第45話 喰うな
眷属の肋骨状の装甲、その奥で黒い核が脈打っている。
ティアナの土が魔力を分けた。
フィアの雷が接続線を断った。
レグルスの槍と風が、核までの一本道を作った。
暴食が喰うべきものは、あの核一つ。
それだけのはずだった。
《核より近いものがある》
ベルゼバスの声が、頭蓋の内側へ染み込む。
一本道の両脇には、三人がいる。
外へ漏れた魔力はティアナの根によって地下へ逃がされていた。
それでも身体の内側までは隠せない。
ティアナの胸の奥に、温かな土と植物の魔力がある。
フィアの細い身体には、研ぎ澄まされた雷が巡っている。
レグルスの魔力経路を、澄んだ風が駆け抜けている。
見えてしまう。
香りまで分かる。
核へ向けていたはずの意識が、三人へ引かれる。
《雷を喰え》
「違う」
《土を喰え》
「三人は……違う」
《風を喰え》
左腕の口が開こうとする。
黒い紋章が肘の内側で蠢き、手袋の下から歯を鳴らすような感覚が伝わってきた。
喉が渇く。
胃は大量の魔力を呑み込んだはずなのに、空腹は深くなる一方だった。
僕は三人から目を逸らした。
見れば食べたくなる。
声を聞けば、身体の奥で揺れる魔力まで感じてしまう。
「逃げて」
三人は動かなかった。
「早く、僕から離れて」
「嫌だよ」
ティアナが答える。
彼女の声を聞いただけで、土の匂いが濃くなった。
僕は左腕を胸元へ抱え込む。
「外へ漏れる魔力を分けても、君たちの中にある魔力まで見える。このままだと、手を伸ばすかもしれない」
異変を隠さない。
危険を感じたら伝える。
四人で決めたことを守ったつもりだった。
だから、三人も逃げてくれると思いたかった。
ティアナの肩が小さく揺れる。
怖いのだ。
当然だ。
ついさっきまで仲間だった人間から、魔力を喰いたいと告げられたのだから。
「怖いよ」
ティアナは正直に言った。
それでも、一歩も後ろへ下がらない。
「でも、ここで逃げたら、アルトを一人にすることになる」
「一人の方が安全だ」
「誰にとって?」
答えられなかった。
三人にとっては安全だ。
僕が三人を喰わずに済む。
けれど、僕が飢えへ呑まれるのを止める人はいなくなる。
「私たちは食べ物じゃない。仲間だよ」
ティアナは震える手を握り締めた。
「だから、逃げない」
「君が喰いたいんじゃない」
フィアが告げる。
細剣は眷属へ向けたままだが、刃に雷は纏わせていない。
「君の中にいるものが、そう見せている」
彼女は僕の左袖を見ていた。
第38話から、ずっと。
何かがあると疑いながらも、今まで誰にも話さなかった。
「君が守ろうとした人間を、君の力には喰わせない」
「僕たちを勝手に獲物へ分類するな」
レグルスが銀槍を握り直す。
肩の傷から血が滲んでいる。
それでも、その目には恐怖より怒りがあった。
「敵を見誤るな。君の前にいる黒い獣が敵だ」
分かっている。
分かっているはずなのに、視線は眷属ではなく三人を追ってしまう。
《生きた魔力は甘い》
ベルゼバスの声と重なるように、暴食の眷属が低く唸った。
開かれた装甲の奥で、黒い核が強く脈打つ。
どくん。
左腕が応える。
どくん。
鼓動のたび、黒い紋章が皮膚を這う。
ティアナたちが切り離した接続線が、床や壁の黒い霧から再び伸び始めていた。
まだ細い。
だが、このまま時間が経てば眷属と圧縮魔力がもう一度繋がる。
携帯用の計測板も明滅した。
三つの弱い光。
そのうち一つが、消えかけるように細くなる。
奥にいる生徒たちにも時間がない。
「核を……」
僕は黒い核を見ようとする。
あれだけを喰えばいい。
三人が作ってくれた一本道の先へ、意識を向ければいい。
けれど、核は冷たい石のように見えた。
すぐ近くには、温かい魔力が三つある。
《一口で楽になる》
「ならない」
《手を伸ばせ》
「伸ばさない」
《近きものから喰らえ》
眷属の声が通路へ響く。
「器を満たせ」
温かな土の匂いが強くなる。
ティアナが最も近い。
彼女の根は、まだ僕の腰と足を支えている。
魔力の流れは地下へ逃がされているのに、根を通じて彼女の存在だけははっきり感じられた。
土。
草木。
日の当たる場所。
食べれば、この痛みが消える。
空腹も止まる。
そんなはずはない。
分かっているのに、僕の左肘が僅かに持ち上がった。
「アルト?」
ティアナの声が遠い。
左手を押さえていた右手の指が、一本ずつ剥がれていく。
僕の意思だ。
ベルゼバスが直接動かしているわけではない。
飢えている僕が、楽になりたくて力を緩めている。
「違う……」
止めなければ。
左腕は止まらない。
ゆっくりと、ティアナへ向かって伸びる。
彼女の顔が霞む。
明るい少女の顔ではない。
三人迷宮競技で地形を変えた仲間でもない。
舞踏会で一緒に踊った相手でもない。
ただ、土と植物の魔力を抱えた温かな食事。
そこまで考えた自分が、怖かった。
「逃げて……!」
僕は声を絞り出す。
ティアナは逃げなかった。
左手が彼女の肩へ近づく。
手袋の下で黒い紋章が裂け、存在しない牙を剥く。
あと一歩。
腕を伸ばせば届く。
《喰え》
その瞬間、三人が同時に動いた。
ティアナが地面へ広げていた内側の根から、緑色の光が消える。
魔力の供給を切ったのだ。
ただの植物へ戻った根が、僕の両足へ固く巻きつく。
腰を支えていた一本は左肘へ這い上がり、物理的な縄となって動きを止めた。
同時に、フィアの細剣から雷の気配が完全に消えた。
彼女は刃を向けない。
鞘を左手首の下へ滑り込ませ、そのまま上方へ押し上げた。
ティアナへ伸びていた手の軌道が逸れる。
レグルスも核へ通していた風を弱めた。
銀槍の穂先は眷属へ向けたまま。
長い柄だけを僕の胸元へ横に当て、梃子を利かせて身体を後ろへ押し戻す。
誰か一人なら耐えられたかもしれない。
根だけなら引き千切れた。
鞘だけなら振り払えた。
槍の柄だけなら潜り抜けられた。
けれど三つが同時に重なり、僕の左手はティアナへ届かなかった。
「喰うな!」
三人の声が重なった。
暴食の口へ向けた言葉だった。
僕を怪物と呼ぶ声ではない。
逃げるための悲鳴でもない。
ただ、僕の中にある飢えを止める命令だった。
「私を見て」
ティアナは手が届きかけた場所から逃げない。
その瞳には恐怖が残っている。
それでも僕を見ていた。
「食べ物じゃなくて、ティアナとして見て」
ティアナ。
その名前を、頭の中で繰り返す。
低い土壁の向こうで震えながら、それでも僕を一人にしなかった少女。
「君が守ろうとした人間を、君の力には喰わせない」
フィアは鞘を押し当てたまま言う。
右手には傷の名残がある。
その手が震えているのは、恐怖だけではない。僕の左腕を押し返す負荷がかかっているからだ。
「敵を見誤るな」
レグルスの銀槍が軋む。
「仲間を喰えば、君の負けだ。そんな勝ち方を僕は認めない」
ティアナの顔が見えた。
食事ではない。
土と植物の魔力を蓄えた器でもない。
怖いのに逃げず、僕を止めている一人の友人だ。
その隣にいる二人も同じだった。
雷でも、風でもない。
何度も競い、支え合い、ここまで一緒に来た仲間だった。
「喰うな」
僕は左腕へ命じる。
「三人は、食べ物じゃない」
黒い紋章の動きが僅かに鈍る。
けれど消えない。
袖の下に開いた口も、まだ閉じ切らない。
ベルゼバスは黙らず、喉の奥で笑い続けていた。
眷属の核も脈打っている。
床に散った黒い霧からは、新しい接続線が伸び始めていた。
計測板の三つの光も弱まっている。
三人は僕を押さえたまま、誰一人離れなかった。
「『喰うな!』三人の声が重なり、ティアナへ伸びた僕の左手は触れる寸前で止まった――それでも、袖の下の口はまだ飢えたままだった。」
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