第46話 アルト
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
「器に名はいらぬ」
ベルゼバスの声が、頭蓋の内側を満たす。
僕の左手はティアナへ伸びたまま、三人の力で止められていた。
魔力を失った根が、左肘と両足へ食い込んでいる。
フィアの鞘が手首を押し上げ、レグルスの銀槍の柄が胸元を押し戻していた。
それでも、袖の下の口は閉じない。
三人の身体を巡る魔力が、食事の形を取り続けている。
「口は選ばぬ」
ティアナの土。
フィアの雷。
レグルスの風。
どれも近い。
眷属の核より、ずっと近くにある。
「近いものから喰え」
左腕へ力が戻る。
ティアナの根が、乾いた音を立てた。
「っ……!」
根の一本が裂ける。
魔力を切られた植物は、もう成長も再生もできない。物理的な縄として僕を押さえているだけだ。
このまま力をかけ続ければ、すべて千切れる。
「離れて……」
声を絞り出す。
「まだ、止まってない」
「分かってる」
ティアナは逃げない。
左手が届く距離から、僕を見上げている。
怖いはずなのに。
その恐怖まで、今の僕には魔力を甘くする香りのように感じられた。
違う。
恐怖は味じゃない。
ティアナは食事じゃない。
そう考えるたび、ベルゼバスの声が上から塗り潰してくる。
「名など捨てろ」
暴食の眷属が、大きな口を開いた。
「主の器よ」
露出した黒い核が脈打つ。
そのたび、床や壁へ散っていた黒い霧が集まり、細い接続線へ戻っていく。
フィアたちが断った線だ。
一本目が眷属の装甲へ繋がった。
続いて二本目。
黒い魔力が肋骨状の装甲を引き寄せ、開かれていた胸部を少しずつ閉じようとする。
「飢えに従え」
「従わない……!」
答えた瞬間、胃が裏返った。
吐き気に身体を折りかける。
レグルスの槍の柄が胸元を支え、倒れることだけは防いだ。
「動くな。君が倒れると、こちらまで姿勢を崩す」
レグルスの声にも余裕がない。
肩の傷が開いている。
制服へ滲んだ血が腕を伝い、石床へ一滴落ちた。
彼の靴底も、僕を押し戻す力に負けて少しずつ滑っていた。
「僕を放して、眷属を――」
「それで君が土姫の魔力を喰えば、何のために核を露出させたと思っている」
「でも、このままじゃ三人がもたない」
「だからといって、君が勝手に選択肢を減らすな」
レグルスは歯を食いしばり、銀槍の柄へ体重を乗せ直した。
フィアの右手も震えている。
雷を使えば、身体能力をさらに上げられる。
けれど、その雷は僕にとって餌になる。
彼女は魔力を使わず、傷の名残がある右手だけで鞘を押し上げ続けていた。
僕の左手が僅かに下がる。
フィアの鞘が軋んだ。
その時、彼女の視線が床へ落ちた。
携帯用の計測板だ。
三つの弱い光が明滅している。
一つ。
二つ。
三つ目の光が、長い間消えたまま戻ってこない。
「反応が……」
ティアナも気づいた。
三つ目の光は、ようやく細く灯った。
まだ消えてはいない。
けれど次に同じだけ沈黙すれば、戻ってくる保証はなかった。
「行かないと」
ティアナが眷属の奥を見る。
「でも、今根を外したら……」
僕の左手が彼女へ届く。
フィアが接続線を切りに行けば、手首を止める者がいなくなる。
レグルスが核への道を開き直せば、僕の身体を支えられない。
三人だけでは足りない。
その事実を、僕も理解していた。
だからこそ、自分を放してほしかった。
僕一人が飢えに呑まれる間に、三人が救助へ行けばいい。
けれど、それは第40話で止められた考え方と同じだった。
守るためと言いながら、一人で犠牲になる。
三人が僕を守ろうとする選択を、僕の都合で奪う。
分かっている。
それでも空腹が、考える力を削っていく。
器。
口。
餌。
頭の中に残る言葉が、それだけになっていく。
「器に名はいらぬ」
誰のためにここへ来たのか。
僕は何をしようとしていたのか。
曖昧になる。
その時、フィアが僕を見た。
黒いカチューシャの下で、青い瞳が揺れている。
彼女はこれまで、僕を「君」や「あの人」としか呼ばなかった。
武闘大会でも。
三人迷宮競技でも。
封印区画へ入ってからも。
一度も口にしなかった名前を、今、はっきりと呼んだ。
「アルト、助けて」
時間が止まったわけではない。
黒い接続線は再生を続けている。
眷属の装甲も閉じかけている。
左腕の痛みも、胃を削る空腹も消えなかった。
ベルゼバスも黙らない。
けれど、その声だけは食事の味へ変わらなかった。
僕に向けられた言葉として届いた。
「私たちだけじゃ、あの三人を救えない」
フィアの右手がまた震える。
それでも鞘を離さない。
「君の力じゃない。君に頼んでる」
暴食を使え、とは言わなかった。
怪物を倒せ、とも言わない。
僕に助けを求めている。
暴食の器ではなく。
ベルゼバスを閉じ込めた口でもなく。
アルトという一人の人間に。
《名など捨てろ》
ベルゼバスの声は消えていない。
黒い紋章も閉じない。
名前に魔法の力などなかった。
それでも、僕が考えるための場所が、ほんの僅かに戻ってきた。
「アルト、一緒にあの三人を助けよう」
今度はティアナが呼ぶ。
「私が守るって約束したのは、器じゃなくてアルトだよ」
彼女の魔力は今も温かなパンに見えている。
食べたいという衝動も残っている。
けれど、それだけではなくなった。
土壁を作り、根で道を支え、怖くても僕から逃げなかった少女の姿が重なる。
「僕が競ってきたのは、器でも魔神でもない」
レグルスが言う。
「アルト、君だ」
いつもの尊大な目だった。
僕を哀れむ目ではない。
守られるだけの弱者を見る目でもない。
何度負けても、次は勝つと競い続ける相手へ向ける目だ。
「君の力なら、何を喰うかも君が選べ」
《口は選ばぬ》
「違う」
僕はベルゼバスへ答える。
空腹は選ばない。
目の前にあるものすべてを食事へ変える。
けれど、僕は空腹そのものじゃない。
左腕にある口でもない。
選ぶことができる。
名前を呼ばれただけで、そうなったわけではない。
三人が敵と味方の魔力を分けてくれた。
ティアナが、味方の魔力を地下へ逃がした。
フィアが、圧縮魔力の接続線を切った。
レグルスが、核までの一本道を作った。
すでに選べる土台はある。
あとは僕が選ばなければならない。
まず、ティアナ。
土と植物の魔力が見える。
近くて、温かくて、喉が鳴るほど欲しい。
それでも対象から外す。
彼女は食事ではない。
次にフィア。
研ぎ澄まされた雷が、眩しいほど鮮やかに見える。
それでも喰わない。
僕を止め、今は僕へ助けを求めた仲間だ。
レグルス。
澄んだ風は、乾いた喉へすぐにでも流し込みたくなる。
それでも対象ではない。
彼は僕の部下でも餌でもない。
対等な競争相手だ。
計測板の向こうにある三人の反応。
弱い魔力。
無防備で、喰おうと思えば抵抗すらできないかもしれない。
だからこそ、外す。
救助する相手を食事へ数えてはいけない。
床や壁へ散った黒い魔力も外す。
再生しかけた接続線も外す。
どれも追わない。
一つずつ。
空腹が拾い上げる候補を、僕の意思で捨てていく。
残ったものは一つ。
三人が作った一本道の先。
閉じかけた肋骨状の装甲、その隙間で脈打つ眷属の核。
あれだけだ。
「僕は器じゃない」
左腕へ力を込める。
ティアナの根が支える。
フィアの鞘が手首を受け止める。
レグルスの槍の柄が、身体を倒れさせない。
三人は僕の左手を核へ向けなかった。
力を緩め、僕が自分で動かせる余地を作っただけだ。
「僕はアルト・ロウェルだ」
ティアナへ向いていた左手を、少しずつ横へ動かす。
暴食は抗う。
近い食事を求め、指先が震える。
それでも僕は、三人ではなく黒い核を見る。
「何を喰うかは、僕が決める」
左手が一本道の先へ向いた。
まだ喰わない。
口も閉じていない。
眷属も倒れていない。
それでも、次の一口を選ぶのはベルゼバスではなかった。
名前が暴食を鎮めたわけじゃない。それでも、『アルト』と呼ばれた僕は、ティアナへ伸びていた左手を核へ向け直し、喰うものをもう一度自分で選んだ。
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