第44話 雷、土、槍
ティアナの魔力が、焼きたてのパンに見える。
フィアの雷は舌を刺す香辛料。
レグルスの風は、乾いた喉へ流し込みたくなる冷たい水だった。
食べたい。
その衝動が自分のものなのか、ベルゼバスのものなのかも分からない。
喉が鳴る。
唾液を呑み込んでも、空腹は消えなかった。
《雷を喰え》
左腕を押さえる指へ力を込める。
「黙れ……」
《土を喰え》
黒い紋章は肘の近くまで這い上がっていた。
袖の下で開いた口が、まだ閉じてくれない。
《風を喰え》
「近づかないで!」
僕は三人から離れようとした。
けれど、腰に絡んだティアナの根がそれを許さない。
「今、君たちの魔力まで喰いたいと感じてる」
隠してはいけない。
異変も、負傷も、危険も。
四人でそう決めた。
「だから、この根を外して。僕が眷属を止める」
右手で剣の柄を握る。
一人で前へ出れば、少なくとも三人の魔力からは離れられる。
暴食の眷属を倒せる保証などない。
それでも、仲間を喰うよりは――。
鞘から剣を抜こうとした瞬間、石床が盛り上がった。
低い土壁が僕の前へ現れ、右手を柄から押し離す。
「今はアルトが戦う番じゃないよ」
ティアナは僕から数歩離れた位置にいた。
怖くないはずがない。
その証拠に、土壁を作った指先は僅かに震えていた。
それでも彼女は退かなかった。
「誰か一人が犠牲になろうとしたら、残り三人が止めるって決めたでしょ」
「でも、僕は君たちを――」
「今度は私たちが守る番」
はっきりとした声だった。
「動かないで」
フィアも眷属へ細剣を向けたまま告げる。
「君が魔力を吸い込むたび、あの獣は喜んでいる。前へ出れば、また同じことをされる」
「だが三人が魔法を使えば、その魔力まで僕が喰うかもしれない」
「なら、喰わせなければいい」
レグルスが銀槍の穂先を眷属へ向ける。
「君が倒れれば、行方不明の三人も救えない。戦えないのではない。今は戦わせない方が合理的だ」
尊大な口調は、いつもと変わらない。
「今くらいは黙って守られていろ」
《三つとも近い》
ベルゼバスが、頭の内側で牙を擦り合わせる。
《すべて喰えば、飢えは止まる》
「喰わない」
僕は剣の柄から右手を離した。
「絶対に、三人は喰わない」
暴食の眷属が大口を開く。
黒い魔力が牙の間に集まり、三つの爪へ形を変えた。
狙いは僕ではない。
ティアナ、フィア、レグルスへ一つずつ。
三人に魔法を使わせるつもりだ。
「来る!」
ティアナが床へ両手をついた。
黒い爪が放たれる。
一つ目の前で石床が斜めに隆起した。
真正面から受け止めるのではなく、傾いた土の表面で軌道を逸らす。
黒い爪が壁を削りながら天井へ突き刺さった。
フィアは横へ半歩だけ動いた。
細剣へ雷が走ったのは一瞬。
黒い爪の先端を斜めから叩き、身体の横へ流す。背後の石壁が砕け、欠片が彼女の頬を薄く切った。
最後の一つへ、レグルスが風をぶつける。
大きな風ではない。
穂先へ集中させた細い流れを爪の側面へ当て、僕たちのいない壁際へ押し込んだ。
三人とも、必要な瞬間にだけ魔力を使っている。
それでも僕には、放出された余分な魔力が鮮やかな食事に見えた。
左腕がフィアの雷へ引かれる。
根が腰を締め、僕の身体をその場へ留めた。
「ティアナ、根を切って! 君の魔力まで吸う!」
「切らない。でも、流す場所は変える」
ティアナが指を石床へ押し当てる。
「植物が勝手に敵と味方を見分けてくれるわけじゃない。だから、私が分ける」
床のひびから、新しい根が伸び始めた。
僕の周囲へ広がる内側の根。
眷属へ向かって伸びる外側の根。
二つの網は触れ合わず、それぞれ異なる深さを通っていく。
僕と三人の間には、腰ほどの高さの土壁が作られた。
視線を完全に遮るほどではない。
それでも、三人が放った魔力が僕の左腕へ直接届く道を塞いでいる。
「フィア、右足を一歩後ろへ!」
ティアナの指示に従い、フィアが位置を変える。
彼女の足元から漏れた雷が、内側の根を伝って地下へ逃げた。
次に、レグルスの風が土壁の外側へ曲げられる。
ティアナ自身の魔力も、僕へ近い根ではなく、床の深い部分を通って外へ送られた。
手作業だった。
ティアナは三人分の魔力を一つずつ確かめ、流れる方向を変えている。
額には汗が浮かんでいた。
「これで、少しは届きにくいはず」
確かに、パンのように見えていた温かな光が遠ざかる。
雷と風の味も、僅かに薄くなった。
けれど、眷属から流れ込む黒い魔力は止まっていない。
外側の根が圧縮魔力へ絡みつく。
途端に緑色だった根が黒く染まった。
一本。
二本。
幾つもの根が、空中の何もない場所へ引かれていく。
その周囲へ、髪の毛より細い黒線が浮かび上がった。
眷属の装甲から圧縮魔力へ伸びる接続線だ。
本体から放出された魔力を、一つの攻撃として繋ぎ止めている。
「見えた!」
ティアナが叫ぶ。
「根が黒くなっている場所! そこに線がある!」
フィアが駆けた。
雷光が通路を短く照らす。
細剣へ雷を流したままにはしない。
黒い接続線が脈打った一瞬だけ、刃へ細い雷を纏わせる。
一閃。
一本目の接続線が切れた。
空中に浮かんでいた圧縮魔力が形を失い、黒い霧となって壁へ散る。
左腕へ流れ込む量が僅かに減った。
「次、左上!」
ティアナが位置を示す。
フィアは床を蹴り、二本目を断った。
眷属が前脚を振るう。
装甲から伸びた爪がフィアを捉えようとするが、彼女は攻撃より早く身を沈めた。
爪が頭上を通り過ぎる。
その勢いで床を転がり、三本目の接続線を下から切り上げた。
「一度に切ればいいものではないのか?」
レグルスが風で眷属の追撃を押し返す。
「線が脈打つ時しか刃が入らない」
フィアが短く答える。
「それ以外では、剣の魔力を吸われる」
「ならば時間を作る。続けろ」
レグルスは眷属へ向き直った。
銀槍を前へ出し、穂先から何本もの細い風を放つ。
攻撃ではない。
眷属の肋骨状の装甲、その隙間を通る魔力の流れを探っている。
眷属が大口から黒い魔力弾を吐き出す。
ティアナの土壁が一発を逸らす。
二発目はレグルスの肩を掠め、制服を裂いた。
血が僅かに滲んだが、彼は槍を下ろさなかった。
「負傷を隠さない決まりだよ」
僕が言うと、レグルスは一瞬だけこちらを見る。
「浅い。腕も動く。任務続行に問題はない」
強がりだけではない。
槍を握る手にも、風の流れにも乱れはなかった。
「見つけた」
レグルスの目が細くなる。
「切られた線はすべて胸の中央へ戻ろうとしている。核はあの装甲の奥だ」
肋骨状の装甲が重なり、胸部を守っている。
その隙間では黒い光が脈打っていた。
「核を壊すの?」
ティアナが尋ねる。
「まだだ。封印区画とどう繋がっているか分からない。奥にいる三人へ影響が出れば救助にならない」
計測板を見る。
三つの反応は残っている。
だが、一つは先ほどより薄い。
時間は多くない。
「破壊せず、道だけを作る」
レグルスが眷属へ踏み込んだ。
眷属の前脚が振り下ろされる。
ティアナの根が脚へ絡み、一瞬だけ動きを鈍らせた。
その間にフィアが四本目の接続線を断つ。
レグルスの銀槍が、肋骨状の装甲の隙間へ滑り込んだ。
「開け!」
銀槍を梃子にして、装甲を外側へ押す。
眷属の身体が大きく揺れた。
閉じようとする装甲へティアナの外側の根が絡み、フィアが再び繋がろうとする黒線を断つ。
それでも装甲は重い。
レグルスの靴が石床を滑る。
肩の傷から血が増えた。
「一人でやるな!」
僕は思わず身を起こした。
腰の根が動きを止める。
レグルスはこちらを見ずに答えた。
「三人でやっている!」
ティアナの根が装甲を引く。
フィアの雷が接続線を断つ。
その二つがなければ、レグルスの槍はとっくに押し戻されていた。
彼は銀槍へ風を纏わせた。
左右へ広げる風ではない。
穂先から真っすぐに伸びる、一本の細い流れだ。
装甲の隙間へ入り込み、散らばっていた黒い魔力を左右へ押し退けていく。
黒い霧が割れた。
肋骨の奥に、握り拳ほどの核が現れる。
脈打つたびに、残ったすべての接続線が震えた。
眷属が低く唸る。
黒い線を繋ぎ直そうとするが、ティアナの根が流れを地表へ引き出し、フィアの細剣が一本ずつ断っていく。
《口を開け》
ベルゼバスが囁く。
《雷も、土も、風も、すべて喰え》
けれど、三人の魔力はもう僕の左腕へ真っすぐ流れていない。
パンの温かさが薄れる。
香辛料の刺激が遠ざかる。
喉を潤す水の輝きも消えていく。
空腹は残っていた。
暴食の口も、完全には閉じていない。
それでも、食事に見えるものは減った。
土が味方の魔力を分け、雷が黒い接続を断ち、槍が核への一本道を穿った――三人は、暴食が喰うべきものを一つだけにしてくれた。
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