第50話 同じ場所へ
レイシアの涙が、揺れる鏡面を伝っているように見えた。
声が届いても、身体は動かない。
右脚の痺れも、左腕の痛みも、空っぽの胃を掻き回す飢えも残ったままだ。
それでも、閉じかけていた瞼を僅かに持ち上げる。
「レイ……シア……」
『アルト。聞こえてるの?』
途切れかけた声が返ってきた。
ずっと届かなかった声。
学院へ入ってから何度も魔法鏡を確かめた。けれど、そのたびに鏡面は曇っていた。
離れた場所で騎士として進み続ける彼女に、僕はもう必要とされていないのかもしれない。
そんな考えが、心のどこかに残っていた。
「僕のことを……忘れていなかったの?」
レイシアが目を見開く。
『忘れるわけない』
返事に迷いはなかった。
『何度も鏡を繋ごうとした。でも、ずっと学院の結界に弾かれて、声が届かなかったの。七彩祭で事件が起きたって聞いてからは、何度も、何度も……』
ティアナが支える鏡の縁に、小さな水色の光が並んでいる。
一つや二つではない。
幾重にも重なった、接続失敗の記録だった。
『返事がないから、ずっと心配してた』
「そう……だったんだ」
忘れられていたのではない。
僕たちの間には、届かない理由があっただけだ。
胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
鏡の中のレイシアは、騎士の装いをしていた。
僕より先に、自分で選んだ道を歩いている。
声が届いたからといって、距離が消えたわけではない。
彼女は学院の外。
僕はまだ騎士になる前の学院生徒だ。
『三人とも、アルトのそばにいてくれてありがとう』
「今はお礼より、アルトを休ませる方が先だよ」
ティアナが静かに答える。
フィアもレグルスも、余計な言葉は挟まなかった。
鏡面へ走る波紋が大きくなる。
破壊された通信遮断術式の向こうで、結界が安定し始めているのだ。
『アルト、必ず戻って』
「うん……」
それ以上は続かなかった。
レイシアの顔が水面のように崩れ、声が雑音へ変わる。
最後に伸ばされた手も届かないまま、魔法鏡は再び曇った。
通信は切れた。
けれど、もう沈黙を忘却だとは思わない。
『――四人とも、聞こえる?』
代わりに通信石からノアの声が届いた。
『在籍証の反応は、現在位置から奥へおよそ百歩。少し右へ曲がった先。中央の一つがかなり弱い』
「通路の状態は?」
レグルスが尋ねる。
『中継杭が壊れてるから、そこまでは分からない。通信が二度切れたら止まって。外側から別経路を探してる』
ティアナが僕の身体を支えていた根へ、僅かな魔力を流した。
細い根が編み合わさり、背中から脚までを載せられる簡易担架になる。
「アルトはこれで運ぶよ」
「僕を置いて――」
言いかけて、口を閉じた。
一人を置いていくことも、一人で残ることも、僕たちが決めた約束とは違う。
「ごめん。頼む」
「うん。それでいいの」
ティアナが担架の前を持つ。
フィアとレグルスが左右から支えた。
「四人で行く」
フィアが短く告げ、先の角まで駆ける。
すぐに戻り、安全を確認してから僕たちは進んだ。
レグルスが細い風を通路へ流し、空気の流れを読む。
「右だ。計測板の反応も近づいている」
ティアナは崩れかけた床へ根を這わせ、担架が傾かない足場を作った。
三人とも傷つき、魔力も尽きかけている。
それでも、誰も僕を置いていかなかった。
やがて、半分開いた鉄扉が見えた。
「この奥に三人いる」
フィアが隙間へ身体を滑り込ませる。
僕たちが追いつく前に、内側から声が届いた。
「いた。全員倒れてる!」
保守室の隅に、三人の生徒が横たわっていた。
祭りの片づけに使ったらしい作業用の外套を身につけている。
誰も目を覚まさない。
けれど、フィアが一人ずつ首筋へ指を当てた。
「二人は呼吸がある。もう一人は……弱いけど、まだ生きてる」
「そちらを優先する」
レグルスが最も衰弱した生徒の気道を確保する。
ティアナは残った布と根を使い、三人の身体を冷たい床から持ち上げた。
「三人とも、連れて帰れる」
僕は答えようとした。
けれど、声になる前に咳が漏れた。
その時、通気口から淡い風が入り込む。
銀緑色の小さな光をまとった風精霊だった。
『三人とも、まだ息をしています』
通信石からセルフィナの声が聞こえる。
『精霊が届くのはそこまでです。中から連れてきてください』
「分かった。ありがとう」
ティアナが答えた直後、保守室の左壁から何かを引っ掻く音がした。
『この壁の向こうだ! 七人分の匂いがする!』
ガルナの声だ。
左側の設備通路を、嗅覚だけでここまで追ってきたらしい。
続いて、天井のさらに上から金属音が響いた。
『解除機構を見つけた。黒い線は止まってる』
フェリナの声が降ってくる。
『姉さん、壁から離れて』
『距離は三歩。危険な匂いはない』
二人が共有しているのは位置と距離だけだ。
短い確認のあと、上方で機構が動いた。
保守室の左壁が震え、隠されていた救助口がゆっくりと開く。
向こう側に、赤茶色の犬耳と黒い猫耳が見えた。
「通れる!」
ガルナが閉鎖壁を押さえ、フェリナが高い位置の機構を固定している。
僕たちは三人の生徒を根へ載せた。
フィアとレグルスが最も弱い一人を支え、ティアナが残る二人と僕の担架を繋ぐ。
一人では運べない。
だから、全員で運ぶ。
救助口を抜けると、壁際に小さな橙色の光が並んでいた。
「その印を追って!」
メルナが通路の先で手を振る。
背後を振り返れば、今通った救助口はただの壁にしか見えない。
幻像で退避路を隠しているだけで、道そのものを作ったわけではない。
「外からは行き止まりに見える。今は止まらず、医務室まで運んで」
メルナは無理に笑わなかった。
ティアナと並び、救助対象の根を支える。
暗い通路を抜けた先では、光の防壁が入口を囲んでいた。
その中央にユリウスが立っている。
「遅い」
冷たい青い瞳が、僕たちを順番に数える。
「だが、七人いるなら任務は成功だ。負傷の重い者から運べ。身分による順番の変更は認めない」
待機していた治癒担当者が、三人の生徒へ駆け寄った。
レグルスが計測板を見てから、小さく息を吐く。
「七人いる」
そして僕を見た。
「これでようやく任務成功だ」
意識が再び遠ざかる。
最後に見えたのは、一つの道ではなかった。
地上を守ったユリウス。
精霊を通したセルフィナ。
退避路を隠したメルナ。
設備通路と点検路から救助口を開いたガルナとフェリナ。
僕たちとは別の道を進みながら、最後には同じ場所へ集まった仲間たちだった。
◇
次に目を覚ました時、窓の外は朝だった。
「起きたね」
ティアナが椅子から立ち上がる。
フィアは窓際に立ち、レグルスは壁へ背を預けていた。
「三人は?」
「全員、助かる見込みだよ。すぐには起きられないけど、取り返しのつかない欠損はないって」
全身から力が抜けた。
右脚にはまだ痺れがあり、左腕も脈打つたびに痛む。
胃は相変わらず空腹を訴えている。
数日は訓練禁止。
魔力も十分には戻っていない。
それでも、七人で帰ってきた。
「学院からの評価書だ」
レグルスが机の紙を示した。
新しい戦闘順位は空欄だった。
代わりに、再査定の文字がある。
黒い術式の周期解析。
第一階位魔法の連続使用。
仲間との役割分担。
《閃駆》による核の切断。
「属性なしと魔力量だけで、戦闘能力まで最下位と評価する段階は終わったそうだ」
レグルスが淡々と告げる。
僕の属性適性はないまま。
魔力量も学年下位のままだ。
上位生徒級の万能な強さを得たわけでもない。
それでも、入学したばかりの頃の僕とは違う。
第一階位魔法を繋ぎ、仲間に守られ、仲間を守り、四人で格上へ勝った。
何もできない最下位のままではない。
「こっちは戦団登録の報告書」
フィアが別の紙を持ち上げた。
戦団名の欄は空白だった。
「名前、ないね」
ティアナが言う。
「今はそれでいいと思う」
僕が答えると、フィアも頷いた。
「名前がなくても、誰と進むかは決められる」
「今度も、誰か一人だけが守る側にならないようにしよう」
ティアナが僕を見る。
「次に行く時も、四人で行こう」
「勘違いするな」
レグルスが腕を組んだ。
「僕は君の後ろを歩くつもりはない。対等な競争相手として、同じ場所へ立つ」
「道が違っても、必要な時は同じ場所へ行く」
フィアが続ける。
長い誓いは必要なかった。
「分かった。次も一人では行かない」
三人に守られることも、ようやく受け入れられる。
「四人で行こう」
正式な戦団名はない。
アルトを指揮官とする上下関係もない。
ユリウスも、セルフィナも、メルナも、双子も、それぞれ別の道を進む。
それでも、必要な時にはまた同じ場所へ集まれる。
机の端には、セレネ教師に関する調査書も置かれていた。
認証履歴と封印操作記録は提出された。
けれど、責任も処分も、潜伏者の正体も決まっていない。
事件は終わっていなかった。
三人が医務室を出たあと、僕は曇った小型魔法鏡を手に取った。
レイシアは、僕を忘れていなかった。
何度も声を届けようとしてくれていた。
僕も、最下位だった頃のままではない。
けれど、一度の勝利で彼女へ追いついたわけではない。
レイシアは学院の外で、騎士として自分の道を進んでいる。
僕はまだ、騎士を目指す学院生徒だ。
物理的な距離も、実力も、立場も遠い。
だからこそ、追いかけるだけでは終わらない。
いつか自分の足で同じ場所へ行く。
守られるだけでも、遠くから見上げるだけでもなく、対等な騎士として隣へ立つ。
「待ってて、レイシア。今度は僕が、君の隣に立つ」
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