第2話 暴食の魔神ベルゼバス
――喰える。
その声が頭の奥に落ちた瞬間、世界の色が変わった。
黒狼の周囲に漂う魔力が、暗い霧になって見える。
いや、見えるというより――匂う。
焼けた鉄のような、腐った肉のような、それでいてどうしようもなく腹を空かせる匂いだった。
「ぐるるるる……!」
黒狼型の魔獣が、低く唸った。
落下の衝撃で痛む足。血で濡れた制服。手にある剣は、さっきまでと同じ安物の片手剣だ。
なのに左腕だけが、自分のものじゃないみたいに熱かった。
手の甲から肘にかけて、黒い紋章が浮かんでいる。
「なに、これ……」
『我が名はベルゼバス』
声が笑った。
耳ではなく、僕の中で。
『暴食を司る魔神だ』
魔神。
古い神話にだけ名を残す、魔力や魂さえ喰らう禁忌の存在。
学院の座学で聞いたことがある程度だ。実在するなんて、誰も思っていないはずだった。
『喰え、アルト』
黒狼が地を蹴った。
『捨てられた者が生き残るには、奪うしかない』
「っ……!」
牙が迫る。
考える前に、僕は剣を振った。
届かない。
わかっていた。戦闘順位最下位の僕の剣じゃ、あの速さには追いつけない。
黒狼の口内に、黒い光が集まる。
魔力弾。
至近距離で受ければ、身体強化を使っても無事じゃ済まない。
「身体強化――っ!」
全身に残っていたわずかな魔力を巡らせる。
けれど、間に合わない。
黒い弾丸が放たれた。
避けられない。
そう思った瞬間、左腕の紋章が脈打った。
どくん、と。
胸の奥まで響くほど大きく。
次の瞬間、飛んできた魔力弾が、僕の腕へ吸い込まれていた。
「……え?」
黒い光が渦を巻き、紋章の中へ消える。
腕が熱い。
苦しい。
なのに、その熱が身体の隅々へ流れ込んだ。
疲れていた脚に力が戻る。視界が研ぎ澄まされる。黒狼の動きが、少しだけ遅く見えた。
『いいぞ』
ベルゼバスが愉快そうに囁く。
『魔力は食事だ。お前を傷つけるものは、すべて喰らえ』
「これは……僕の力じゃない」
『力に持ち主などない』
黒狼の爪が迫る。
今度は、見えた。
右から振り下ろされる前脚。次に来る牙。踏み込むなら、左。
僕は地面を蹴る。
「短距離加速!」
普段なら二歩分だけ距離を詰めるための、初歩魔法。
それが、黒狼の懐へ滑り込むほどの速度を生んだ。
怖い。
速すぎる。
でも、今は止まれない。
剣を握り直す。
僕が六歳のころから、誰にも褒められなくても振り続けた剣。
魔力が少ない僕に残された、唯一のもの。
「――閃駆!」
最短の踏み込みから、最小の動きで放つ一閃。
僕の切り札は、黒狼の喉元を浅く斬り裂いた。
「ギャアアアアッ!」
黒狼が悲鳴を上げ、壁際へ跳び退く。
浅い。
致命傷じゃない。
だけど、黒狼の身体から漏れ出した魔力が、また僕の左腕へ流れ込んでくる。
止められない。
「やめろ……!」
『なぜだ?』
紋章が、黒い霧を呑み込む。
黒狼が苦しそうに身を震わせた。
それを見た瞬間、胃の奥がひっくり返りそうになった。
僕が喰っている。
生きている魔獣から、力を奪っている。
「やめろって言ってる!」
『腹が減っているだろう?』
黒狼が最後の力を振り絞るように飛びかかってくる。
僕は歯を食いしばり、もう一度だけ剣を振った。
今度は、僕自身の力で。
剣先が魔石のある胸元を貫く。
黒狼の身体が痙攣し、やがて動かなくなった。
静寂が落ちた。
助かった。
そう思ったのに、僕の中の飢えは消えなかった。
むしろ、さっきよりひどくなっていた。
岩壁に染みついた魔力。
足元の土に眠る魔力。
迷宮そのものを流れる、冷たく濃い魔力。
全部が、食べられるものに見える。
『もっとだ』
「……嫌だ」
『もっと喰え』
「嫌だ!」
頭を抱えて蹲る。
それでも、紋章は疼き続ける。
そのときだった。
遠くに、ひときわ甘い魔力を感じた。
土の匂い。
陽だまりと、花のような温かさ。
ティアナの魔力だ。
『上にいる少女か』
ベルゼバスが笑う。
『甘そうだな』
「……っ」
『お前を助けようとして、結局は助けられなかった女だ』
「言うな」
『お前を押した少年の恐怖も、さぞ甘いだろう』
ロイドの顔が浮かんだ。
僕の腕を掴もうとして。
でも、魔獣に怯えた目でティアナの蔦を切った、あの顔。
『憎いだろう?』
「……」
『お前を置いていった。お前だけを、暗い底へ落とした』
胸の奥が痛んだ。
怖かった。
悲しかった。
ロイドに、どうして、って聞きたかった。
けれど。
「ロイドは……怖かっただけだ」
『だから何だ』
「僕だって怖かった」
震える手で、剣を握る。
「でも、誰かを置いていくために強くなりたいんじゃない」
『ならば、何のために喰う?』
「……置いていかれないために」
声が掠れた。
「今度は、ちゃんと誰かの隣に立つために」
ベルゼバスは、少しの間だけ黙った。
けれど飢えは消えない。
むしろ、ティアナの魔力を感じたことで、左腕の紋章は激しく熱を増した。
もし、僕が彼女の前に出たら。
もし、またこの声に負けたら。
「……僕が、ティアナを傷つける前に」
剣を反転させる。
黒い魔力を纏った刃を、自分の左腕へ向けた。
『愚かだな』
「それでも……」
振り下ろそうとした剣が、止まった。
甲高い音が迷宮に響く。
僕の剣を止めていたのは、灰色の外套をまとった男の手だった。
素手だった。
黒い魔力をまとった刃を、男は指二本で挟んでいる。
「自分を傷つけることでしか止められん力なら」
低く、掠れた声だった。
「まだ握るな、坊主」
「……誰、ですか」
「名乗るほどの者じゃない」
男は僕の左腕を見た。
黒い紋章を見た瞬間だけ、その目が鋭く細められる。
「暴食か」
ベルゼバスが、初めて警戒した気配を見せた。
『……灰色の鳥め』
「知ってるんですか」
「知りたくもなかった」
男は僕の剣を押し返す。
たったそれだけで、身体が大きくよろめいた。
「その力はな。お前が守りたいものから先に喰らう」
「僕は……どうすれば」
「制御しろ」
男の拳が、僕の腹へ沈んだ。
「がっ――!?」
息が止まる。
膝をついた僕の首筋へ、老人の指が軽く触れた。
次の瞬間、暴れていた黒い魔力が、嘘のように散った。
意識が遠のく。
「覚えておけ」
薄れていく視界の中で、男の声だけが残った。
「力に選ばれたと思うな」
「お前が、力を選び続けろ」
◇
目を覚ましたとき、僕は迷宮の入口近くにある休憩所の長椅子に寝かされていた。
「アルト!」
名前を呼ばれた直後、柔らかい衝撃が胸に飛び込んできた。
「ティアナ……?」
「馬鹿! 馬鹿アルト!」
ティアナが僕にしがみついていた。
肩が震えている。
いつも明るい彼女の声が、泣き声でぐしゃぐしゃだった。
「助けてって言ったのに……先生たち、封印された場所だからすぐには入れないって……っ」
「ごめん」
「心配なんて言葉で済ませないでよ……!」
ティアナは顔を上げ、僕の左手を両手で包んだ。
温かい。
さっきまであれほど飢えていたのに、その温度に触れた途端、少しだけ呼吸ができるようになった。
「もう一人で、どこかへ行かないで」
翠の瞳が、真っ直ぐに僕を見る。
「次は、ちゃんと帰ってきて」
「……うん」
僕は頷いた。
「約束する。次は、ちゃんと帰ってくる」
ティアナの指が、少しだけ強く僕の手を握った。
その向こうに、ロイドがいた。
顔は青ざめ、制服は泥だらけだった。
僕と目が合うと、彼は一歩だけ近づく。
「アルト、僕は……」
でも、その先が出てこない。
僕は少し迷ってから、言った。
「怖かったんだよね」
ロイドの顔が歪んだ。
「……うん」
「僕も、怖かった」
「違う」
ロイドは唇を震わせた。
「大丈夫じゃないんだ。怖かったからって……僕は、アルトを……」
言葉は最後まで続かなかった。
僕にも、今すぐ何を言えばいいのかわからない。
だから、責めることも、許すこともできなかった。
「今は、休もう」
それだけ言うと、ロイドは俯いた。
◇
その夜。
寮のベッドに横になっても、眠れなかった。
左腕の紋章は消えていない。
月明かりの中で、黒く脈打っている。
『明日の夜、あいつのもとへ行け』
ベルゼバスの声がした。
「……灰鴉」
『生きたいなら、俺を飼い慣らせ』
紋章が、どくん、と鳴る。
『――次に飢えた時、お前が喰うのは魔獣だけでは済まない』
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