第5話 黒い飢え
迷宮実習への参加を止められてから、学院で過ごす時間が急に長くなった気がした。
実習のない午後。
訓練場へ向かう生徒たちを横目に、僕は一人で学院の正門を出る。
背中へ、視線が刺さる。
「迷宮に落ちた最下位だ」
「単位も保留なんだって」
「卒業できるのかな」
聞こえないふりは、少しだけ上手くなった。
でも、何も感じなくなったわけじゃない。
正門前の広場では、魔導映像が宙に浮かんでいた。魔石に記録した光景を、光の板として空中へ映すための魔導具だ。
映っているのは、青白い蝶が夜空を埋め尽くす戦場だった。
その中心で、白と青の騎士服をまとった少女が剣を振る。
「水蝶のお姉ちゃん、すごい!」
広場で映像を見ていた小さな子が、両手を上げてはしゃいだ。
「ほんとだ! あの大きい魔物、一人で倒しちゃった!」
レイシア。
誰よりも遠い場所で、誰よりも多くの人を守っている幼なじみ。
映像の中の彼女は、僕が知っているレイシアと同じ顔で笑っていた。
なのに、あまりにも遠い。
「……すごいな」
思わず呟く。
誇らしかった。
僕の幼なじみは、世界中の人に希望をくれる英雄なんだと。
同時に、胸の奥が少し痛んだ。
僕は戦闘順位最下位で、迷宮実習にも入れない。
いつか、あの隣に立ちたい。
そう願うだけでは、もう足りない気がした。
「アルト」
背後から、明るい声がした。
振り返ると、ティアナが腕を組んで立っていた。
「帰るなら、一緒に帰ろ」
「ティアナ。今日は訓練、ないの?」
「あるけど、休んだ」
「えっ」
「大丈夫。提出物も終わってるし、先生にも許可は取った」
彼女は当たり前みたいに僕の隣へ来る。
「今日は一人にしないって決めたから」
「そこまでしてくれなくても……」
「するの」
ティアナは、僕の制服の袖を掴んだ。
「孤児院に帰るんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、私も行く」
「迷惑じゃなければ、僕の家に来る?」
「もう許可を取る前提で来てるよ」
言い切ってから、ティアナは少しだけ得意そうに笑った。
僕も、つられて笑ってしまう。
それだけで、さっきまで胸に溜まっていた重さが少し軽くなった。
◇
「アルト兄ちゃん!」
孤児院の扉を開けた瞬間、子どもたちが駆け寄ってきた。
小さな手が制服を掴む。
膝へ抱きついてくる子もいる。
「迷宮で怪我したって聞いた!」
「もう大丈夫なの?」
「ちゃんと帰ってきた!」
「うん。心配かけてごめん」
しゃがんで笑うと、子どもたちは安心したように騒ぎ始めた。
ここへ帰ってくると、不思議なくらい肩の力が抜ける。
学院では最下位でも。
迷宮で落ちても。
僕はここでは、ただのアルト兄ちゃんだった。
「わあ、ティアナお姉ちゃんもいる!」
「こんにちは!」
ティアナは子どもたちへ手を振り、すぐに輪の中へ入っていく。
髪を結ってあげている子の隣へしゃがみ、背の低い子と目線を合わせて笑う。
「アルト兄ちゃん、ティアナお姉ちゃんと仲良しなの?」
「な、仲良しだよ」
「今の答え方、ちょっと遅かった」
ティアナが、横から僕の頬を指でつついた。
「だって急に聞かれたから」
「じゃあ、ちゃんと答える練習しよっか?」
「何の練習?」
「さあ?」
彼女は楽しそうに笑う。
子どもたちもつられて笑い出し、僕だけが少し困った。
ティアナがふと、僕の肩口へ顔を近づける。
「動かないで」
「え?」
指先が、僕の頬に触れた。
迷宮でついた煤を、ハンカチでそっと拭ってくれる。
「ほら。まだ残ってた」
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は僕の顔を見て、少しだけ真面目な表情になった。
「ちゃんと帰ってきてくれて、ほんとによかった」
返事をする前に、子どもたちの歓声が響いた。
僕は照れ隠しのように視線を逸らす。
でも、ティアナがここにいる光景は、なんだかずっと前から知っていたものみたいだった。
◇
夕方。
食堂に暖かい光が灯り始めたころだった。
古い魔導暖炉が、急に低い唸りを上げた。
「……あれ?」
暖炉の奥で、赤い光が不規則に明滅している。
魔導暖炉は、魔石の力を熱へ変えて部屋を暖める生活用の魔導具だ。
孤児院の暖炉は長く使われている。時々機嫌を悪くすることもあった。
でも、今日の音は違った。
ぱきん、と。
何かが割れる音がした。
暖炉の隙間から、赤い魔力が煙のように漏れ出す。
「みんな、離れて!」
僕が叫ぶより早く、ティアナが子どもたちの前へ出た。
床から蔦が伸び、暖炉の周囲を囲む。
土の壁が、子どもたちとの間へ立ち上がった。
「外に出よう! 走らないで、順番にね!」
ティアナの声に押され、子どもたちが世話役の人と一緒に逃げていく。
けれど、暖炉から漏れる光は強くなる。
熱が、土の壁を赤く染めた。
「魔石にひびが入ってる……!」
ティアナが歯を食いしばる。
「囲めても、熱を止めないと――」
左腕が、脈打った。
どくん。
どくん。
赤い魔力が、見える。
甘い。
焼けた果実のような匂いが、喉の奥へ入り込んでくる。
『喰え』
ベルゼバスの声が響いた。
『外へ漏れた魔力だ。誰のものでもない』
「……駄目だ」
『子どもを守るなら、早くしろ』
暖炉の光が膨らむ。
蔦が一本、熱で焼き切れた。
ティアナが新しい蔦を伸ばす。
けれど、このままでは間に合わない。
『喰えば止まる』
「でも……」
『お前は何のために剣を振る?』
子どもたちの泣き声が、壁の向こうから聞こえた。
僕は左腕を見た。
黒い紋章が、手袋の下で熱を持っている。
怖い。
この手を使ったら、また飢える。
また、ティアナの魔力まで欲しくなったら。
それでも。
「ティアナ、少しだけ下がって」
「アルト?」
「大丈夫。絶対に、子どもたちには何もさせないから」
手袋を外す。
赤い魔力へ、左手をかざした。
『そうだ』
紋章が黒く光る。
暖炉から漏れ出していた魔力だけが、細い糸のように僕の掌へ吸い込まれていく。
魔石そのものには触れない。
ただ、溢れていた分だけ。
少し。
本当に少しだけ。
暖炉の赤い光が弱まった。
熱が引いていく。
土の壁の向こうから、子どもたちの泣き声が小さくなった。
助かった。
そう思った瞬間、腹の奥がひっくり返るように痛んだ。
『足りない』
周囲の魔力が、いっせいに見える。
壁の魔導灯。
台所の保存箱。
ティアナが伸ばした蔦に宿る、緑色の魔力。
春の土のような、温かい匂い。
『あの少女の魔力は、もっと甘い』
「……やめろ」
『守るためなら喰える』
左腕が、勝手にティアナへ向きそうになる。
『次は、その少女を守るために、少女の魔力を喰え』
「違う!」
僕は自分の左手を右手で掴んだ。
息が苦しい。
「ティアナは食べ物じゃない」
黒い紋章が、熱を増す。
「誰も……僕の力のために傷つけさせない」
後ろへ下がろうとして、足がもつれた。
そのとき、ティアナが僕の手首を掴んだ。
両手で、強く包み込む。
「アルト」
僕は顔を上げられなかった。
「アルト、私を見て」
震える声だった。
でも、逃げていなかった。
ゆっくり顔を上げる。
ティアナの顔があった。
その後ろには、土の壁越しにこちらを見ている子どもたちがいる。
怖がっている。
でも、僕を信じて待っている。
その姿を見た瞬間、左腕の熱が少しだけ遠のいた。
僕は、紋章から力を抜く。
黒い光が、ゆっくり消えていった。
暖炉の火は完全に消えた。
部屋には冷たい静けさだけが残る。
けれど、誰も傷ついていなかった。
◇
子どもたちが落ち着いたあと、ティアナは僕を廊下の隅へ連れていった。
さっきまで握っていた手首を、まだ離してくれない。
「大丈夫?」
「……うん」
「嘘」
まっすぐ言われて、何も返せなくなる。
ティアナは僕の顔を見た。
「さっき、すごく怖い顔してた」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
彼女は少しだけ眉を下げる。
「何があったの?」
言えない。
ベルゼバスのことも。
僕の中にある飢えのことも。
「今は、言えない」
ティアナは黙った。
僕は俯いたまま続ける。
「でも……僕の中に、怖いものがある」
自分で口にすると、余計に怖くなった。
ティアナは、少しだけ手に力を込めた。
「わかった」
「……聞かないの?」
「聞きたいよ」
彼女は正直に言った。
「でも、アルトが言いたくない顔してるから」
少し間を置いて、続ける。
「言えるようになるまで、一人で抱えるのは禁止」
「ティアナ」
「怖いなら、私のところへ来て」
いつもの明るい声ではなかった。
でも、すごく温かかった。
僕は、頷くことしかできなかった。
◇
その夜。
孤児院の子どもたちが寝静まったあと、僕は部屋を出た。
眠る小さな背中を、一人ずつ見ていく。
今日、僕はこの子たちを守るために暴食を使った。
間違っていたとは思わない。
でも、あれに頼り続けたら、いつか守るために誰かを傷つける。
そんな強さはいらない。
「……喰わなくても、守れる強さがほしい」
夜明け前の訓練場には、すでにバルト教師がいた。
木剣を肩へ担ぎ、僕を見る。
「早いな」
「僕は、あの力に頼らず強くなりたいんです」
バルト教師は、何の力のことか聞かなかった。
ただ、僕の目を見ていた。
「なら、第一階位を極めろ」
木剣が、僕の足元へ投げられる。
「才能がないなら、基礎を誰よりも鋭くしろ」
僕は木剣を拾う。
握りしめる。
「剣を持て、アルト」
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