第63話 喰わせない訓練
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
木剣の基礎訓練を再開して二日後。
昼の授業が終わると同時に、僕たち五人へ封をされた紙が渡された。
条件付き暴食訓練。
開始は一時間後。
場所は学院内部の試験区画。
その二つ以外、紙には何も記されていなかった。
「私たちにも、今まで場所を知らせなかったんだね」
ティアナが周囲を見回しながら言った。
「内部から情報が漏れている可能性がある以上、当然の措置です」
セルフィナが淡々と答える。
淡い銀緑色の髪の周囲を、三体の風精霊が漂っていた。
「参加者全員が直前まで知らなければ、漏れる経路も減らせます」
「理屈は分かる」
フィアが短く頷く。
「移動経路も別々だった。僕たちを一か所へ集める時刻まで伏せていたようだな」
レグルスは封の切られた紙を折り畳んだ。
五人で扉をくぐると、外部通信を遮断された試験室が広がっていた。
壁も床も灰白色の耐魔素材で覆われている。
中央には小型の訓練用魔導具。
その周囲には間隔を空けて五つの立ち位置が示されていた。
バルト先生、成人監督者、学院側の責任者、貴族院側の確認者が既に待っている。
ローデンも記録机の前へ座っていた。
机上にあるのは、通信機能を持たない紙の記録簿だけだ。
「全員揃ったな」
バルト先生が僕たちを見渡した。
「始める前に、目的を確認する」
訓練用魔導具の先端には、親指の先ほどの小さな発射口がある。
今日の捕食対象は、そこから撃ち出される低出力の魔力弾一つだけだった。
「今日は喰う量を増やす訓練ではない」
バルト先生は僕の左腕を見た。
「何を喰わせないかを確認する訓練だ」
人間を喰わせない。
魂を喰わせない。
人間の体内魔力を喰わせない。
発射元の魔導具さえ喰わせない。
本体から切り離され、三拍の印を付けられた一つだけを、暴食へ与える。
「黒い魔力が封魔具の作動基準へ近づいた時点で中止する。異変を感じた者は、役割に関係なく申告しろ」
「二回目はあるんですか?」
僕が尋ねると、バルト先生は首を横へ振った。
「ない。成功しても失敗しても、本日は一回だけだ」
失敗したら。
その言葉を考えた瞬間、左手の指が僅かに震えた。
黒銀色の封魔具はまだ冷たい。
暴食を開いていないのだから、当然だ。
「左腕を出してください」
セルフィナが僕の正面へ立った。
淡い青緑色の風精霊が、袖口から入って封魔具の周囲を巡る。
一体は手首。
一体は肘。
もう一体は胸元まで上がり、通常魔力の流れを確かめた。
「黒い紋章からの流出なし。封魔具周辺の魔力圧、基準値内。左腕の温度上昇なし」
そこまで読み上げたセルフィナが、僕の左手へ目を落とした。
「震えています」
「少しだけだよ」
「怖いのですか」
試すような口調ではなかった。
記録へ必要な事実を尋ねる時と同じ、真っ直ぐな声だった。
僕は一度、息を吐いた。
「怖いよ」
暴食の眷属との戦いで、自分の意思だけでは閉じられなかった。
ティアナへ左手を伸ばしかけた感触は、今も忘れていない。
今回は安全条件がある。
それでも、絶対という言葉はどこにもなかった。
「また閉じられなくなったらって、考えてる」
セルフィナは慰めなかった。
代わりに、翡翠色の瞳で僕の呼吸を見ていた。
「なら、怖くなくなったふりをしないでください」
「え?」
「異変を隠される方が、監視役として困ります。震えも、空腹も、視界の変化も、全て口にしてください」
「分かった」
「返事だけで終わらせないでください」
やはり厳しい。
けれど、怖がること自体を責められなかったのは、少しだけ助かった。
僕たちは床へ示された位置についた。
正面に訓練用魔導具。
その右側にティアナ。
左側にフィア。
僕までの直線を見渡せる位置にレグルス。
セルフィナは僕と他の参加者の間を移動できる外周へ立つ。
「手順を確認するよ」
ティアナが右手を上げた。
「私が魔力弾へ三拍の印を付ける。捕食対象は、その印がある一つだけ」
「次に私が発射元との接続線を切る」
フィアの手は細剣の柄へ添えられている。
「僕が切り離された魔力弾からアルトまでの経路を一本へ絞る」
レグルスの周囲に、ごく弱い風が集まった。
最後にセルフィナが、四人を囲むように風精霊を配置する。
「精霊が運ぶのは、人間の身体から自然に漏れている微量魔力だけです。体内魔力や魂には触れません」
「漏れた分を、僕から遠ざけるんだね」
「正確には、捕食経路の外側へ流します。アルトへ向かう魔力が一つだけになるよう、周辺を空けます」
四人の役割は似ていない。
誰か一人の代わりを、別の誰かが務めることもできない。
僕は左腕を前へ出した。
封魔具の三本の輪が、照明を鈍く反射する。
学院側責任者が承認書へ印を押した。
続いて、貴族院側の確認者も印を重ねる。
「学院側、使用を承認」
「貴族院側、規定内の使用を承認」
成人監督者が中止用の魔導具へ手を置いた。
バルト先生が僕の目を見る。
「アルト。開始できるか」
怖い。
それを隠さず、僕は頷いた。
「できます」
訓練用魔導具が低い音を立てる。
発射口に淡い魔力光が集まり、小さな弾となって射出された。
速くはない。
人間へ直撃しても、重大な傷にはならない程度の低出力だ。
魔力弾の後方には、発射元へ繋がる細い光の線が残っている。
ティアナが三本の指を立てた。
一拍。
魔力弾の表面へ、小さな土色の点が灯る。
二拍。
点が輪となって弾を囲む。
三拍。
輪の中央に、捕食対象を示す印が定着した。
「印、完了!」
同時に、フィアの細剣が鞘から走った。
斬ったのは魔力弾ではない。
発射元との間に残っていた、細い接続線だけ。
光の糸が途切れる。
「本体からの分離を確認」
フィアが刃を止める。
レグルスが右手を前へ出した。
左右へ散ろうとする空気が集まり、魔力弾と僕の左腕を結ぶ細い道になる。
「経路を一本へ固定した。外へ逸れる流れはない」
セルフィナの風精霊たちが一斉に動いた。
ティアナたちの身体から自然に漏れる微量魔力が、薄い風に押されて外周へ流れていく。
誰かの体内から魔力を抜いているわけではない。
既に外へ漏れたものを、僕の前から遠ざけているだけだ。
魔力弾だけが、一本道の先に残った。
「周辺分離、完了」
セルフィナの声が届く。
「対象以外からアルトへ向かう流れはありません」
バルト先生が告げた。
「一呼吸だけだ。開始」
僕は息を吸った。
左腕の黒い紋章へ意識を向ける。
――開け。
冷たかった封魔具が、僅かに熱を持った。
逆流はない。
焼ける痛みもない。
その下で、黒い紋章だけが目を覚ます。
視界から色が薄れた。
魔力弾へ付けられた三拍の印が、暗闇の中で一つだけ浮かび上がる。
喰える。
いや、喰うのはあれだけだ。
ティアナは対象ではない。
フィアも違う。
レグルスも、セルフィナも、周囲の大人たちも違う。
人間の中にあるものへは、向けない。
印。
切断。
一本道。
風精霊が作った空白。
四つの条件を一つずつ捉え直す。
黒い紋章から細い引力が生まれた。
魔力弾が一本道を進み、左腕へ吸い込まれる。
音もなく消えた。
増えた力はない。
新しい属性も、能力もない。
ただ喉の奥へ、急な空腹だけが落ちてきた。
『足りぬ』
獣じみた声が頭蓋の内側を震わせる。
『もっと喰え』
魔力弾はもうない。
けれど、暴食の口はまだ開いている。
風の外側に、いくつもの温かな気配がある。
人間の魔力。
食べ物として形を持つ直前の、曖昧な熱。
違う。
あれは喰わない。
閉じなければ。
分かっているのに、左手の指が僅かに動いた。
息が喉で止まる。
その瞬間、風精霊が一体だけ大きく揺れた。
「アルト、閉じてください!」
鋭い声が、意識を貫いた。
セルフィナ。
今、初めて僕の名前を呼んだ。
ティアナが印を消す。
フィアが残った魔力線がないことを確かめる。
レグルスが一本道を崩す。
セルフィナの風が、人間から漏れた微量魔力をさらに遠ざける。
一つの声だけではない。
四人の役割が同時に、暴食から次の獲物を消していく。
僕は左手を握り込んだ。
「閉じる!」
吸った息を吐き切る前に、黒い紋章への意識を断つ。
色が戻った。
封魔具の熱が下がっていく。
逆流は起きていない。
僕は膝へ右手をついた。
胃が空になったような飢え。
額から流れる冷や汗。
左腕の奥に残る鈍い痛み。
「空腹があります。冷や汗と、左腕の痛みも少し。人の魔力が……食べ物に見えそうになりました。でも、捕食対象には入れていません」
隠さず、感じた順に告げる。
バルト先生がすぐに左腕へ検査具を当てた。
「封魔具の作動履歴なし。魔力経路への逆流なし。新しい損傷もない」
セルフィナの風精霊が、室内を何度も巡る。
彼女は記録板を抱えたまま、一項目ずつ確認した。
「吸収されたのは印付きの魔力弾一つだけです。ティアナ、フィア、レグルス、私、立会人全員の体内魔力に欠損なし。人間からアルトへ向かった流れもありません」
そこで、ほんの短く息を吐いた。
表情は変わらない。
けれど、記録板の縁を握る指には、白くなるほど力が入っていた。
「条件付き訓練は成功と記録する」
ローデンが告げた。
「ただし、確認できたのは管理された室内で、小さな魔力弾一つを、一呼吸だけ吸収できたことです」
ペン先が紙を滑る。
「ティアナの印、フィアの切断、レグルスの経路、セルフィナの周辺分離。その全てが機能していました。アルト・ロウェル一人で再現できる証拠ではありません」
「一人でも欠けたら、同じ結果になる保証はない」
レグルスも認める。
「実戦なら、魔力弾も相手も止まってはいない」
フィアが細剣を鞘へ戻した。
ティアナは僕の左手を見つめたまま言う。
「成功したからって、次から簡単になるわけじゃないね」
「うん。僕一人でできたとは思わない」
今日は一つだけ喰えた。
それより大切なのは、それ以外を喰わずに済んだことだ。
再試行は行われなかった。
記録確認を終え、立会人たちが順に退室していく。
ティアナ、フィア、レグルスも別室での確認へ呼ばれた。
それでも、セルフィナだけは僕の前へ残っていた。
風精霊はまだ左腕を巡っている。
「もう吸収の記録は終わったんじゃないの?」
「使用後の通常魔力が基準値へ戻るまで確認して、初めて記録は完成します」
「任務だから?」
「それ以外に何があるのですか」
いつもの冷静な返事だった。
けれど、筆を持つ指先はまだ僅かに強張っている。
僕は少し迷ってから尋ねた。
「さっき、僕の名前を呼んだよね」
セルフィナの筆が一瞬だけ止まった。
「中止指示を明確に伝えただけです」
「いつもは、あなたって呼ぶのに」
「訓練後の余計な会話は、回復を遅らせます」
答えになっていない。
けれど、それ以上聞くと、本当に風で口を塞がれそうだった。
やがて一体の精霊が、セルフィナの肩へ戻った。
「通常魔力、基準値へ復帰。黒い紋章からの流出なし」
彼女は最後の一行を書き終える。
「次回も私が観測します。今日成功したからといって、監視条件を軽くできるとは思わないでください」
「分かってる。ありがとう、セルフィナ」
「感謝は不要です。私はまだ、あなたを信用したわけではありません」
そう言いながら、彼女は僕が立ち上がるまで風精霊を戻さなかった。
一人では再現できない。それでも四人が『喰わせないもの』を守り、セルフィナが初めて僕の名を呼んだ一呼吸だけ、暴食は小さな魔力弾一つで口を閉じた。
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