第51話 封印された報告
目が覚めた瞬間から、腹が減っていた。
封印区画から帰還して、数日。
朝食を二人分食べたはずなのに、胃の奥には空洞が残っている。身体が求めているのはパンでも粥でもない。そう理解できてしまうことが、何より気持ち悪かった。
僕は白い天井から目を逸らし、包帯の巻かれた左腕を押さえた。
鈍い痛みが肘の内側まで続いている。
「アルト、痛む?」
ベッド脇の椅子に座ったティアナが、体調記録用の紙を持ち上げた。
「大丈夫――」
答えかけて、口を閉じる。
異変や負傷を隠さない。
僕たち四人で決めたことだ。
「……昨日より少し熱い。痛みは同じくらい。それと、まだお腹が空いてる」
「さっき、あれだけ食べたのに?」
「うん。身体の空腹とは別みたいなんだ」
ティアナの指が止まった。
怖くないはずがない。それでも彼女は顔を背けず、僕の言葉を一つずつ紙へ書き込んだ。
「隠さないで言えたから、今日はそこだけ合格」
「療養にも採点があるんだね」
「あるよ。私が今作ったの」
明るく答えた声は、ほんの少しだけ硬かった。
窓際にはフィアが立っている。右手にはまだ薄い包帯が巻かれていた。腰まで届く金髪を朝の光が照らしているが、その視線は僕の左腕に向いていた。
彼女は何も言わない。
あの呪いが僕の腕へ吸い込まれた瞬間から、フィアは何度もこの力を見ている。それでも、彼女が誰かへ説明したことは一度もなかった。
「救助した三人は?」
僕が尋ねると、壁際で計測板を確認していたレグルスが顔を上げた。
「全員、命に別状はない。最も衰弱していた一人も、昨夜には呼吸が安定したそうだ」
「よかった……」
「事情を聞ける状態ではないがね。焦る必要もない。生きているなら、話は回復してから聞けばいい」
その言葉に胸を撫で下ろす。
四人で入り、帰りは七人。
任務は終えたのだ。
そう思おうとしたところで、病室の扉が三度鳴った。
「入るぞ」
バルト教師が入ってくる。
その半歩後ろには、セレネ教師がいた。
二人の距離は近い。しかし、並んで歩いているというより、バルト教師が彼女の行動を監視しているように見えた。
セレネ教師は僕たちへ短く頭を下げる。
誰も挨拶以上の言葉を返さなかった。
彼女が本当の裏切り者ではなかったことは分かっている。
だからといって、旧保守層へ落とされたことまで消えるわけではない。
「体調の悪いところすまない」
バルト教師が病室中央の机へ、一冊の薄い報告書を置いた。
黒い表紙を三本の銀色の帯が横切っている。帯の中央には、それぞれ異なる封印が施されていた。
「これは通常の記録庫へ入れていない。通信網にも写しを残していない」
レグルスの眉が動く。
「学院内部に、認証を複製した者が残っているからですか」
「そうだ。閲覧者を増やすほど、相手へ届く可能性も増える」
「なら、なぜ僕たちに?」
「お前たちが当事者だからだ。特に、アルト。これはお前に関わる報告になる」
喉が乾いた。
バルト教師とセレネ教師が、それぞれ封印の一つへ指を当てる。最後の一本は開けられないまま残された。
銀の帯が緩み、表紙が開く。
最初のページに描かれていたのは、左右へ斬り分けられた黒い核だった。
僕たちが倒した、暴食の眷属の核。
剣が入った亀裂も、銀槍に貫かれた穴も、そのまま記録されている。
「核が動いたんですか?」
ティアナが身構える。
「違う。核は証拠保管区画に封印した。活動再開の兆候もない」
バルト教師がすぐに否定する。
「問題は、斬られた断面だ。魔力の使用履歴が、年輪に似た層として残っていた」
セレネ教師が一枚めくった。
黒い円の内側に、細い波が幾重にも描かれている。
「大部分は戦闘中に使用した術式です。四肢の形成、装甲の再生、放出魔力との接続。その中に一つだけ、性質の異なる記録がありました」
「性質が違う?」
「眷属自身を動かすための魔力ではありません。学院の外へ向けた発信記録です」
病室から音が消えた。
僕は無意識に左腕を握り込んだ。
「核の断面に、学院外へ向けた発信記録が残っていた」
バルト教師が低い声で告げる。
「送信先は特定できない。だが、学院の結界外へ抜けた痕跡はある」
「いつですか」
フィアが尋ねた。
「核が斬られた時?」
「いいえ」
セレネ教師の指が、記録された波の一点で止まる。
「あなたたち四人が、眷属から切り離した魔力だけを消した瞬間です」
左腕の痛みが、一段深くなった。
ティアナが三拍の印を付けた。
フィアがすべての接続を断った。
レグルスが一本の道を作った。
その先にある敵の魔力だけを、僕が一呼吸で喰った。
「あの時……」
「記録上の時刻は一致しています」
通信を受けた者がいる。
僕があの力を使ったことを、学院の外から知った者がいる。
「通信の内容は?」
レグルスが問う。
「人間の文章ではありません。意味を圧縮し、三つの脈動へ変えたものです。完全な復元はできませんでした」
セレネ教師は三本の黒い波を順番に示した。
「一つ目は、暴食」
左腕の紋章が、包帯の下で脈打った。
「二つ目は、器」
眷属が僕へ向けた言葉が蘇る。
僕ではなく、僕の中にいるベルゼバスへ向けて呼びかけた声。
「三つ目は、目覚めた」
セレネ教師が僕を見る。
「最も近い読みは、『暴食の器が目覚めた』です」
胃の中が冷たく縮んだ。
あれが、目覚めた?
違う。
僕一人では対象さえ安全に選べなかった。ティアナ、フィア、レグルスの三人が条件を整えてくれたから、一口だけ喰えたのだ。
完全に制御できたわけではない。
今だって空腹は消えず、左腕は痛み続けている。
「ただし、これは発信者側の呼称です」
セレネ教師が続けた。
「あなたが完全に覚醒したという事実認定ではありません。あの限定的な現象を、眷属が覚醒と判断した可能性があります」
頭の奥で、獣じみた声が笑った。
《来るぞ。供物が》
僕は奥歯を噛み、返事をしなかった。
「届いたんでしょうか」
「確認はできん」
バルト教師が答える。
「受信した者も、場所も不明だ。だが、受信を確認できなくても、届いた前提で動く」
「通信遮断術式と似ている」
フィアが報告書の波を見つめたまま言った。
「同一とは断定できません。ただし、魔力の組み方には共通点があります」
セレネ教師の答えに、レグルスが険しい顔をした。
「学院へ入り込んでいたカルト勢力へ送られた可能性が高い、ということですね」
「はい」
「個人名は?」
「含まれていません」
その答えに安堵しかける。
しかし、バルト教師は首を横へ振った。
「安心はできん。学院内部の潜伏者が戦闘記録と生存者を照合すれば、四人のうち誰を指すかは絞れる」
四人のうち、敵の魔力を消したのは僕だ。
眷属が顔を向け続けたのも僕だった。
時間をかければ、隠し通せるはずがない。
「つまり、僕は……狙われるんですね」
「その可能性が高い」
左腕が自分の身体ではないように重くなった。
あの場で力を使わなければ、この通信は送られなかった。
そう考えた瞬間、ティアナが記録用紙を机へ置いた。
「アルト」
いつもの明るさとは違う、真っ直ぐな声だった。
「使わなかったら、私たちは帰れなかった」
「でも、このせいで――」
「あの時の選択まで間違いだったことにはさせない」
ティアナの指先は震えていた。
怖いのだ。
それでも、僕から目を逸らさない。
「危険な力であることと、君が僕たちを守ったことは両立する」
レグルスも口を開く。
「一方だけを消して報告するつもりはない。都合の悪い部分を伏せれば、僕たちまで敵と同じやり方になる」
「……うん」
後悔はしていない。
もう一度あの場へ戻っても、僕は同じ選択をする。
怖いのは、あの一口ではない。
その意味を、僕ではない誰かに決められることだった。
バルト教師が報告書を閉じる。
「この記録は、引き続き封印する。だが、魔神契約の疑いまで伏せ続けることはできん」
魔神契約。
その言葉が病室へ落ちた。
「明日、学院長権限による非公開聴取を行う。現時点で有罪を決める場ではない。だが、何も聞かずにお前を守れる段階は終わった」
「単独行動も禁止します」
セレネ教師が告げる。
「罰ではありません。学院側の監視と、外部勢力からの護衛。その両方です」
僕は左腕を押さえたまま頷いた。
二人が銀色の帯を戻す。
封印が一つずつ閉じられ、黒い表紙が再び覆われた。
「今日は休め。続きは明日だ」
バルト教師は報告書を持ち上げ、セレネ教師とともに病室を出ていった。
扉が閉じる。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
僕は窓際のフィアを見る。
「フィアは……明日、何を話す?」
彼女はすぐには答えなかった。
包帯の残る右手を下ろし、ベッドのそばまで歩いてくる。
「君の秘密を、私が勝手に説明するつもりはない」
静かな声だった。
「私が見たものを話せば、それは私の解釈になる。君の事実ではなくなる」
「なら、黙っていてくれるの?」
「でも、誰かに暴かれる前に、君の口から事実を話して」
逃げ道を塞ぐためではない。
僕へ選ぶ余地を残すための言葉だった。
「敵が付けた『器』という名前だけを、君のすべてにさせないで」
胸の奥へ、その一言が落ちた。
「話すなら、一人で背負わないで」
ティアナが言う。
「私たちも、見たことは話すから」
「敵の報告だけを、君を定義する唯一の記録にするな」
レグルスは腕を組み、僕を見据えた。
「僕たちは君が何をしたか見ている。危険だったことも、最後まで誰も喰わなかったこともだ」
三人は僕の代わりに秘密を決めない。
それでも、僕が話すまで隣にいると言ってくれている。
左腕はまだ痛い。
明日、何を失うことになるのかも分からない。
それでも、敵の言葉だけで僕を決めさせるわけにはいかなかった。
「明日の聴取で、僕から話すよ」
報告書は再び封じられた。けれど次に開かなければならないのは、僕が左腕に隠してきた秘密だった。
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