第1話 迷宮で、僕は捨てられた
水蝶の騎士が、海の向こうで巨大な魔獣を斬った朝。
僕の剣は、藁人形に浅い傷しか残せなかった。
「……また、駄目だ」
木剣を引く。
刃には、淡い光が纏わりついていた。
第一階位魔法――子どもが最初に習う、もっとも弱い基礎魔法の一つだ。剣を少しだけ硬くして、少しだけ切れ味を上げる。
けれど、僕の魔力は少ない。
剣へ流し込んでも、数秒で霧みたいに消えてしまう。
藁人形の胸に残ったのは、紙を裂いたような細い傷だけだった。
王立アウレリス英雄学院。
六歳から十年間、騎士や魔法使いを育てる学院。その最終学年である十回生に、僕はいる。
なのに使える魔法は、身体強化、短距離加速、剣への魔力纏いだけ。
才能のある生徒なら、入学して数年で通り過ぎていくものばかりだった。
それでも、僕は木剣を構える。
振る。
振る。
振る。
手のひらは硬くなり、指の付け根は何度も破れた。
それでも剣を置かなかった。
遠くで鐘が鳴った。
順位発表を告げる鐘だ。
「……行かなきゃ」
行きたくはない。
でも、見ないふりをしたら、本当に終わってしまう気がした。
◇
学院中央広場には、十回生が集められていた。
空中に浮かぶ巨大な魔法板へ、青い文字が刻まれていく。
戦闘順位。
座学順位。
実戦単位。
実戦単位とは、迷宮実習や模擬戦で得られる騎士候補としての評価だ。卒業後に騎士団の選抜を受けるには、一定以上の単位がいる。
「おはよう、アルト」
後ろから、明るい声がした。
振り返ると、蜂蜜色の髪を揺らしたティアナ・テラフォードが立っていた。
土と植物の魔法が得意な少女で、土亀騎士団長の娘でもある。周囲からは“土姫”と呼ばれているけれど、僕はその呼び方があまり好きじゃない。
「ティアナ、おはよう」
「また朝練してたでしょ」
「うん。少しだけ」
「少しだけ、でその手になる?」
ティアナは僕の右手を取った。
剣だこだらけの手のひらを、両手でそっと包む。
「痛くない?」
「平気だよ」
「嘘」
彼女は持っていた小さな布を、水筒の水で濡らした。
冷たい布が、破れた皮膚へ当てられる。
「ティアナ、自分の準備もあるのに」
「アルトのこと、放っておけないもん」
顔が近い。
彼女の髪から、花みたいな甘い香りがした。
僕は少しだけ視線を逸らした。
「……ありがとう」
「どういたしまして。でも、無茶しないって約束して」
「それは、努力しないって意味じゃない?」
「違うよ。アルトが壊れないように頑張るって意味」
ティアナはそう言って、僕の手に布を巻いた。
まるで、大切なものを扱うみたいに。
魔法板が光る。
十回生・戦闘順位
第一位 レグルス・ヴァルモント
第二位 フィア・ヴァルティエ
――
第百八十四位 アルト・ロウェル
広場に、抑えきれない笑いが漏れた。
「また最下位か」
「十年も学院にいて、まだ第一階位しか使えないんだろ?」
「水蝶の騎士と同じ孤児院出身なのに、ずいぶん違うな」
聞こえている。
聞こえないふりをするのは、慣れた。
でも、次に浮かんだ文字だけは、慣れなかった。
実戦単位 不足
騎士団入団選抜資格 現時点でなし
足りない単位は十三。
卒業まで残り半年。
このままなら、僕は騎士になれない。
レイシアの隣に立つどころか、彼女と同じ騎士団の門さえ叩けない。
「座学は一位だよ」
ティアナが言った。
「すごいじゃん」
「戦えなければ、意味ないよ」
「そんなことない」
ティアナは、僕の前に一歩出た。
「アルトは逃げない。できないからって、剣を置いたことないでしょ」
周囲の声が少しだけ静かになる。
僕は何も言えなかった。
そのとき、広場の魔法映像板が切り替わった。
灰色の海。
崩れた断崖。
その上で、銀青の髪を風に揺らす少女が立っている。
『北海戦線に現れた巨大魔獣を、水蝶騎士団が討伐。団長レイシア・ロウェルは単独で――』
レイシア・ロウェル。
僕の幼なじみ。
そして七大魔法騎士――神界の扉を封じる、王国最強の七人の一人。
映像の中で、レイシアは聖剣を抜いた。
海水が青白い蝶の群れになり、空を覆う。
次の瞬間、光が走った。
巨大魔獣は真っ二つになり、海へ沈んだ。
「水蝶の騎士、また一人で倒したのかよ」
「十六歳で七大魔法騎士って、本当に化け物だな」
「同じロウェルでも、片方は英雄で、片方は最下位か」
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
映像の中のレイシアは、勝っているのに笑っていなかった。
ただ、遠いどこかを見ていた。
「会いたい?」
ティアナが聞いた。
「……会っても、何を話せばいいか分からないよ」
「アルト」
「追いつくって約束したのに。僕は、まだここにいる」
ティアナは少し黙った。
それから、さっき包帯を巻いた僕の手を、もう一度握った。
「じゃあ、追いつこうよ」
その瞬間。
警報の鐘が鳴った。
『迷宮第一層で異常を確認。実戦単位不足者を対象に、補助実習を行います』
迷宮は、学院が訓練用に管理する地下空間だ。
普段なら危険度の低い魔物しか出ない。生徒たちはそこへ入り、騎士として必要な実戦経験と単位を得る。
僕の魔法板に、通知が浮かんだ。
補助実習
完了時:実戦単位 三
失格時:今期の補填機会なし
「行くよ」
僕は言った。
「うん。私も」
◇
迷宮第一層へ入ったとき、最初に感じたのは空気の重さだった。
壁の魔導灯が、青ではなく赤黒く明滅している。
大気に漂う魔力の源――魔素が、濁っているように感じた。
「嫌な感じ」
ティアナが石壁へ手を当てる。
指先から細い根が伸びた。
根は壁の隙間へ潜ったが、数秒で黒く変色し、枯れてしまう。
「魔素が腐ってる」
「腐ることなんてあるの?」
「普通はないよ」
僕たちの前を歩いていたロイド・アッシュベルが、振り返った。
戦闘順位二十七位。今回の補助実習で、僕たちを守る役に志願した生徒だ。
「ティアナ様は後ろへ。何かあれば、俺が対応します」
「私も戦えるよ」
「もちろんです。ただ……」
ロイドは、僕を見た。
「アルト・ロウェルまで守りながらでは、万全とは言えません」
言い方はきつくなかった。
むしろ、少し怯えているように聞こえた。
「ごめん」
僕は言った。
「僕が足を引っ張らないようにする」
「アルトは足手まといじゃない」
ティアナがすぐに言う。
「私はアルトと組みたいから、ここにいるの」
ロイドは返事をしなかった。
迷宮の奥から、獣の咆哮が響いた。
石壁が震える。
魔導灯が、一斉に消えた。
暗闇の向こうで、赤黒い目が開く。
狼に似た魔物だった。
けれど、その身体の半分は黒い靄でできている。
普通の魔物じゃない。
「下がって!」
ティアナが両手を広げる。
石畳から太い蔦が伸び、壁になった。
黒狼が壁へ突っ込む。
蔦が、触れた場所から腐った。
砕けた壁の向こうから、黒い爪がティアナへ伸びる。
「ティアナ!」
考えるより先に、身体が動いた。
第一階位・加速。
少ない魔力を脚へ押し込む。
世界が、ほんの少しだけ遅くなる。
僕はティアナの前へ滑り込み、剣を振った。
爪を弾く。
腕に衝撃が走った。
剣が軋む。
「アルト!」
「大丈夫。ロイド、ティアナを連れて――」
黒狼が再び跳んだ。
僕はティアナを押し、爪を受け止める。
肩が裂けた。
痛みで息が止まる。
それでも、ティアナが無事ならいい。
「帰還石を!」
ロイドが叫んだ。
帰還石は、迷宮で危険に遭った生徒を入口近くへ戻すための魔導具だ。
ロイドが石を起動する。
足元に白い魔法陣が広がった。
けれど、黒狼の魔力が周囲を歪ませる。
魔法陣は二人分ほどの大きさしかない。
「三人は無理だ」
ロイドの顔から、血の気が引いた。
黒狼が迫る。
足元の石畳が、異常な魔力で崩れ始める。
「ティアナ、先に行って」
僕は言った。
「嫌!」
「僕が時間を稼ぐ。ロイド、ティアナを頼む」
「アルト、置いていかない!」
ティアナが蔦を伸ばす。
僕の腕へ絡みつく。
そのとき、足元が崩れた。
僕の身体が、闇へ傾く。
ティアナの蔦が辛うじて僕を掴んだ。
「手を離さないで!」
「ティアナ、無理しないで!」
黒狼が、ロイドへ飛びかかった。
ロイドは魔法陣の中にいた。
恐怖に歪んだ目で、僕を見た。
僕の手。
ティアナの蔦。
すぐ後ろにいる黒狼。
「ロイド……!」
僕は助けを求めた。
ロイドの手が、僕へ伸びる。
助かると思った。
でも、彼の指は僕ではなく、ティアナの腕を掴んだ。
「ごめん」
かすれた声だった。
次の瞬間。
ロイドは、僕の手を掴む蔦を剣で断った。
「ロイド……!」
「僕だって、死にたくないんだ!」
叫びだった。
僕を憎んでいる声じゃない。
怖くて、どうしようもなくなった人の声だった。
ティアナがロイドを振り払おうとする。
けれど帰還石の魔法陣が光り、彼女の身体を包む。
「アルト――!」
伸ばされた手が、遠ざかる。
僕は、闇の底へ落ちた。
◇
どれくらい落ちたのか、分からない。
背中を強く打ちつけ、息が潰れた。
左足に激痛が走る。
「……っ、ぐ……」
暗い。
上から落ちる光もない。
僕は震える手で剣を探し、なんとか握り直した。
立ち上がろうとして、すぐに膝をつく。
痛い。
怖い。
地上に戻れる気がしない。
それでも。
「ティアナが……待ってる」
僕が帰らなければ、彼女は自分を責める。
レイシアにも、もう会えない。
そんなのは嫌だった。
背後で、爪が石を削る音がした。
振り返る。
黒狼がいた。
壁を駆け下り、僕を追ってきたのだ。
「……まだ、来るの」
魔力はほとんど残っていない。
足は動かない。
それでも僕は剣を構えた。
黒狼が跳ぶ。
身体強化。
加速。
魔力纏い。
残ったすべてを使った。
剣を振る。
届かない。
黒狼の爪が僕を弾き飛ばす。
背中が、何かへぶつかった。
古びた黒い祠。
獣の口のような穴が、中央に開いている。
僕の血が、祠へ落ちた。
『――捨てられたな』
声がした。
耳ではない。
頭の奥で、獣が笑う声。
『お前を置いて、二人は地上へ帰った』
「……違う」
『違わぬ。あの男は、お前を選ばなかった』
ロイドの顔が浮かぶ。
恐怖に歪んだ顔。
あれは悪意じゃなかった。
でも。
僕は、落とされた。
『憎め』
黒狼が近づく。
『怒れ。喰らえ。お前を捨てた者たちを、すべて喰らえ』
喉が震えた。
怖い。
悔しい。
ロイドを許せるかなんて、今は分からない。
それでも。
「僕は、誰かを置いていくために強くなりたいんじゃない」
祠の闇が揺れる。
「僕は、置いていかれないために強くなる」
レイシアの横に立つ。
ティアナが伸ばした手を、今度は僕が掴む。
「だから……ここで終われない」
黒狼が牙を剥いた。
祠の闇が、大きく口を開く。
『ならば契約しろ』
黒い何かが、僕の右腕へ噛みついた。
焼けるような痛みが走る。
「ぁ、ああああっ!」
『お前の飢えを否定するな』
右腕に、黒い紋章が浮かぶ。
『生きたい。守りたい。追いつきたい』
腹の底が、壊れそうなほど空っぽになる。
『そのすべてを、我に差し出せ』
僕は、黒狼を見た。
「いい」
震える声で答える。
「何度でも飢える」
黒狼が、初めて後ずさった。
「だから僕は、生きて帰る」
瞳が、黒金に染まる。
『契約成立――アルト・ロウェル』
世界が、急に鮮明になった。
黒狼の身体を巡る魔力が見える。
それは、僕の腹の奥にある飢えが、欲しがっているものだった。
――喰える。
「面白かった!」
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