第2話 暴食の魔神ベルゼバス
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
――喰える。
その声が頭の奥に落ちた瞬間、世界の色が変わった。
黒狼の周囲に漂う魔力が、暗い霧になって見える。
いや、見えるというより――匂う。
焼けた鉄のような、腐った肉のような、それでいてどうしようもなく腹を空かせる匂いだった。
「ぐるるるる……!」
黒狼型の魔獣が、低く唸った。
落下の衝撃で痛む足。血で濡れた制服。手にある剣は、さっきまでと同じ安物の片手剣だ。
なのに左腕だけが、自分のものじゃないみたいに熱かった。
手の甲から肘にかけて、黒い紋章が浮かんでいる。
「なに、これ……」
『我が名はベルゼバス』
声が笑った。
耳ではなく、僕の中で。
『暴食を司る魔神だ』
魔神。
古い神話にだけ名を残す、魔力や魂さえ喰らう禁忌の存在。
学院の座学で聞いたことがある程度だ。実在するなんて、誰も思っていないはずだった。
『喰え、アルト』
黒狼が地を蹴った。
『捨てられた者が生き残るには、奪うしかない』
「っ……!」
牙が迫る。
考える前に、僕は剣を振った。
届かない。
わかっていた。戦闘順位最下位の僕の剣じゃ、あの速さには追いつけない。
黒狼の口内に、黒い光が集まる。
魔力弾。
至近距離で受ければ、身体強化を使っても無事じゃ済まない。
「身体強化――っ!」
全身に残っていたわずかな魔力を巡らせる。
けれど、間に合わない。
黒い弾丸が放たれた。
避けられない。
そう思った瞬間、左腕の紋章が脈打った。
どくん、と。
胸の奥まで響くほど大きく。
次の瞬間、飛んできた魔力弾が、僕の腕へ吸い込まれていた。
「……え?」
黒い光が渦を巻き、紋章の中へ消える。
腕が熱い。
苦しい。
なのに、その熱が身体の隅々へ流れ込んだ。
疲れていた脚に力が戻る。視界が研ぎ澄まされる。黒狼の動きが、少しだけ遅く見えた。
『いいぞ』
ベルゼバスが愉快そうに囁く。
『魔力は食事だ。お前を傷つけるものは、すべて喰らえ』
「これは……僕の力じゃない」
『力に持ち主などない』
黒狼の爪が迫る。
今度は、見えた。
右から振り下ろされる前脚。次に来る牙。踏み込むなら、左。
僕は地面を蹴る。
「短距離加速!」
普段なら二歩分だけ距離を詰めるための、初歩魔法。
それが、黒狼の懐へ滑り込むほどの速度を生んだ。
怖い。
速すぎる。
でも、今は止まれない。
剣を握り直す。
僕が六歳のころから、誰にも褒められなくても振り続けた剣。
魔力が少ない僕に残された、唯一のもの。
「――閃駆!」
最短の踏み込みから、最小の動きで放つ一閃。
僕の切り札は、黒狼の喉元を浅く斬り裂いた。
「ギャアアアアッ!」
黒狼が悲鳴を上げ、壁際へ跳び退く。
浅い。
致命傷じゃない。
だけど、黒狼の身体から漏れ出した魔力が、また僕の左腕へ流れ込んでくる。
止められない。
「やめろ……!」
『なぜだ?』
紋章が、黒い霧を呑み込む。
黒狼が苦しそうに身を震わせた。
それを見た瞬間、胃の奥がひっくり返りそうになった。
僕が喰っている。
生きている魔獣から、力を奪っている。
「やめろって言ってる!」
『腹が減っているだろう?』
黒狼が最後の力を振り絞るように飛びかかってくる。
僕は歯を食いしばり、もう一度だけ剣を振った。
今度は、僕自身の力で。
剣先が魔石のある胸元を貫く。
黒狼の身体が痙攣し、やがて動かなくなった。
静寂が落ちた。
助かった。
そう思ったのに、僕の中の飢えは消えなかった。
むしろ、さっきよりひどくなっていた。
岩壁に染みついた魔力。
足元の土に眠る魔力。
迷宮そのものを流れる、冷たく濃い魔力。
全部が、食べられるものに見える。
『もっとだ』
「……嫌だ」
『もっと喰え』
「嫌だ!」
頭を抱えて蹲る。
それでも、紋章は疼き続ける。
そのときだった。
遠くに、ひときわ甘い魔力を感じた。
土の匂い。
陽だまりと、花のような温かさ。
ティアナの魔力だ。
『上にいる少女か』
ベルゼバスが笑う。
『甘そうだな』
「……っ」
『お前を助けようとして、結局は助けられなかった女だ』
「言うな」
『お前を押した少年の恐怖も、さぞ甘いだろう』
ロイドの顔が浮かんだ。
僕の腕を掴もうとして。
でも、魔獣に怯えた目でティアナの蔦を切った、あの顔。
『憎いだろう?』
「……」
『お前を置いていった。お前だけを、暗い底へ落とした』
胸の奥が痛んだ。
怖かった。
悲しかった。
ロイドに、どうして、って聞きたかった。
けれど。
「ロイドは……怖かっただけだ」
『だから何だ』
「僕だって怖かった」
震える手で、剣を握る。
「でも、誰かを置いていくために強くなりたいんじゃない」
『ならば、何のために喰う?』
「……置いていかれないために」
声が掠れた。
「今度は、ちゃんと誰かの隣に立つために」
ベルゼバスは、少しの間だけ黙った。
けれど飢えは消えない。
むしろ、ティアナの魔力を感じたことで、左腕の紋章は激しく熱を増した。
もし、僕が彼女の前に出たら。
もし、またこの声に負けたら。
「……僕が、ティアナを傷つける前に」
剣を反転させる。
黒い魔力を纏った刃を、自分の左腕へ向けた。
『愚かだな』
「それでも……」
振り下ろそうとした剣が、止まった。
甲高い音が迷宮に響く。
僕の剣を止めていたのは、灰色の外套をまとった男の手だった。
素手だった。
黒い魔力をまとった刃を、男は指二本で挟んでいる。
「自分を傷つけることでしか止められん力なら」
低く、掠れた声だった。
「まだ握るな、坊主」
「……誰、ですか」
「名乗るほどの者じゃない」
男は僕の左腕を見た。
黒い紋章を見た瞬間だけ、その目が鋭く細められる。
「暴食か」
ベルゼバスが、初めて警戒した気配を見せた。
『……灰色の鳥め』
「知ってるんですか」
「知りたくもなかった」
男は僕の剣を押し返す。
たったそれだけで、身体が大きくよろめいた。
「その力はな。お前が守りたいものから先に喰らう」
「僕は……どうすれば」
「制御しろ」
男の拳が、僕の腹へ沈んだ。
「がっ――!?」
息が止まる。
膝をついた僕の首筋へ、老人の指が軽く触れた。
次の瞬間、暴れていた黒い魔力が、嘘のように散った。
意識が遠のく。
「覚えておけ」
薄れていく視界の中で、男の声だけが残った。
「力に選ばれたと思うな」
「お前が、力を選び続けろ」
◇
目を覚ましたとき、僕は迷宮の入口近くにある休憩所の長椅子に寝かされていた。
「アルト!」
名前を呼ばれた直後、柔らかい衝撃が胸に飛び込んできた。
「ティアナ……?」
「馬鹿! 馬鹿アルト!」
ティアナが僕にしがみついていた。
肩が震えている。
いつも明るい彼女の声が、泣き声でぐしゃぐしゃだった。
「助けてって言ったのに……先生たち、封印された場所だからすぐには入れないって……っ」
「ごめん」
「心配なんて言葉で済ませないでよ……!」
ティアナは顔を上げ、僕の左手を両手で包んだ。
温かい。
さっきまであれほど飢えていたのに、その温度に触れた途端、少しだけ呼吸ができるようになった。
「もう一人で、どこかへ行かないで」
翠の瞳が、真っ直ぐに僕を見る。
「次は、ちゃんと帰ってきて」
「……うん」
僕は頷いた。
「約束する。次は、ちゃんと帰ってくる」
ティアナの指が、少しだけ強く僕の手を握った。
その向こうに、ロイドがいた。
顔は青ざめ、制服は泥だらけだった。
僕と目が合うと、彼は一歩だけ近づく。
「アルト、僕は……」
でも、その先が出てこない。
僕は少し迷ってから、言った。
「怖かったんだよね」
ロイドの顔が歪んだ。
「……うん」
「僕も、怖かった」
「違う」
ロイドは唇を震わせた。
「大丈夫じゃないんだ。怖かったからって……僕は、アルトを……」
言葉は最後まで続かなかった。
僕にも、今すぐ何を言えばいいのかわからない。
だから、責めることも、許すこともできなかった。
「今は、休もう」
それだけ言うと、ロイドは俯いた。
◇
その夜。
寮のベッドに横になっても、眠れなかった。
左腕の紋章は消えていない。
月明かりの中で、黒く脈打っている。
『明日の夜、あいつのもとへ行け』
ベルゼバスの声がした。
「……灰鴉」
『生きたいなら、俺を飼い慣らせ』
紋章が、どくん、と鳴る。
『――次に飢えた時、お前が喰うのは魔獣だけでは済まない』
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