第3話 属性適性なし
左腕の熱で、目が覚めた。
まだ夜明け前だった。
寮の窓から差し込む薄青い光の中で、僕は掛け布団をめくる。手袋の下にあるはずの黒い紋章が、じくじくと脈打っていた。
昨日よりは薄い。
けれど、消えてはいない。
『腹が減っているな、アルト』
頭の奥で、獣のような声が笑う。
「……黙って」
『隠せばいい。喰わなければいい。いつまで保つ?』
答えずに、僕は手袋をきつく引き上げた。
昨日までなら、手袋なんてただの防寒具だった。
今は違う。
僕の中にいるものを、世界から隠すための布だった。
◇
食堂へ続く廊下には、朝から生徒たちの足音が響いていた。
壁に埋め込まれた魔導灯――魔石の力で光る照明――が、朝の薄暗さを淡く照らしている。
その一つを見た瞬間、左腕が熱くなった。
魔導灯の中にある魔石が、見える。
青白い光の粒が、小さな果実みたいに揺れている。
食べられる。
そんな考えが、自然に浮かんだ。
「……っ」
僕は視線を逸らした。
パンの匂いがする。厨房からスープを運ぶ音が聞こえる。
普通の朝だ。
なのに、世界のどこにでもある魔力が、僕を呼んでいる気がした。
『一口でいい』
「駄目だ」
『誰も気づかん。灯りが少し暗くなるだけだ』
「それでも駄目だ」
小さく呟くと、前方から声が飛んできた。
「アルト!」
振り返る。
ティアナが、少し息を切らして立っていた。
いつもは明るく結んでいる髪も、今日はどこか急いで整えたように見える。僕を探していたのだと、すぐにわかった。
「おはよう」
「おはようじゃないよ。昨日、ちゃんと眠れた?」
「うん。少しだけ」
「少しだけって、眠れてない人の言い方だよね」
ティアナは僕の顔を覗き込んだ。
近い。
慌てて半歩下がると、彼女の視線が僕の左手袋へ落ちた。
「まだ痛む?」
「平気だよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
嘘だった。
痛いというより、怖い。
この手が、いつかティアナの魔力まで欲しがるかもしれないことが。
僕は無意識に左側を庇うように身体を傾けた。
ティアナは一瞬だけ黙った。
でも、理由を聞かなかった。
代わりに僕の制服の袖をそっと掴んで、手袋の端を整えてくれる。
「左が嫌なら、右に立つから」
「ティアナ」
「一人になろうとするのだけは駄目」
言い方は優しいのに、逃げ道がなかった。
「昨日、約束したでしょ」
もう一人でどこかへ行かないで。
あのとき泣きながら言われた言葉を思い出す。
僕は頷いた。
「……うん。ありがとう」
ティアナは少しだけ笑って、僕の右隣に並んだ。
左腕の紋章はまだ疼いていた。
それでも、さっきまでより呼吸がしやすかった。
◇
朝食のあと、僕は教員棟の小さな会議室へ呼ばれた。
迷宮実習中の事故について、話を聞かれるためだ。
扉の前にはロイドがいた。
昨日と同じ制服を着ているのに、ずいぶん小さく見える。顔色は悪く、僕と目が合った瞬間、すぐに俯いた。
「ロイド」
呼ぶと、肩が震えた。
「アルト、僕は……」
そこまで言って、彼は唇を噛む。
言葉が続かない。
昨日のことを、なかったことにされたら嫌だと思った。
でも、今すぐ責める言葉も出てこなかった。
「今は、無理に言わなくていいよ」
「でも……」
「僕も、まだ整理できてないんだ」
ロイドは、何かを言いかけて、結局何も言えなくなった。
僕は会議室の扉を開けた。
中には学院長と数人の教師がいた。
穏やかな顔をした学院長の隣で、年配の教師が書類を机へ置く。
「アルト・ロウェル。君は実習中、許可された範囲を外れた可能性がある」
「……はい」
「封印された深部で発見された以上、偶発的な事故だけで済ませるわけにはいかん。卒業を控えた十回生として、迷宮実習への参加停止、場合によってはさらに重い処分も検討すべきだろう」
胸の奥が沈んだ。
迷宮実習の単位は、卒業後に騎士団へ進むためにも必要だ。
ここで失えば、僕はレイシアの隣に立つどころか、学院を卒業することさえ危うくなる。
「僕は……勝手に深部へ行ったわけじゃありません」
「では、どうしてあの場所に?」
答えられない。
祠のことも、ベルゼバスのことも、灰鴉のことも。
話せばいいのかもしれない。
でも、それで誰が信じてくれるのか。
魔神と契約した最下位の生徒なんて、僕でも怖い。
「わかりません」
結局、そう言うことしかできなかった。
教師たちの空気が少しだけ冷える。
そのとき、学院長が静かに口を開いた。
「アルト・ロウェルが故意に規則を破った証拠はありません」
穏やかな声だった。
けれど、誰も反論できないほどはっきりしていた。
「落下した生徒を、落ちたことだけで罰するつもりはありません」
「しかし、学院長」
「今回の件は、迷宮内の局地的な崩落事故として扱いましょう」
学院長は僕を見た。
「ただし、調査が終わるまで迷宮実習への参加は停止です。必要な実習単位も保留となります」
「……はい」
守られた。
退学にも、重い処分にもならなかった。
それでも、前へ進む道を止められたことに変わりはない。
会議室を出ると、廊下の向こうから小さな声が聞こえた。
「最下位がまた問題を起こしたんだって」
「ティアナ様まで巻き込んだらしいよ」
「卒業、できるのかな」
聞こえないふりをした。
『言い返せ』
ベルゼバスが囁く。
『お前を見下す者どもだ』
「……知らないだけだよ」
『知らぬ者は、いつも安全な場所から石を投げる』
その言葉だけは、否定できなかった。
◇
「アルト」
背後から呼び止められた。
振り返ると、基礎剣術担当のバルト教師が立っていた。
大柄な身体に、使い込まれた革の手袋。いつも訓練場で大声を飛ばしている人なのに、今は不思議なくらい静かだった。
「少し歩くぞ」
学院の裏手にある訓練場まで、並んで歩く。
まだ誰もいない朝の訓練場には、木剣を振った跡がいくつも残っていた。
「お前の魔力が少ないことは知ってる」
バルト教師は言った。
「属性適性なしと診断されていることもな」
その言葉は、何度も聞いてきた。
属性適性なし。
火も、水も、風も、土も。生まれつき得意とされる属性を、僕は一つも持っていない。
魔法騎士になるには、あまりにも不利な診断だった。
「でもな」
バルト教師は、僕の手にある片手剣を見る。
「お前は才能で剣を振っているんじゃない」
「……はい」
「毎日、諦めずに振った剣で立っている」
昨日、黒狼へ向けた剣を思い出した。
怖かった。
逃げたかった。
それでも、剣だけは離せなかった。
「属性適性なしでも、剣まで適性なしだったわけじゃない」
胸の奥で、何かが少しだけ持ち上がった。
「明後日の早朝、ここへ来い」
バルト教師は言った。
「身体強化。短距離加速。剣への魔力纏い。第一階位だけで、お前の戦い方を作り直す」
「……僕でも、ですか」
「お前だからだ」
バルト教師は、僕の肩を強く叩いた。
「逃げるなよ、アルト」
「はい」
今度は、迷わず答えられた。
◇
夜。
寮の消灯後、僕は誰にも見つからないよう学院迷宮へ向かった。
昨日、灰鴉に通された道を、記憶を頼りに進む。
深部の冷たい空気が、肺へ入り込んだ。
「来たか」
灰色の外套をまとった男が、岩壁にもたれていた。
灰鴉。
四十代半ばに見えるその男は、僕を一度だけ見てから、左腕の手袋へ視線を落とした。
「誰かに話したか」
「話してません」
「ベルゼバスの名もか」
「はい」
灰鴉は少しだけ頷く。
「今日は訓練じゃない。お前が口の軽い人間か、確かめたかっただけだ」
「因子って……何なんですか」
会議室を出たあとから、その言葉が引っかかっていた。
灰鴉は、祠の暗闇を見るように目を細める。
「魔神の因子。魔神の力を宿す核だ」
声は低い。
「宿主の魔力も、怒りも、恐怖も喰って育つ。呪いに近いものだ」
左腕が、冷たくなった。
「学院に知られれば、お前は生徒ではなくなる」
「……どうなるんですか」
「研究材料か。兵器か。処分対象だ」
言葉が重く落ちた。
「だから、誰にも話すな」
「灰鴉さんは」
喉が乾く。
「灰鴉さんは、僕を助けてくれるんですか?」
灰鴉はすぐには答えなかった。
「助けたのは、お前を救うためだけじゃない」
やがて、冷たく言う。
「暴食を迷宮の外へ出さないためだ」
わかっていたはずなのに、少しだけ苦しかった。
僕はまだ、誰かに救ってもらえると思っていたのかもしれない。
灰鴉は背を向ける。
「まずは学院で生き残れ」
「……はい」
「剣を持つ資格を、自分で取り戻せ」
灰鴉は振り返らない。
「次に俺が呼ぶまで、ここへは来るな」
◇
寮へ戻ったあとも、眠れなかった。
ベッド脇に置かれた魔法鏡――遠くの相手と声を繋ぐための魔導具――は、暗いままだった。
鏡面に指を触れる。
何度呼びかけても、返事はない。
「……レイシア」
静かな部屋で、僕は小さく呟いた。
「僕は大丈夫だよ」
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