第56話 学院長の一声
最後の一枚が、評議員の指先で持ち上げられた。
その札が賛成へ置かれれば、僕の移送は成立する。
学院から切り離され、貴族院管理下の封魔施設へ送られる。
ティアナが息を呑んだ。
フィアの右手が、膝の上で固く握られる。
レグルスは評議員の指先を見据えたまま動かない。
僕の左腕では、黒銀の封魔具が冷たい重さを増したように感じられた。
「待ちなさい」
学院長の声は大きくなかった。
それでも、賛成札を持つ手が止まった。
「採決中です」
記録官が告げる。
「承知しています。だから止めました」
学院長はゆっくり立ち上がった。
これまで学院長は、証拠と証言を揃えることに徹していた。
僕を庇わず、処刑を求める者を黙らせることもなかった。
その学院長が、初めて査問室の中央へ一歩踏み出した。
「この生徒を処刑するなら、まず彼に救われた命と、彼を危険へ追い込んだ学院の責任を数えなさい」
査問室が静まり返った。
「議題は処刑ではありません。貴族院管理施設への暫定移送です」
査問使の指摘にも、学院長は動じなかった。
「移送先で待つのが、処刑を含む最終処分の審理である以上、数えるべき事実は同じです」
学院長が卓上の書類を一冊ずつ開いた。
「まず、ミナという生徒の治療記録です。彼女は魂蝕の呪いを取り除かれたことで生存しました」
バルト先生が提出していた記録だ。
「吸収されたのは呪いだけ。魂、肉体、記憶、能力に吸収の痕跡はありません。治療後も本人の人格と魔力は維持されています」
次の書類が開かれる。
「封印区画から救出された三名。全員が生存し、治療によって回復する見込みです」
さらに、四人分の戦闘記録。
「ティアナ、フィア、レグルスの体内魔力も吸収されていません。アルト・ロウェルは一度、仲間へ手を伸ばしかけた。これは消せない危険な事実です」
僕の胸に、あの時の光景が刺さる。
「同時に、三人に止められたあと、仲間と救助対象を捕食対象から外したことも証言が一致しています」
学院長は僕だけを見なかった。
「暴食の眷属を倒したのは四人です。ティアナが固定し、フィアが術式を断ち、レグルスが核を貫き、アルトが斬った。誰か一人の功績ではありません」
ティアナたちの証言書が、四冊並べられる。
「ですが、アルト・ロウェルの行動がなければ、四人の生還も救助対象三名の帰還も困難でした。その事実を危険性の記録から切り離してはならない」
「功績が危険を打ち消すわけではありません」
評議員の一人が言った。
「その通りです」
学院長は即座に認めた。
「ならば、危険が功績を打ち消すこともありません」
反論した評議員が口を閉じる。
「次に、学院の責任を数えます」
学院長が置いたのは、救出記録ではなかった。
黒い術式、封印区画、通信遮断、認証履歴。
学院側の失敗を記した報告書だった。
「学院は、内部へのカルトの侵入を防げませんでした。セレネ先生の認証が複製されていたことも、封印区画へ黒い術式が仕掛けられていたことも、事件が起きる前には発見できなかった」
セレネ先生は俯かなかった。
ただ、言葉の一つ一つを受け止めていた。
「通信網の安全も守れず、生徒四人を救助任務の範囲を超えた危険へさらしました。暴食の眷属が旧保守層に存在したことすら把握していなかった」
「四人を旧保守層へ落とした判断は、私が行いました」
セレネ先生が口を開く。
「私の責任です」
「あなたの責任は、別に記録します」
学院長は静かに答えた。
「しかし、学院の設備、認証、通信、任務に関する最終的な責任は学院長である私にあります。あなた一人へ押しつけて終わる問題ではありません」
学院長は情報漏洩の報告書も開いた。
「非公開聴取の内容さえ、学院は守れなかった。漏洩者も特定できていません。その状態で移送計画だけは安全に秘匿できると断言することも不可能です」
フィアの指摘が、学院自身の記録によって裏づけられていく。
「そして現在、アルト・ロウェルへ装着している封魔具も完全な安全装置ではありません。暴食を封じるのではなく、この生徒の左腕を焼くことで中断を狙うものです」
左腕の三本の輪が僅かに軋んだ気がした。
実際には作動していない。
冷たく、重いままだ。
「学院の失敗がアルト・ロウェルの危険性を消すわけではない」
学院長の目が僕へ向く。
「この生徒が契約を隠していたこと。暴食を完全制御できていないこと。人間の体内魔力を食べ物として認識したこと。いずれも記録から消しません」
僕は視線を受け止めた。
「同時に、この生徒の危険性を理由として、学院の責任を消すことも認めません」
「学院長は、何を要求されるのですか」
査問使が尋ねた。
「要求ではありません。学院に与えられた監督権を行使します」
査問室の空気が変わった。
「アルト・ロウェルは十五歳。現在も王立アウレリス英雄学院へ在籍する生徒です。正式な犯罪容疑による起訴も、裁判も開始されていません」
「危険性を理由とする予防措置です」
「予防措置であっても、正式な裁判命令なしに、学院の同意を得ず在学生を移送することはできません」
学院長は、賛成札の並ぶ卓へ視線を向けた。
「アルト・ロウェルを無罪と認定するものではありません。危険性が消えたと判断するものでもありません」
一つずつ、言葉を置く。
「正式な裁判が始まるまで、王立学院の在学生に対する監督権を行使します。この生徒の身柄は学院が預かります」
ティアナの肩から僅かに力が抜けた。
けれど、喜びの声は上がらなかった。
「期間は?」
ローデンが尋ねる。
「アルト・ロウェルが学院を卒業する時、または正式な裁判が開始される時。そのどちらかが先に訪れるまでです」
卒業すれば、学院の監督権は切れる。
その先で処刑案が消えるわけではない。
正式な裁判が明日始まれば、猶予も明日までだ。
「学院預かりは無罪判定ではありません」
ローデンは査問記録へ目を落とした。
「監督権が有効なのは、在学中かつ正式裁判が開始されていない間です。卒業または正式裁判によって、処遇は再び判断されます」
「異論ありません」
学院長が答えた。
「では、学院預かり中に事故が起きた場合、誰が責任を負うのですか」
査問使の問いに、学院長は一枚の書類を取り出した。
監督誓約書だった。
「学院預かりを求める以上、監督責任は私が負います」
学院長は自らペンを取り、最下部へ名前を記した。
「問題が起きた時だけ、生徒一人へ責任を押し戻すつもりはありません。学院長としての地位も、記録上の責任も、この署名に含めます」
命を差し出すような言葉ではない。
失敗すれば、学院長の座と法的な責任を失う。
最高責任者として、それを正式な記録へ残したのだ。
「監視条件を確認します」
ローデンが書類を読み上げる。
「封魔具は継続。暴食の使用、単独行動、学院外への無断移動は禁止。左腕の紋章と魔力経路は毎日、非破壊検査を行う」
バルト先生が頷いた。
「作動履歴は物理記録へ保存する。監督者は交代制とし、一人の認証だけで封魔具を調整させない」
監視は途切れない。
僕が眠る時も、移動する時も、一人にはならない。
「経過は定期的に貴族院へ報告。カルトによる接触、暴食の強制発動、人への重大な被害が確認された場合は即時再査問とする」
「強制発動の結果だけを、本人の故意と認定してはなりません」
ユリウスが指摘した。
「その条件も残します」
学院長が答える。
「治療が終わるまで、医務室での療養と訓練禁止も継続する」
「正式裁判が始まった場合、学院は身柄の提出を拒まないのですね」
査問使が確認する。
「正当な手続きを経た命令には従います」
「処刑案の撤回までは認められません」
「求めていません」
学院長の答えに迷いはなかった。
「今回は、学院の監督権が優先される条件を満たしています」
ローデンが記録官へ告げた。
「学院側が移送へ同意しない以上、暫定移送案を実行することはできません」
最後の賛成札が、評議員の手から卓へ戻された。
処刑の札は残っている。
拘束も、追放も消えていない。
ただ、僕を学院から連れ出す決議だけが止まった。
「学院長」
僕は椅子から立ち上がった。
右脚の痺れで身体が揺れ、検査台へ手を置く。
「学院の失敗だけではありません。僕が暴食を隠していたことも事実です」
「君の責任も消えてはいない」
学院長は厳しい声で答えた。
「学院の責任と、君の責任を別々に記録します」
「僕の危険性まで、学院へ押しつけたくありません」
「だから監視するのです」
短い返答だった。
「私が与えられるのは無罪ではない。卒業か正式裁判までの時間だけです。その時間に何を証明するかは、君自身が決めなさい」
左腕の封魔具を見下ろす。
僕は自由ではない。
けれど、騎士を目指す道を歩く時間は残された。
「与えられた時間で、危険を減らす方法を探します」
「言葉ではなく、記録と行動で示しなさい」
「はい」
査問が中断され、僕たちは席を離れた。
「学院に残れる。でも、まだ終わってないね」
ティアナが小さく息を吐く。
「次は、監視されていても危険を減らせるって記録を作ろう」
「処刑の札は残っている」
フィアは閉じられていく書類を見つめた。
「でも、移送途中で奪われる危険は避けられた。残った時間で、止める条件を増やす必要がある」
「猶予を勝利と呼ぶつもりはない」
レグルスもいつもの厳しい口調を崩さなかった。
「卒業までに、僕たちの証言を再現できる記録へ変える。君が危険である事実も、選べる人間である事実も、両方だ」
ユリウスが僕たちの横を通り過ぎる。
「処刑が取り消されたわけではない」
足を止めずに告げた。
「学院が責任を負う期間を作っただけだ。その期間に危険性を減らせなければ、次は手続だけでは止められない」
「分かってる」
その背中へ答えた。
左腕には封魔具が残っている。
単独行動も暴食も禁じられ、学院の外へ出ることもできない。
明日からは、僕の行動一つ一つが監視と記録の対象になる。
それでも、今日ここで終わりにはならなかった。
僕は自由になったのではない。卒業か正式な裁判の日まで、学院長の名で処刑を猶予されたのだ。
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