第4話 届かない水鏡
城壁の外は、夕暮れよりも黒かった。
地平線を埋め尽くす魔物の群れ。
四足で走る牙獣、翼を広げた飛行種、地面を砕きながら進む巨大な角持ちの魔獣。そのすべてが、外壁都市の灯りを呑み込もうとしていた。
「左翼、崩れます!」
「魔力壁が持ちません!」
「後退しろ! 第二防衛線まで下がれ!」
騎士たちの声には、すでに焦りが混じっていた。
魔物の吐き出した火球が空を染め、城壁へぶつかる。爆発の衝撃で、若い騎士が尻餅をついた。
その前へ、一人の少女が降り立つ。
淡い銀髪が風になびいた。
白と青を基調とした騎士服。その腰には、澄んだ光を宿す一振りの剣がある。
「……水蝶の騎士だ」
誰かが呟いた。
次の瞬間、その声は歓声に変わった。
「水蝶の騎士が来てくれた!」
「七大魔法騎士だ!」
「助かる……!」
レイシアは城壁の端に立ち、押し寄せる魔物を見下ろした。
恐怖に震える騎士たちへ振り返る。
「下がってください」
声は優しかった。
けれど、誰も逆らえない強さがあった。
「ここから先は、私が止めます」
レイシアが片手を上げる。
詠唱はない。
空気中の水分が一斉に集まり、夜の帳へ青い光を散らした。
生まれたのは、数え切れないほどの水の蝶だった。
翼を震わせるたび、蝶たちは淡い光の粒をこぼして飛ぶ。
牙獣の群れが吠え、黒い魔力弾を空へ放った。
しかし水蝶は、雨のように降り注ぐ魔力弾へ群がる。
黒い光は一つ、また一つと水へ包まれ、勢いを失って地面へ落ちた。
「風よ」
レイシアの指先が、静かに横へ払われる。
水蝶たちが一斉に羽ばたいた。
巻き起こった風は、ただの突風ではない。無数の細い刃となって、魔物の群れの間を走り抜けた。
牙獣たちが足を止める。
飛行種の翼が裂かれ、黒い影が地面へ落ちる。
それでも、群れの奥にいた巨大な角持ちの魔獣は止まらなかった。
城壁よりも高い身体を揺らし、額の角へ赤黒い光を集める。
「団長! あれは危険です!」
「大丈夫です」
レイシアは腰の剣を抜いた。
神下ろしの聖剣。
彼女にだけ応える特別な剣は、抜き放たれた瞬間、夜を白く塗り替えた。
巨大な魔獣が咆哮し、光の束を放つ。
レイシアは一歩だけ踏み出す。
水が足元で弾け、彼女の身体を前へ押し出した。
白い軌跡が、夜を走る。
次の瞬間。
巨大な魔獣の放った光は、真ん中から断たれていた。
続けて、聖剣の一閃が額の角を斬り落とす。
魔獣の巨体が、ゆっくりと前へ傾いた。
城壁の手前で地面を揺らし、動かなくなる。
残った魔物たちは、主を失った群れのように散り始めた。
水蝶が空へ舞い上がる。
青い光が、外壁都市の夜へ静かに溶けていった。
◇
「負傷者を優先してください。回復術師を西門へ」
戦いが終わったあとも、レイシアは止まらなかった。
「壁の修復は、土属性の術者を中心に。魔石の残量を確認して、夜明けまでに第二防衛線を戻しましょう」
「はっ!」
部下たちは、一斉に頭を下げる。
彼女は負傷した騎士のそばへ膝をつき、震える肩へそっと手を置いた。
「怖かったですね」
「いえ……水蝶の騎士様が、来てくださったので」
「皆さんが耐えてくれたから、間に合いました」
レイシアは微笑んだ。
兵士たちは、その笑顔を見て安心したように息を吐く。
水蝶の騎士。
若くして騎士団長となり、七大魔法騎士に選ばれた英雄。
彼女がいるなら大丈夫だと、誰もが信じている。
だから誰も気づかなかった。
彼女が戦いの最中、ほんの一瞬だけ、遠い王都の方角を見ていたことに。
◇
「団長」
簡素な休憩室へ戻ると、副官が書類を抱えて待っていた。
「王都から次の命令です。東の街道で魔物の群れが確認されたため、明朝には出発を――」
「……王都へ戻る予定は?」
レイシアは、すぐに聞いてしまった。
副官は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「申し訳ありません。現状では、難しいかと」
「そうですか」
笑わなければならない。
部下を困らせてはいけない。
「わかりました。出発までに、皆さんが休めるよう手配してください」
「団長も、お休みください」
「私は大丈夫です」
副官が退室すると、部屋は静かになった。
窓の外には、戦いを終えた城壁が見える。
レイシアは椅子へ腰を下ろし、手首へ視線を落とした。
細くなった古い布が、そこに巻かれている。
何度も洗われ、何度もほつれた布。
幼いころ、訓練で手を擦りむいたレイシアへ、アルトが巻いてくれたものだった。
不器用な結び目。
何度もほどけてしまって、レイシアが笑うと、アルトは困った顔をした。
それでも最後まで結び直してくれた。
『動かないで、レイシア』
『痛くないよ』
『じゃあ僕が痛い』
あのときの声を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
同時に、苦しくなる。
レイシアは布へ指を添えた。
「今日も剣、振ったかな……」
誰もいない部屋で、声は小さく消えた。
◇
机の上に置いた水差しから、一滴の水が浮かび上がる。
レイシアが魔力を流すと、水滴は薄い円盤のように広がった。
水鏡。
水の表面へ相手の姿や声を映し、遠くの魔法鏡へ言葉を送る通信術だ。
鏡のように平らな水面へ、レイシアはそっと触れた。
「アルト、今日もお疲れさま」
水面に、淡い文字が浮かぶ。
「こっちは終わったよ。そっちはどう?」
少し待つ。
水鏡は静かなままだ。
普通なら、アルトの部屋にある魔法鏡が光って、彼の声が返ってくる。
けれど、今日も何も映らない。
レイシアは視線を伏せた。
もう一度、魔力を流す。
「忙しいなら、返事はあとでいいから」
少し迷ってから、続ける。
「でも、無事なら一言だけでも教えて」
水面は揺れた。
けれど返事はない。
机の端には、送信済みの通信記録が並んでいた。
昨日のもの。
一昨日のもの。
その前の日のもの。
どれも、アルトの名前だけが残っている。
「……嫌われた、わけじゃないよね」
呟いたあとで、レイシアは小さく笑った。
そう思うわけがない。
アルトは優しい。
誰かを無視して、わざと傷つけるような人じゃない。
「そんなわけ、ないよね」
なのに、不安は消えなかった。
水鏡の向こうにいるはずの人が、急にとても遠く感じる。
◇
出発の時間が近づいていた。
レイシアは騎士服の上着を羽織り、聖剣を腰へ戻す。
部屋を出る直前、もう一度だけ水鏡を作った。
「アルト」
今度の声は、いつもの英雄らしいものではなかった。
「次に会えたら、ちゃんと話を聞かせてね」
指先が、少しだけ震える。
「だから……絶対に無茶しないで」
水鏡は淡い光を残したまま、静かに消えた。
◇
王都の地下。
遠距離通信中継室には、無数の光が浮かんでいた。
各地の魔法鏡や水鏡を繋ぐための光。
誰かの家族への言葉。
騎士たちの報告。
恋人へ送る短い約束。
その中に、水色の通信光が一つ、滑り込んでくる。
黒い手袋をつけた人物が、それを受け取った。
光の表面に、宛先が浮かんでいる。
――アルト・ロウェル。
「また水蝶騎士団長からです。どうしますか」
背後にいた人物が、低く尋ねた。
黒い手袋の人物は、感情のない声で答える。
「同じだ」
水色の光を見つめる。
「届けるな」
「ですが、相手は七大魔法騎士です」
「だからこそ、届かせるな」
黒い手袋が、水色の通信光を握り潰した。
水蝶の騎士が送った声は、王都の地下で、誰にも届かないまま砕けた。
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