第59話 監視下の生徒
制服へ袖を通すのは、何日ぶりだろう。
白いシャツを着て、ブレザーの前を留める。
それだけなら、以前と何も変わらない学院の朝だった。
けれど左袖を下ろすと、黒銀色の輪が袖口へ引っかかった。
三本の輪を細い板で繋いだ封魔具。
制服で隠そうと思えば隠せる。それでも毎日の検査を妨げないよう、袖口は少し広げられていた。
「右脚は?」
バルト先生に尋ねられ、僕は診察台から立ち上がった。
「まだ少し痺れます。でも、普通に歩く分には問題ありません」
「走れば問題が出るな」
「はい」
「左腕」
封魔具の下に細い検査板が差し込まれる。
冷たい光が黒い紋章の周囲を一周した。魔力経路には炎症が残っているものの、数日前よりは落ち着いているらしい。
「座学への復帰を許可する。実技は禁止だ。剣、身体強化、《閃駆》、暴食。すべて使うな」
「分かりました」
「授業へ戻れたことと、完治したことを混同するな」
厳しい言い方だった。
けれど、また教室へ戻れる。
その事実だけで胸の奥が少し軽くなった。
「封魔具の作動履歴はありません」
澄んだ声が診察室へ響く。
壁際にはセルフィナが立っていた。
腰近くまで伸びた淡い銀緑色の髪。その毛先は朝の光を受け、薄い水色に透けている。白と深緑の短いローブの周囲を、青緑色の小さな風精霊が漂っていた。
そのうち一体が僕の左腕を一周し、セルフィナの細長い耳元へ戻る。
「通常の魔力循環だけです。黒い紋章から外へ流れた形跡もありません」
「記録を」
「もう書きました」
セルフィナは机の上へ紙を置いた。
必要な事実だけを記し、僕へ励ましの言葉をかけることもない。
第三者監視役としては、その方が正しいのだろう。
記録官が検査時刻を書き加える。
朝の検査、異常なし。
封魔具の作動、なし。
右脚の痺れ、軽度。
左腕の痛み、継続。
「次は行動記録だ」
成人の監督者が別の紙を開いた。
「八時十二分、医務室を出発。目的地、十回生教室。同行者一名。変更はあるか」
「ありません」
「食堂へ行く場合も申告するように」
「はい」
教室へ行くだけで、紙が一枚増える。
以前なら数分で終わった道を、僕は監督者と並んで歩いた。
廊下ですれ違う生徒たちは、僕の顔より先に左腕を見る。
封魔具に気づくと、声を潜める者もいた。
「本当に戻ってきた」
「魔神と契約してるって……」
「でも、封印区画で三人を助けたんだろ?」
「それも本当か分からないじゃないか」
聞こえていないふりはしなかった。
振り返って問い詰めもしない。
彼らが知っているのは、正式に公開されたわずかな情報と、どこから流れたか分からない噂だけだ。
僕自身でさえ、暴食のすべてを知らない。
怖がるなと命じる方が無理だった。
教室の扉を開けた瞬間、続いていた会話が止まった。
何十もの視線が一斉に向けられる。
以前も、教室で一人になることは多かった。
属性適性なし。
魔力量は学年下位。
戦闘順位は最下位。
笑われることはあっても、僕の行動を気にする者はほとんどいなかった。
けれど今は違う。
僕の席の左右だけが、不自然なほど空いていた。
誰も見ていなかった頃の孤独ではない。
全員に見られ続ける孤独だった。
「おはよう、アルト」
ティアナが普段と変わらない声をかけてくれた。
「おはよう」
フィアは小さく頷き、レグルスは開いていた教本へ視線を戻す。
僕が席へ向かう途中、前の机から筆記具が転がり落ちた。
「あっ」
持ち主より近かった僕は、右手を伸ばした。
その瞬間、生徒の肩が跳ねる。
僕の手を避けるように、椅子ごと半歩下がった。
伸ばした手が空中で止まる。
「……ごめん」
謝ったのは、相手の方だった。
顔には悪意よりも恐怖が浮かんでいた。
「ううん」
僕は筆記具を拾い、机の端へ置いた。
触れないように距離を残す。
「ここに置くね」
「あ、ありがとう」
短い会話が終わっても、教室の空気は戻らなかった。
席へ着くと、一人の男子生徒が何度か迷った末に立ち上がった。
「アルト。聞いてもいいか」
「うん」
「近くにいるだけで、魔力を吸われるのか?」
教室中が息を止めた。
「それとも、触れたら……喰われるのか?」
「それは――」
ティアナが口を開きかける。
けれど、僕と目が合うと、静かに言葉を止めた。
任せる、とその目が告げていた。
「近くにいるだけで魔力を吸収したことはないよ。誰かに触れただけで吸収したこともない」
「じゃあ、安全なのか?」
「完全に安全だとは言えない」
教室のどこかで椅子が軋んだ。
「僕は人間の魂も魔力も喰っていない。でも、暴食を完全には制御できていない。一度、仲間の魔力を食べ物として感じたこともある」
都合の悪い部分だけを伏せれば、少しは安心させられたかもしれない。
けれど、それでは査問で話したことと同じ嘘になる。
「今は勝手に使うことを禁じられている。許可と監視がある時以外は使わない。異変を感じたら、すぐ申告する」
「また暴走する可能性は?」
「ないとは約束できない。だから封魔具と監視がある」
男子生徒は僕の左腕へ目を向けた。
「……分かった」
納得した顔ではなかった。
それでも、噂ではなく僕へ直接聞いてくれた。
彼は自分の席へ戻った。
空席が埋まることはない。
恐怖も消えない。
それでいいとは思えなかったけれど、一度の説明ですべてが変わるとも考えていなかった。
「ありがとう」
僕が小声で言うと、ティアナは首を傾げた。
「私は何もしてないよ」
「答えるのを任せてくれた」
「必要な時はそばにいる。でも、全部私が答えたら、アルトが自分で教室へ戻れなくなるから」
ティアナは空いた隣の席を引き、自分の教本を置いた。
「アルトが自分で向き合う時間まで、私が奪いたくないの」
「うん。それでいい」
守られることを拒まない。
同時に、自分で立つべき場所まで譲らない。
授業開始の鐘が鳴り、バルト先生が教室へ入ってきた。
監督者は教室後方の席へ座る。
その存在へ視線を向けた生徒もいたが、バルト先生は何も説明せず教本を開いた。
「前回の続きだ。第一階位防壁を二重展開した際、外側だけが先に崩壊する条件は何だ」
何人かが目を伏せる。
「アルト」
「はい」
復帰初日から当てられるとは思わなかった。
「二枚へ同じ量を均等に流すだけでは、外側の魔力密度が下がります。術者からの距離による伝達損失を計算し、外側へ多く配分する必要があります」
「その比率は?」
僕は黒板に記された条件を確認した。
「この距離なら、内側が四、外側が六です。ただし同時展開ではなく、内側を半拍遅らせれば五対五でも維持できます」
「正解だ。座れ」
「はい」
特別に褒められたわけではない。
それでも久しぶりに、危険性ではなく答えの正しさだけを見てもらえた。
僕は魔神契約者である前に、学院の生徒だ。
少なくとも授業中だけは、そう思えた。
午後の実技では、演習場の端に設けられた見学席へ座った。
腰に剣はない。
監督者と記録板だけが隣にある。
皆が魔力を動かす光景を見ても、食べ物に感じることはなかった。そのことも自分から記録へ残した。
「見学席だからといって、気を抜くな」
訓練を終えたレグルスが僕の前を通る。
「次の座学試験で、監視されていたから負けたなどと言い訳するなよ」
「言わないよ」
「ならいい。君が危険であるかどうかと、今日の問題に答えられるかは別だ」
慰めるつもりはないらしい。
けれど、その態度は以前と変わらなかった。
昼を少し過ぎた頃、左腕の内側が熱を持った。
封魔具の輪が、炎症の残る魔力経路を締めつける。
「大丈夫――」
反射的に言いかけ、止めた。
異変を隠さない。
その決まりは、査問のためだけに作ったものではない。
「左腕の痛みが強くなりました」
僕はすぐ監督者へ申告した。
簡易検査が行われ、封魔具の履歴板が確認される。
「作動なし。黒い魔力の流出もない。炎症部分への圧迫だろう」
休憩と再検査が記録へ加えられた。
少し離れた場所から見ていたフィアが、僕の前へ来る。
「今、自分から言ったね」
「うん。危うく大丈夫って答えるところだったけど」
「次は、危うくで済まないかもしれない」
フィアの目は真剣だった。
「危険を隠したら、今度は私が止める」
冷たい宣告ではない。
僕を見捨てないからこそ、見逃さないという言葉だった。
「味方だから見逃すと思わないで。隠さず話すなら、私も止める側として残る」
「分かった。隠さない」
フィアはそれ以上何も言わず、右手の古い傷へ指を添えた。
夕方、僕は再び医務室で検査を受けた。
封魔具の作動履歴、なし。
黒い魔力の流出、なし。
左腕の痛みは朝よりやや強い。
食事、移動、授業、休憩、申告時刻。
一日のすべてが物理文書へ書き込まれ、二人分の認証が添えられた。
寮へ戻る頃には、授業よりも見られ続けたことに疲れていた。
監視可能な部屋の外には、成人の監督者が座っている。
扉一枚を隔てても、一人にはならない。
窮屈だ。
けれど、この記録が学院長の署名と僕の処刑猶予を支えている。
ベッドへ横になり、ようやく目を閉じた。
深夜。
低く短い警報音で、僕は目を覚ました。
扉が開き、監督者が入ってくる。
「起きろ。結界外周で異常が検知された。侵入は確認されていないが、安全確認が終わるまで移動する」
「学院の外からですか?」
「まだ断定するな」
僕は封魔具に触れないよう右手だけで上着を羽織り、医務室近くの保護区画へ移された。
そこにはバルト先生とセレネ先生がいた。
セルフィナも遅れて入ってくる。
銀緑色の髪が夜風に揺れ、その周囲を二体の風精霊が忙しく回っていた。
「外層に浅い傷が残っています」
セレネ先生が物理記録を机へ置く。
「細い魔力を結界へ差し込み、反応を探った形跡です。中心部までは届いていません」
「侵入者は?」
「確認されていない。目的も不明です」
バルト先生が僕の封魔具へ検査板を当てる。
「作動履歴なし。今回の痕跡とアルトの暴食を結びつける記録もない」
セルフィナの風精霊が、持ち帰った淡い光を彼女の掌へ落とした。
「流れの方向だけは確認できました」
翡翠色の瞳が、窓の外に広がる夜へ向けられる。
「学院内部から外へ出た魔力ではありません。外側から内部へ差し込まれています」
「使用者は追えるか」
「無理です。残っているのは方向と、結界に触れた断片だけです」
「アルトを狙ったものか?」
「それも分かりません。学院全体を調べたのか、この区画を探したのか、精霊の記憶だけでは判断できません」
侵入は失敗している。
負傷者もいない。
それでも、学院の外から何者かが結界の厚さを測った。
今朝まで僕は、教室へ戻ることばかりを考えていた。
怖がられること。
監視されること。
自分の言葉で向き合うこと。
けれど学院の外では、別の何かが既に動き始めている。
僕が教室で恐れられていたその夜、学院の外から、何者かが結界へ爪を立てていた。
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