第47話 守るための暴食
僕の左手は、眷属の胸奥に露出した黒い核へ向いていた。
飢えた感覚が、あれを喰えと叫んでいる。
けれど、喰ってはいけない。
「待って。まだ喰えない」
僕の声に、三人の動きが止まる。
肋骨のような装甲の奥で、核は生き物の心臓のように脈打っていた。そこから伸びる無数の黒い線が、眷属の四肢や大きな口へ繋がっている。
「核そのものは喰えない。まだ眷属の身体と繋がってる」
「なら、どうするの?」
ティアナが問いながらも、根で僕の足元を支え続ける。
「核から外へ出て、本体から切り離された魔力なら喰える。ただ、他の魔力と区別できる印が必要だ」
僕の左腕はまだ熱い。
袖の下で黒い紋章が疼くたび、ティアナたちの内側にある魔力まで甘い匂いを放った。
『印など捨てろ』
ベルゼバスの声が、頭蓋の内側を爪で引っ掻く。
『すべて喰え。核も、獣も、三人も喰え』
吐き気を噛み殺し、僕は核だけを見る。
一つを、一呼吸だけ喰う。
第21話から何度も繰り返してきた、暴食へ呑まれないための制限。
第43話では、その限定さえ眷属に逆利用された。
だから今度は、僕一人で対象を決めない。
「印なら、私が付ける」
ティアナが低く答えた。
彼女は自分の足元から伸びる根へ視線を落とす。
「でも、私の魔力を混ぜたら、それまで一緒に喰われるかもしれないんだよね?」
「うん。敵の魔力そのものに、違いを作ってほしい」
「分かった。やってみる」
迷いのない返事だった。
けれど、その指先はわずかに震えている。
失敗すれば、僕が彼女の魔力を喰うかもしれない。それでもティアナは逃げず、土へ両手を触れた。
外側へ広げていた細い根が、黒い魔力の流れへ一本ずつ絡みつく。
植物が敵味方を勝手に見分けているわけではない。
ティアナ自身が目で追い、眷属から流れ出した黒い筋だけを選んでいた。
「印を付ける」
根が黒い魔力を締める。
短く。
もう一度、短く。
最後に、長く。
黒い流れへ、三拍の歪みが刻まれた。
ティアナの魔力が混ざったわけではない。根によって外から締めつけられ、敵の魔力そのものが独特の脈動を残したのだ。
「アルトは、この三拍だけを追って。長くは残らないから、一呼吸くらいが限界だよ」
僕の空腹の中にも、その違いが見えた。
短く、短く、長く。
無数の食べ物に見えていた魔力の中で、その一塊だけが三度脈打っている。
「次は私が切る」
フィアが細剣を構えた。
右手の傷の名残が赤くなっている。それでも彼女の切っ先は揺れない。
再生していた黒い接続線が、ティアナの根へ伸びた。
フィアの細剣へ雷が一瞬だけ走る。
白い軌跡が閃き、根へ絡もうとした一本が断たれた。
「一つ」
続いて、黒い線がフィアの細剣に残った雷へ食らいつこうとする。
彼女は雷をすぐに消し、脈動した瞬間だけを斬った。
「二つ」
細い風へ伸びた線も切る。
「三つ」
僕の左腕を目指して這ってきた線が、床すれすれで跳ねた。
フィアが半歩だけ踏み込み、剣先で正確に断ち切る。
「四つ。仲間へ繋がる線は全部切る」
散った黒い魔力が石壁へ染みを作る。
僕はそれを喰わない。
三拍の印がない。僕が選んだものではない。
眷属が大口を開き、低い唸りを漏らした。
閉じ始めていた肋骨状の装甲が、核を守ろうと重なっていく。
「閉じさせるものか」
レグルスが銀槍を握り直した。
落下時に負った肩の傷から、制服へ新しい赤が滲んでいる。
それでも彼は退かない。
銀槍の穂先ではなく、柄に近い部分を装甲の隙間へ滑り込ませた。
「核は僕が開く」
足を踏みしめ、槍を梃子にする。
軋む音とともに、重なりかけた黒い装甲が押し戻された。
その奥で核が大きく脈打つ。
レグルスは核を刺さない。
細く絞った風だけを装甲の隙間へ送り込み、周囲の黒い霧を左右へ押し退けた。
枝分かれしていた魔力の流れが開き、核から僕の左手まで、一本の空間が通る。
「一本道だけを見ろ」
「分かった」
けれど、眷属も黙ってはいなかった。
黒い核が、これまでで最も大きく膨らむ。
「主の器よ。飢えを満たせ」
次の瞬間、核から大量の黒い魔力が噴き出した。
濁流だった。
一本道を埋め尽くし、僕たち四人をまとめて押し潰そうと迫ってくる。
その左右には、細い黒い魔力が何本も散っていた。
同じように見える。けれど、本流ではない。
「囮まで印を付けたら駄目だ!」
「見えてる!」
ティアナが根を操る。
迫る濁流の中心だけを選び、外側から締めつけた。
短く。
短く。
長く。
三拍の脈動が、黒い濁流の主流へ走る。
囮の魔力には何も残らない。
「印は付いた!」
眷属はさらに魔力を重ねようとする。
切ったはずの黒い線も、核から再び伸び始めていた。
一本がティアナへ。
一本がレグルスの風へ。
もう一本が、僕の左腕へ。
フィアが駆けた。
長い金髪が黒い濁流の前で翻る。
細剣へ走る雷は、瞬きより短い。
一本。
二本。
三本。
再接続しようとする線だけを、脈打つ瞬間に断っていく。
最後に残ったのは、核と印付きの濁流を繋ぐ太い一本だった。
「最後に核との線を切れば、あれは放出済みの魔力になる」
フィアが細剣を両手で支える。
右手が震えた。
それでも踏み込みは鈍らない。
「切る!」
雷光が走った。
核から伸びていた線が裂け、印付きの黒い濁流が眷属本体から切り離される。
同時にレグルスが風を絞り、散らばろうとする濁流を一本道へ戻した。
「道は一本だ!」
黒い濁流が僕へ迫る。
ティアナの三拍がある。
仲間への線はない。
核との接続も切れている。
眷属から放出され、すでに本体から離れた魔力だ。
条件は揃った。
『口を閉じるな』
ベルゼバスが吠える。
『印など見るな。核も、獣も、三人も喰え!』
胃が裏返りそうになる。
唾液が溢れ、左腕の痛みで視界が明滅した。
それでも、もう三人は食べ物に見えない。
ティアナが印を作った。
フィアが接続を断った。
レグルスが道を通した。
僕がすべきことは、最後の一つを選ぶことだけだ。
「一つだけ」
僕は息を吸う。
「一呼吸だけ」
半ば開いたままだった暴食へ、新しく口を開かせるのではない。
今ある飢えへ、たった一度だけ喰うことを許す。
「僕が喰うのは、印の付いた敵の魔力だけだ」
左腕の紋章が熱を放った。
黒い濁流が一気に引き寄せられる。
短く、短く、長く。
三拍の印を持つ魔力だけが、細い渦となって僕の袖口へ吸い込まれていった。
その横を、印のない囮が通り過ぎる。
暴食はそちらへ口を広げようとする。
「違う」
僕は歯を食いしばった。
印のないものは喰わない。
床へ散った魔力も喰わない。
再生しかけた接続線も喰わない。
核は喰わない。
眷属の身体も喰わない。
ティアナの根も、フィアの雷も、レグルスの風も喰わない。
奥で弱く灯る三人分の生命反応も、絶対に喰わない。
僕が選んだのは、三拍を刻まれた有限の一塊だけだ。
「アルト、あと半分!」
フィアの声が届く。
印の脈動が薄れ始めていた。
ティアナの根が、もう一度だけ濁流を締める。
短く、短く、長く。
消えかけた印が、一瞬だけ戻った。
レグルスは一本道を維持しながら、僕の左腕へ流れ込まないよう風を外側へ逃がしている。
そして、最後の三拍が僕の腕へ消える直前、彼は風を止めた。
余計な魔力が道から消える。
印付きの黒い濁流、その最後の一筋が吸い込まれた。
「今!」
ティアナが根への魔力供給を切った。
根はただの植物へ戻り、黒い流れから離れる。
フィアが再生しかけていた最後の接続線を断つ。
レグルスが槍を引き、印のない残滓を横へ逃がした。
僕は息を吐く。
一呼吸が終わる。
「閉じろ……!」
左腕の奥で、巨大な顎が抵抗した。
『まだ足りぬ』
ベルゼバスの爪が意識へ食い込む。
『喰え。すべて喰え』
「喰わない!」
僕一人の力だけではなかった。
ティアナが余分な魔力を遠ざけている。
フィアが繋がろうとする線を断ち続けている。
レグルスが残った黒い魔力を僕から逸らしている。
新しく口へ入ってくるものがなくなった、その一瞬。
僕は左手を握り込んだ。
袖の下で暴食の口が閉じる。
途端に、胃を内側から削られるような空腹が襲った。
「うっ……!」
膝が落ちる。
吐き気とともに冷や汗が噴き出し、左腕を焼けた杭で貫かれたような痛みが走った。
ティアナの根が僕の身体を受け止める。
「アルト!」
「大丈夫……とは言えない。でも、動ける」
嘘はつかない。
足には力が入る。意識もある。
けれど、同じことを一人でもう一度できるとは思えなかった。
印がなければ、敵の魔力だけを見分けられない。
接続線が残っていれば、本体や仲間まで巻き込む。
一本道がなければ、印のない魔力まで口へ入る。
三人のうち、誰が欠けても成立しなかった。
これは暴食を支配した力ではない。
四人で条件を作り、かろうじて閉じられただけだ。
重い音が通路へ響いた。
眷属の四本の脚から黒い魔力が抜け、順番に折れ曲がる。
肋骨状の装甲も形を保てず、石床へ崩れ落ちた。
大きな口が開閉する。
けれど、もう黒い攻撃は放たれない。
装甲の奥には、暗くなった核が残っていた。
壊れてはいない。
喰ってもいない。
眷属そのものも消滅せず、僅かに身じろぎしている。それでも、追ってくる力は残されていなかった。
「戦闘不能、というところか」
レグルスが銀槍を構えたまま告げる。
「止めを刺す?」
ティアナが尋ねると、僕は首を横へ振った。
「核が何に繋がってるか分からない。今は救助が先だよ」
「同意する。学院長から与えられた任務も、犯人追跡ではなく救助だ」
レグルスが携帯用の計測板を拾う。
ひびの入った板には、三つの弱い光が残っていた。
一つは、今にも消えそうなほど小さい。
「まだ三人とも反応がある」
フィアが奥を見る。
眷属が塞いでいた先には、さらに下へ続く暗い通路が現れていた。
通信は戻っていない。
外側からの助けも来ない。
僕の左腕には痛みが残り、胃は何も入っていないかのように飢えている。
それでも、三人の魔力へ重なっていた食べ物の感覚は薄れていた。
「行ける?」
ティアナが聞く。
僕は一度だけ深く呼吸し、立ち上がった。
「うん。急ごう」
四人で進む。
今度こそ、奥にいる三人も連れて戻るために。
一つを、一呼吸だけ――それは僕が暴食を支配した証ではなく、四人で誰かを守るために選び取った、たった一口だった。
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