からの流出なし。
封魔具の作動なし。
魔法鏡への外部干渉もない。
通信担当者が二つの認証具を鏡の左右へ差し込んだ。
銀色の鏡面へ淡い波紋が広がる。
最初に映ったのは、石造りの室内だった。
正確な場所を特定できるものは、全て布で隠されている。
任務用の外套を纏ったレイシアが、鏡の正面へ立っていた。
その背後には、名前を知らされていない任務関係者が二人いる。
「接続を確認いたしました」
レイシアは胸元へ手を添え、穏やかに一礼した。
疲れているはずなのに、その顔には柔らかな微笑みが浮かんでいる。
「限られた時間の中、通信許可をいただいたことへ感謝いたします」
声にも焦りはなかった。
学院の通信担当者が、任務状況の報告を求める。
「任務区域の住民避難は完了しております。負傷者の治療も進んでおりますので、現時点で急変の懸念はありません」
一つ一つ、聞く者を安心させるように答えていく。
「ただし、任務そのものは継続中です。現時点で私が任務を離れることはできません」
鏡の奥を通りかかった負傷者へも、レイシアは優しく声をかけた。
「慌てなくて大丈夫です。治療担当者が参りますから、そちらでお待ちください」
相手が頭を下げると、レイシアも微笑んで応じる。
誰に対しても平等で、穏やかで、隙がない。
水蝶の騎士として振る舞う彼女は、まるで物語に描かれる聖女のようだった。
僕の知っているレイシアも、確かに優しい。
けれど、あんなふうに感情を一つもこぼさない少女ではなかった。
「学院側からの正式確認は以上です」
通信担当者が僕を見た。
「残り八分。アルト・ロウェル、前へ」
「はい」
僕は鏡の正面へ進んだ。
レイシアの視線が僕を捉える。
穏やかな微笑みが止まった。
目が大きく見開かれる。
次の瞬間、レイシアは鏡面へ顔を近づけた。
「アルトの馬鹿!」
通信室だけでなく、鏡の向こうにいた任務関係者まで固まった。
「えっと、レイシア」
「処刑されかけたって、どういうこと!?」
先ほどまでの落ち着いた声は、どこにもなかった。
「どうして私に知らせなかったの! 暴食って何!? 魔神と契約してたって本当!? 人を喰ってないの!? 封魔具を付けられたって、左腕は無事なの!?」
「順番に話すから」
「順番に話している間に処刑されたらどうするの!」
目には涙が浮かび、頬は僅かに膨らんでいる。
幼い頃、僕が危険な場所へ一人で入った時と同じ顔だった。
「即時処刑の審議は凍結されてる。今すぐ処刑される状態じゃない」
「今すぐじゃなければいいと思ってるの!?」
「思ってないよ」
「だったら先に左腕を見せて。今すぐ!」
僕は制服の左袖を肘近くまで上げた。
黒銀色の三本の輪が露わになる。
その下には、まだ黒い紋章が残っている。
鏡越しに封魔具を見た瞬間、レイシアから怒りが消えた。
代わりに、その顔へ隠しきれない不安が広がる。
レイシアは鏡へ右手を伸ばした。
指先が、銀色の面へ触れる。
けれど、その手が僕の左腕へ届くことはない。
「これが……暴食を使えば、アルトの魔力経路を焼くもの?」
「黒い魔力が一定量を超えたらね。まだ一度も作動してない」
「暴食を完全に封じているわけではないのよね」
「うん」
「作動した時、必ず止められる保証もない」
「ない」
レイシアは唇を噛んだ。
僕が安心させる嘘をつかないと分かっているからこそ、その表情はさらに苦しそうになった。
「正式な検査記録を、私の所属先にも送って。任務上の権限で閲覧できるよう申請する」
声には騎士としての冷静さが少し戻っていた。
「感情だけで外せとは言わない。でも、不完全な道具を付けたまま、アルト一人に責任を負わせることも認めない」
「学院長が監督責任を負ってくれてる。僕は学院預かりになった」
「無罪になったわけではないのでしょう?」
「処刑案は残ってる。条件に違反すれば、移送か処刑審議へ進む」
レイシアの眉が寄った。
「単独行動も禁止?」
「禁止。学院の外へ勝手に出ることもできない」
「星冠教団に狙われているのに?」
「だから監視経路も毎日変えてる」
「人の魔力は?」
「喰ってない」
僕はレイシアの目を見て答えた。
「魂も、人間の体内魔力も、一度も喰ってない。ティアナ、フィア、レグルス、セルフィナの魔力も喰ってない」
レイシアの視線が僕の後ろへ動く。
ティアナとフィアは黙って頷いた。
セルフィナも事実だけを告げる。
「精霊の観測記録でも、人間からアルトへ向かう魔力移動は確認されていません」
「条件付き訓練では、小さな魔力弾を一つだけ吸収した」
僕は続けた。
「ティアナが印を付けて、フィアが接続線を切って、レグルスが一本道を作った。セルフィナが周囲から漏れた魔力を遠ざけてくれた」
「アルト一人で成功したのではないのね」
「一人じゃ再現できない」
「完全制御でもない」
「うん」
レイシアは一度、目を閉じた。
安心したのではない。
危険性と事実を、頭の中で分けているのだろう。
やがて目を開くと、突然背後を振り返った。
「任務の引き継ぎをお願いします。私、今から学院へ戻ります」
鏡の向こうの任務関係者が息を呑む。
「レイシア」
「何?」
「戻れないって、さっき自分で言ってたよ」
「でも、アルトが処刑されかけてる」
「今すぐじゃない」
「さっき、その言い方は駄目だって言った!」
また頬が膨らむ。
僕は思わず、少しだけ笑ってしまった。
「笑わないで!」
「ごめん。でも、変わってないなと思って」
「アルトが変わらなさすぎるの! 昔から危ないことを後で話して、最後に大丈夫だったって笑う!」
「今回は大丈夫だとは言ってないよ」
「それはそれで心配なの!」
レイシアは鏡の前で拳を握った。
「分かってる。任務地にも、私が守らなきゃいけない人がいる。途中で投げ出せないことくらい、分かってる」
声が小さくなる。
「分かってるけど、嫌なの」
その一言だけは、水蝶の騎士ではなく、幼い頃から僕を知る少女のものだった。
「アルトが処刑されかけているのに、遠くで待っているなんて納得してない」
「レイシア」
「何よ」
「僕は閉じ込められているだけじゃない」
僕は袖を戻し、封魔具を隠した。
「学院へ残ると決めたのは僕だよ」
レイシアの目が細くなる。
僕が嘘をついていないか、探る時の目だ。
「暴食の危険を減らしたい。強制的に開かれても、人を喰わずに止められるようになりたい」
「……それで?」
「剣の訓練も再開した。まだ木剣を数回振るだけだけど」
「右脚は」
「痺れが残ってる。左腕も完全には治ってない」
「また無理してない?」
レイシアの視線が僕の右眉へ向いた。
幼い頃から、嘘や無理を隠そうとすると、僕の右眉が僅かに上がるらしい。
自分では今もよく分からない。
「誰かに残れと言われたからじゃない。騎士を諦めたくないから、僕は学院へ残るんだ」
しばらく、レイシアは僕の顔を見つめていた。
「右眉、上がってない」
「確認するところ、そこなんだ」
「アルトの言葉だけを信じたら、何回騙されるか分からないもの」
「そんなに騙した覚えはないよ」
「七歳の時に、川へ落ちたことを三日も隠した」
「ずいぶん前だね」
「九歳の時は足を捻ったまま走った」
「よく覚えてるね」
「アルトの馬鹿な行動は全部覚えてる!」
胸を張って言うことではない気もする。
けれど、レイシアの目から迷いが少しだけ消えた。
「分かった。学院へ残るのがアルトの選択なら、今は止めない」
「ありがとう」
「納得したとは言ってないからね」
「うん」
「処刑案が残っていることも、封魔具が不完全なことも、星冠教団に狙われていることも、全部心配してる」
「それも分かってる」
「重大なことを一人で抱え込まないで。次は必ず知らせて」
「正式な通信許可を申請する」
「却下されたら?」
「もう一度申請する」
「三回却下されたら?」
「四回目を申請するよ」
「約束だからね」
レイシアは右手を鏡へ当てた。
僕も右手を上げ、その位置へ重ねる。
冷たい鏡面が掌へ触れる。
映像の中では、二人の手が重なって見えた。
けれど、温度は届かない。
「残り一分です」
通信担当者が告げた。
鏡の向こうからも、任務関係者の声がする。
「レイシア、戻る時間です」
「……はい」
不満そうに返事をしたあと、レイシアは一度だけ僕を見た。
そして鏡から手を離す。
次に任務関係者へ向き直った時には、頬の膨らみも、怒った声も消えていた。
「お待たせしました。すぐに参ります」
穏やかな微笑み。
落ち着いた声。
目元に僅かな涙の名残がなければ、先ほどまで子供のように怒っていたとは思えない。
レイシアは最後に僕だけへ視線を戻した。
「絶対に死なないで」
「生きるために、ここへ残るんだ」
レイシアは小さく頷き、鏡へ背を向けた。
銀色の映像が揺らぎ始める。
「通信終了。外部干渉なし」
セルフィナが風精霊の記録を確認した。
鏡面が暗くなると、通信室へ静けさが戻った。
ティアナが僕の横顔を見ている。
「アルト、あんな顔もするんだね」
「どんな顔?」
「少し子供っぽい顔。私たちの知らない人みたいだった」
寂しそうに聞こえたが、責める声ではなかった。
「でも、昔から心配してくれる人と話せてよかった」
フィアは暗くなった鏡を見つめたまま言う。
「彼女が怒るのは当然。遠くにいたから、何もできなかった」
右手の傷の名残へ、左手を重ねる。
「私たちは近くにいた。次は、処刑審議まで進む前に止める」
セルフィナは最後の記録を書き終えた。
「通信中、黒い魔力の変化はありませんでした。通常魔力の緊張は、会話が始まってから低下しています」
「怒鳴られたのに?」
「あなたにも、監視では落ち着かない相手がいるのですね」
セルフィナはそれ以上踏み込まず、風精霊に鏡の残留魔力を調べさせた。
声は届いた。繋がりも戻った。それでも、聖女の顔を取り戻して任務へ戻るレイシアの背中は、鏡の向こうでまだ遠かった。
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