第46話 アルト
「器に名はいらぬ」
ベルゼバスの声が、頭蓋の内側を満たす。
僕の左手はティアナへ伸びたまま、三人の力で止められていた。
魔力を失った根が、左肘と両足へ食い込んでいる。
フィアの鞘が手首を押し上げ、レグルスの銀槍の柄が胸元を押し戻していた。
それでも、袖の下の口は閉じない。
三人の身体を巡る魔力が、食事の形を取り続けている。
「口は選ばぬ」
ティアナの土。
フィアの雷。
レグルスの風。
どれも近い。
眷属の核より、ずっと近くにある。
「近いものから喰え」
左腕へ力が戻る。
ティアナの根が、乾いた音を立てた。
「っ……!」
根の一本が裂ける。
魔力を切られた植物は、もう成長も再生もできない。物理的な縄として僕を押さえているだけだ。
このまま力をかけ続ければ、すべて千切れる。
「離れて……」
声を絞り出す。
「まだ、止まってない」
「分かってる」
ティアナは逃げない。
左手が届く距離から、僕を見上げている。
怖いはずなのに。
その恐怖まで、今の僕には魔力を甘くする香りのように感じられた。
違う。
恐怖は味じゃない。
ティアナは食事じゃない。
そう考えるたび、ベルゼバスの声が上から塗り潰してくる。
「名など捨てろ」
暴食の眷属が、大きな口を開いた。
「主の器よ」
露出した黒い核が脈打つ。
そのたび、床や壁へ散っていた黒い霧が集まり、細い接続線へ戻っていく。
フィアたちが断った線だ。
一本目が眷属の装甲へ繋がった。
続いて二本目。
黒い魔力が肋骨状の装甲を引き寄せ、開かれていた胸部を少しずつ閉じようとする。
「飢えに従え」
「従わない……!」
答えた瞬間、胃が裏返った。
吐き気に身体を折りかける。
レグルスの槍の柄が胸元を支え、倒れることだけは防いだ。
「動くな。君が倒れると、こちらまで姿勢を崩す」
レグルスの声にも余裕がない。
肩の傷が開いている。
制服へ滲んだ血が腕を伝い、石床へ一滴落ちた。
彼の靴底も、僕を押し戻す力に負けて少しずつ滑っていた。
「僕を放して、眷属を――」
「それで君が土姫の魔力を喰えば、何のために核を露出させたと思っている」
「でも、このままじゃ三人がもたない」
「だからといって、君が勝手に選択肢を減らすな」
レグルスは歯を食いしばり、銀槍の柄へ体重を乗せ直した。
フィアの右手も震えている。
雷を使えば、身体能力をさらに上げられる。
けれど、その雷は僕にとって餌になる。
彼女は魔力を使わず、傷の名残がある右手だけで鞘を押し上げ続けていた。
僕の左手が僅かに下がる。
フィアの鞘が軋んだ。
その時、彼女の視線が床へ落ちた。
携帯用の計測板だ。
三つの弱い光が明滅している。
一つ。
二つ。
三つ目の光が、長い間消えたまま戻ってこない。
「反応が……」
ティアナも気づいた。
三つ目の光は、ようやく細く灯った。
まだ消えてはいない。
けれど次に同じだけ沈黙すれば、戻ってくる保証はなかった。
「行かないと」
ティアナが眷属の奥を見る。
「でも、今根を外したら……」
僕の左手が彼女へ届く。
フィアが接続線を切りに行けば、手首を止める者がいなくなる。
レグルスが核への道を開き直せば、僕の身体を支えられない。
三人だけでは足りない。
その事実を、僕も理解していた。
だからこそ、自分を放してほしかった。
僕一人が飢えに呑まれる間に、三人が救助へ行けばいい。
けれど、それは第40話で止められた考え方と同じだった。
守るためと言いながら、一人で犠牲になる。
三人が僕を守ろうとする選択を、僕の都合で奪う。
分かっている。
それでも空腹が、考える力を削っていく。
器。
口。
餌。
頭の中に残る言葉が、それだけになっていく。
「器に名はいらぬ」
誰のためにここへ来たのか。
僕は何をしようとしていたのか。
曖昧になる。
その時、フィアが僕を見た。
黒いカチューシャの下で、青い瞳が揺れている。
彼女はこれまで、僕を「君」や「あの人」としか呼ばなかった。
武闘大会でも。
三人迷宮競技でも。
封印区画へ入ってからも。
一度も口にしなかった名前を、今、はっきりと呼んだ。
「アルト、助けて」
時間が止まったわけではない。
黒い接続線は再生を続けている。
眷属の装甲も閉じかけている。
左腕の痛みも、胃を削る空腹も消えなかった。
ベルゼバスも黙らない。
けれど、その声だけは食事の味へ変わらなかった。
僕に向けられた言葉として届いた。
「私たちだけじゃ、あの三人を救えない」
フィアの右手がまた震える。
それでも鞘を離さない。
「君の力じゃない。君に頼んでる」
暴食を使え、とは言わなかった。
怪物を倒せ、とも言わない。
僕に助けを求めている。
暴食の器ではなく。
ベルゼバスを閉じ込めた口でもなく。
アルトという一人の人間に。
《名など捨てろ》
ベルゼバスの声は消えていない。
黒い紋章も閉じない。
名前に魔法の力などなかった。
それでも、僕が考えるための場所が、ほんの僅かに戻ってきた。
「アルト、一緒にあの三人を助けよう」
今度はティアナが呼ぶ。
「私が守るって約束したのは、器じゃなくてアルトだよ」
彼女の魔力は今も温かなパンに見えている。
食べたいという衝動も残っている。
けれど、それだけではなくなった。
土壁を作り、根で道を支え、怖くても僕から逃げなかった少女の姿が重なる。
「僕が競ってきたのは、器でも魔神でもない」
レグルスが言う。
「アルト、君だ」
いつもの尊大な目だった。
僕を哀れむ目ではない。
守られるだけの弱者を見る目でもない。
何度負けても、次は勝つと競い続ける相手へ向ける目だ。
「君の力なら、何を喰うかも君が選べ」
《口は選ばぬ》
「違う」
僕はベルゼバスへ答える。
空腹は選ばない。
目の前にあるものすべてを食事へ変える。
けれど、僕は空腹そのものじゃない。
左腕にある口でもない。
選ぶことができる。
名前を呼ばれただけで、そうなったわけではない。
三人が敵と味方の魔力を分けてくれた。
ティアナが、味方の魔力を地下へ逃がした。
フィアが、圧縮魔力の接続線を切った。
レグルスが、核までの一本道を作った。
すでに選べる土台はある。
あとは僕が選ばなければならない。
まず、ティアナ。
土と植物の魔力が見える。
近くて、温かくて、喉が鳴るほど欲しい。
それでも対象から外す。
彼女は食事ではない。
次にフィア。
研ぎ澄まされた雷が、眩しいほど鮮やかに見える。
それでも喰わない。
僕を止め、今は僕へ助けを求めた仲間だ。
レグルス。
澄んだ風は、乾いた喉へすぐにでも流し込みたくなる。
それでも対象ではない。
彼は僕の部下でも餌でもない。
対等な競争相手だ。
計測板の向こうにある三人の反応。
弱い魔力。
無防備で、喰おうと思えば抵抗すらできないかもしれない。
だからこそ、外す。
救助する相手を食事へ数えてはいけない。
床や壁へ散った黒い魔力も外す。
再生しかけた接続線も外す。
どれも追わない。
一つずつ。
空腹が拾い上げる候補を、僕の意思で捨てていく。
残ったものは一つ。
三人が作った一本道の先。
閉じかけた肋骨状の装甲、その隙間で脈打つ眷属の核。
あれだけだ。
「僕は器じゃない」
左腕へ力を込める。
ティアナの根が支える。
フィアの鞘が手首を受け止める。
レグルスの槍の柄が、身体を倒れさせない。
三人は僕の左手を核へ向けなかった。
力を緩め、僕が自分で動かせる余地を作っただけだ。
「僕はアルト・ロウェルだ」
ティアナへ向いていた左手を、少しずつ横へ動かす。
暴食は抗う。
近い食事を求め、指先が震える。
それでも僕は、三人ではなく黒い核を見る。
「何を喰うかは、僕が決める」
左手が一本道の先へ向いた。
まだ喰わない。
口も閉じていない。
眷属も倒れていない。
それでも、次の一口を選ぶのはベルゼバスではなかった。
名前が暴食を鎮めたわけじゃない。それでも、『アルト』と呼ばれた僕は、ティアナへ伸びていた左手を核へ向け直し、喰うものをもう一度自分で選んだ。
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