第62話 騎士を諦めない者
セルフィナによる昼間の監視が始まって数日後、僕は成人監督者とともに、医務室前でその日の経路を受け取った。
行き先は低負荷訓練区画。
昨日とは違い、今日は東側の講義棟を抜け、資料保管室の前を通るらしい。
「遠回りですね」
銀緑色の髪を揺らしながら、セルフィナが経路表を覗き込む。
「セルフィナも今知ったの?」
「当然です。私が事前に知っていては、経路を限定した意味がありません」
僕たちの前を成人監督者が歩く。
セルフィナの風精霊は一定の距離を保ち、僕の左腕を巡っていた。
今日も黒い紋章からの流出はない。
封魔具の作動履歴もない。
それでも、監視がなくなるわけではなかった。
低負荷訓練区画へ入ると、乾いた木剣の音が聞こえた。
けれど、それは力強い打ち合いではない。
一本ずつ、確かめるような遅い素振りの音だった。
「……ミナ?」
軽い木剣を握っていた少女が、ゆっくりと振り返る。
頬にはまだ療養の名残があり、以前より少し痩せて見えた。
それでも、その目はしっかりと僕を捉えている。
「アルト先輩」
ミナは木剣を下ろし、小さく頭を下げた。
「今日から、訓練へ戻れることになりました」
「もう身体は大丈夫なの?」
「大丈夫とは言い切れません。歩行と基礎だけです」
その答えを補うように、バルト先生が僕たちの方へ来た。
「ミナの意識、記憶、人格、魔力循環に異常はない。だが、魂蝕によって削られた体力まですぐに戻るわけではない」
バルト先生は手元の治療記録を開いた。
「魔力量も属性適性も以前と同じだ。魂蝕に由来する能力も、新しい力も確認されていない」
ミナは黙って聞いたあと、静かに頷いた。
「はい。それで構いません」
迷いのない返事だった。
呪いを受け、生死の境をさまよった。
そこから助かれば、何か特別な力が目覚めてもおかしくない――そんな物語を、誰かなら期待したかもしれない。
けれど、ミナには何も増えていない。
以前と同じ魔力。
以前と同じ属性。
失った体力だけが、まだ戻りきっていない。
それでも彼女は訓練着を着て、木剣を握っていた。
「続けるぞ。ただし五回までだ。呼吸が乱れたら、回数が残っていても止めろ」
「分かりました」
ミナは足を肩幅へ開いた。
両手で軽い木剣を持ち上げ、ゆっくり振り下ろす。
一回。
二回。
三回目には、もう肩が震えていた。
四回目。
木剣の先が地面へ触れそうになる。
「……止めます」
五回目を残し、ミナは自分から木剣を下ろした。
呼吸を整えながら、訓練区画の端にある長椅子へ座る。
「悔しくない?」
僕が尋ねると、ミナは荒い息の合間に答えた。
「悔しいです。でも、倒れるまで続けたら、明日の訓練ができなくなりますから」
無理をしない。
異変を隠さない。
それは今の僕にも課せられている決まりだった。
訓練区画の反対側では、別の訓練生たちが歩行用の目印を片付けていた。
そのうちの一人が足をもつれさせ、抱えていた木製の目印を落とす。
乾いた音を立て、いくつもの目印が床へ転がった。
ミナは長椅子から立ち上がった。
まだ呼吸も整いきっていないのに、近くへ転がってきた目印を拾い始める。
「無理しなくていいよ。僕が拾う」
「これくらいならできます」
彼女は三本だけ拾い、訓練生へ渡した。
「ありがとうございます」
「次は一度に持ちすぎない方がいいですよ」
それだけ言って、ミナは再び長椅子へ戻った。
魔法は使っていない。
特別な力もない。
自分も治療を終えたばかりなのに、手が届く範囲のものを拾っただけだ。
けれど、その姿が僕の目に残った。
「ミナは、まだ騎士を目指してるんだね」
「はい。騎士試験を受けます」
「身体が戻らなかったら、前より難しくなるかもしれない」
「分かっています。受けられるところまで戻れる保証もありません」
ミナは膝の上へ置いた自分の手を見た。
「でも、受けないと決める理由にはなりません」
僕は左腕へ目を落とした。
制服の袖の下には黒い紋章があり、その上には封魔具が嵌まっている。
ミナは何も得なかった。
それでも騎士を目指している。
僕は暴食という力を持った。
貴族院は、それが国家の戦力になり得るかを測ろうとしている。
星冠教団は僕を一人の人間ではなく、「主の器」と呼んでいる。
どちらも見ているのは、僕の左腕だった。
僕が積み重ねてきた剣術でも、第一階位の魔法でもない。
「僕は騎士を目指していたはずなんだ」
言葉が、自然に口からこぼれた。
「でも今は、暴食を使えるか、制御できるか、危険か、そればかり調べられてる。国家の戦力になるかもしれないと言われて、敵からは器と呼ばれて……」
風精霊が僕の左腕の周囲を回る。
異常を探すための風だ。
「僕の価値まで、暴食だけで決められていく気がする」
ミナはすぐには答えなかった。
僕を慰めるためだけの言葉を探しているのではないようだった。
やがて、ミナは訓練区画に並ぶ木剣へ視線を向けた。
「私は、特別な力が欲しくて戻ってきたんじゃありません」
「うん」
「力があるから守るんじゃないです。守ろうとするから、力をつけるんです」
強い声ではなかった。
それでも、一つ一つの言葉がはっきりと届いた。
「私は助けられました。だから次は、誰かを見捨てないために訓練します」
「でも、力がなかったら守れないこともある」
「あります。だから練習するんです」
ミナはそこを否定しなかった。
気持ちだけで全てを守れるとは言わない。
「暴食が危険ではないとも思っていません。アルト先輩が次も絶対に止まれるなんて、私には言えません」
「……そうだね」
「でも、アルト先輩が私を助けたのは、暴食があったからだけじゃありません」
ミナは自分の胸元へ手を置いた。
かつて魂蝕の呪いが巣食っていた場所だ。
「危険だと分かっていても、私から呪いだけを取り除こうと選んだからです。力が勝手に私を助けたわけじゃありません」
暴食があったから、呪いを吸収できた。
けれど、使うと決めたのは僕だった。
ミナの魂や魔力へ触れず、呪いだけを分けようとした。
失敗する可能性もあった。
あの時の選択まで、暴食という名前へ渡す必要はないのかもしれない。
「アルト」
バルト先生に呼ばれ、僕は顔を上げた。
「右脚と左腕を診る。訓練台へ座れ」
言われた通りに腰を下ろす。
バルト先生は右脚の膝と足首を曲げ、痺れの範囲を確認した。
続いて左腕へ検査具を当てる。
封魔具の下には鈍い痛みがあるものの、炎症が悪化した形跡はない。
「完全回復にはまだ遠い。だが、今日から木剣の保持を許可する」
「本当ですか?」
「軽いものを右手だけでだ。構えと、ゆっくりした素振りまで。足を大きく動かすな」
バルト先生は念を押すように、僕を見た。
「身体強化、短距離加速、《閃駆》、剣への魔力纏いは禁止。暴食も使うな。模擬戦ではない」
「分かりました」
「痺れや痛みが強くなったら、その場で申告しろ。止まる判断も訓練の一部だ」
成人監督者が許可された内容を記録する。
セルフィナの風精霊も僕の左腕へ集まり、訓練前の基準値を測り始めた。
「通常魔力の循環に異常なし。黒い紋章からの流出なし。封魔具の作動なし」
全ての確認が終わり、僕は訓練用の木剣を右手で握った。
久しぶりの感触だった。
軽いはずなのに、以前より重い。
手のひらだけでなく、肩や背中まで木剣の重さを感じる。
「力を入れすぎ」
後ろからフィアの声がした。
振り返ると、ティアナ、フィア、レグルスが訓練区画へ入ってくるところだった。
「握り締めたら、腕が先に疲れる。今は振るより、真っ直ぐ構えることを意識して」
「分かった」
指を少し緩める。
ティアナは長椅子へ水の入った容器を置いた。
「無理だと思ったら、すぐ休んでね」
「うん。今日は隠さないよ」
「今日だけじゃ困るけど」
ティアナはそう言いながら、少しだけ笑った。
レグルスは僕の構えを見て、眉を寄せる。
「暴食を持っていようが、剣の基礎を怠れば騎士には届かない。監視されていることを、姿勢が崩れる言い訳にするな」
「右脚が痺れてることは、少しくらい考慮してくれてもいいと思う」
「考慮した上で言っている」
相変わらず厳しい。
けれど、暴食ではなく剣を見て言われたことが、少し嬉しかった。
僕は木剣を構え直す。
一回目。
ゆっくり振り下ろす。
剣先が僅かに右へ流れた。
二回目。
今度は真っ直ぐ通ったが、右脚へ体重を乗せすぎた。
三回目。
足の裏に痺れが広がる。
四回目には、右膝が小さく揺れた。
まだ振れる。
そう思った直後、痺れが脛まで上がってきた。
以前なら、あと一回だけと続けていたかもしれない。
「止めます」
僕は木剣を下ろした。
「右脚の痺れが強くなりました。左腕の痛みは変わりません」
バルト先生がすぐに近づき、僕を長椅子へ座らせる。
「正しい判断だ。今日の訓練はここまで」
四回しか振っていない。
悔しさはある。
けれど、隠して続ければ、明日の訓練まで失う。
それは先ほどミナが見せたことだった。
セルフィナの風精霊が僕の右脚と左腕を巡った。
彼女は観測結果を紙へ書き込んでいく。
「疲労に伴う通常魔力の変化だけです。黒い紋章からの流出なし。暴食の兆候なし。封魔具の作動なし」
筆先が、さらに一行を加えた。
「本人が右脚の異変を申告し、許可範囲内で訓練を中止した、と記録します」
「剣術まで監視記録に入るんだね」
「あなたが暴食以外の訓練をしていたことも事実です」
セルフィナは淡々と答えた。
隣では、休憩を終えたミナが再び木剣を握っている。
僕も右手の中に残った木の感触を確かめた。
ミナは騎士試験を受けるために。
僕は暴食だけで決められない騎士になるために。
どちらも、まだ最初の数回すら満足に振れない。
それでも、騎士への道が左腕にしか残っていないわけではなかった。
暴食を宿した左腕を封じたまま、僕は右手で、騎士を諦めないための木剣を握り直した。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークといただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




