第43話 暴食の眷属
沈黙した通信石を、僕は腰の袋へ戻した。
何度呼びかけても、ノアからの返事はない。
頭上の円形床は閉ざされ、ティアナの根も銀色の封印に押し返されている。外の仲間たちが無事なのかさえ、今の僕たちには確かめられなかった。
「反応は?」
レグルスに問われ、携帯用の計測板を見る。
弱々しい三つの光が、暗い板の上で明滅していた。
「残ってる。ここから先だ」
「さっきより近いね」
ティアナが安堵と焦りの入り交じった声で言う。
反応が強くなったからといって、三人が安全だとは限らない。
むしろ、一つの光は先ほどより明滅の間隔が長くなっていた。
「急ぐ。でも、離れない」
僕が告げると、三人が頷いた。
携帯灯を先へ向け、旧保守層の通路を進む。
僕は薄い第一階位防壁を一定の間隔で浮かべた。
防壁の揺れを目盛りにして、壁の裏を走る黒い魔力線を測る。
「右の壁は弱い。黒い線が内側を削ってる」
「じゃあ、左へ寄って」
ティアナが石床へ手を触れた。
細い根がひびの中へ入り、床と壁を支える。さらに来た道へ根を残し、閉ざされた上層とは別の退路を作れる場所を探していた。
雷光が一度だけ通路を走る。
先を確認したフィアが、すぐに戻ってきた。
「三十歩先に扉がある。動くものはいない。でも、扉の向こうから音がする」
「どんな音?」
「硬いものを、内側から噛んでいるような音」
その表現に、左腕の奥が疼いた。
レグルスが銀槍を構え、細い風を前方へ送り込む。
「空気は流れていない。扉の先は閉鎖された小部屋だ。生徒三名の反応は、そのさらに奥にある」
「通らないと進めないんだね」
ティアナの言葉に、僕は頷いた。
やがて携帯灯が古い扉を照らした。
扉の表面には、幾重もの銀色の輪が重なっている。
封印区画の他の術式より古びていたが、今も力は失われていない。
その中心だけが、内側から何度も叩かれたように歪んでいた。
僕は防壁を一枚近づける。
銀色の封印は反応しない。
黒い線も見当たらなかった。
「さっき聞こえた音は止まってる」
フィアが細剣の柄へ手を置いた。
「近づきすぎない方がいい」
「ああ。まず外側から――」
言い終える前に、左腕へ熱が走った。
僕たちの背後から、一本の黒い線が床を駆け抜ける。
第42話で感じたものと同じ脈動だった。
黒い線は僕たちへ向かわず、銀色の封印輪へ飛び込んだ。
「下がって!」
ティアナが土を隆起させ、僕たちの前へ低い壁を作る。
銀色の輪が一つずつ回転した。
僕たちが触れていないのに、封印の一部が内側へ沈んでいく。
黒い線はそれ以上動かず、扉の隙間へ吸い込まれて消えた。
誰が動かしたのか。
何のために開いたのか。
考える時間を与えず、扉の向こうで何かが立ち上がった。
最初に見えたのは、肋骨のような黒い装甲だった。
四本の脚が石床を踏む。
獣に近い輪郭をしているのに、頭部に目はない。
顔があるはずの場所には、縦に裂けた大きな口だけがあった。
装甲の隙間では、濃すぎる黒い魔力が内臓のように脈打っている。
獣はティアナも、フィアも、レグルスも見なかった。
真っすぐに、僕の左腕へ口を向ける。
「見つけた」
擦れた声が通路へ響く。
「我らが主、ベルゼバス」
心臓が強く跳ねた。
誰にも聞かせたくなかった名が、獣の口から放たれた。
「小さな器の中で、まだ飢えておられる」
「ベルゼバス……?」
ティアナが僕を見る。
レグルスも眉をひそめた。
フィアだけは獣ではなく、僕の左袖を見ていた。
説明しなければならない。
けれど、今ではない。
左腕の紋章が焼けるように痛み、獣じみた声が頭蓋の内側を掻いた。
《眷属だ》
ベルゼバスの声だった。
《供物を持ってきた》
黒い獣――暴食の眷属が、大きな口を開く。
《喰え》
「来る!」
レグルスの声と同時に、眷属の口から黒い魔力塊が吐き出された。
通路を埋め尽くすほど巨大だ。
逃げる左右の隙間はない。
後方へ下がっても、閉ざされた上層へ追い詰められるだけだった。
「止める!」
ティアナが両手を振り上げる。
石床が隆起し、三重の土壁となった。
魔力塊が一枚目へ触れる。
爆発はしない。
代わりに土壁の表面へ黒い染みが広がり、内側から崩れ始めた。
「正面から受けるな!」
レグルスが風を叩きつける。
魔力塊の軌道が僅かに逸れたものの、通路そのものが狭すぎる。二枚目の土壁を削りながら、黒い塊は僕たち全員へ迫った。
フィアが左右を一度だけ見る。
「抜けられる場所はない」
僕は薄い防壁を魔力塊へ触れさせた。
防壁は抵抗する間もなく呑み込まれる。
だが、その一瞬で分かった。
肉体も、物質も含まれていない。
眷属の口から放出され、すでに本体から切り離された純粋な魔力だ。
暴食なら喰える。
「僕が消す」
「待って、何を――」
ティアナの問いには答えられなかった。
最後の土壁が崩れようとしている。
仲間三人を巻き込ませるわけにはいかない。
僕は左腕を身体の陰へ引き、右手で制服の袖を押さえた。
一度だけ。
ほんの一呼吸だけだ。
「あの攻撃だけを喰う」
黒い紋章へ意識を向ける。
「一口だけだ」
左腕に、存在しない口が開いた。
通路を埋めていた魔力塊が歪む。
黒い奔流が一点へ細まり、袖の下へ吸い込まれていった。
壁を砕こうとしていた圧力が消える。
僅か数秒で、巨大な魔力塊は跡形もなくなった。
胃の底へ、熱い石を落とされたような重さが加わる。
それでも耐えられる。
魂蝕の呪いを喰ったことで広がった器が、今回の魔力を受け止めていた。
僕はすぐに暴食を閉じようとした。
「これで――」
眷属の大口が、歪んだ。
笑ったわけではない。
ただ、待ち望んでいたものを確かめたように見えた。
消えた魔力塊の後ろに、小さな黒い光が浮かんでいる。
一つではない。
十。
二十。
数え切れないほどの圧縮魔力が、最初の攻撃から僅かに遅れて通路へ放たれていた。
「まだある!」
レグルスが風を叩きつける。
いくつかの光が壁へ逸れた。
しかし残りは、攻撃の軌道すら取らなかった。
僕の左腕へ真っすぐ流れ込んでくる。
「閉じろ……!」
暴食へ命じる。
けれど口は閉じなかった。
後続の圧縮魔力は、最初の魔力塊とまったく同じ構造を持っている。
僕は対象を、あの攻撃一つに限定した。
だから暴食は、すべてを同じ攻撃の続きとして捉えていた。
一つだけを喰うための制限が、後続のすべてを喰う命令へ変えられている。
眷属は最初から知っていた。
僕が一口で閉じようとすることも。
その一口が開いている短い時間も。
「一口で閉じるか」
眷属の装甲の隙間から、さらに黒い魔力が剥がれ落ちる。
すべてが本体から切り離され、圧縮され、僕へ投げ込まれた。
「ならば、その一口へ、溢れるほど注げばよい」
狙われていたのは、僕たちの命ではない。
僕が暴食を開く、その一呼吸だった。
左腕が前へ引かれる。
足元が滑り、眷属の方へ身体が傾いた。
「アルト!」
ティアナの根が僕の腰と左腕へ絡みついた。
床の奥へ根を食い込ませ、身体をその場へ繋ぎ止める。
続けて土壁が何枚も立ち上がり、眷属と僕の間を分断した。
黒い光が壁へ衝突する。
半数は阻まれた。
だが、残りは壁を回り込むように左腕へ吸い寄せられる。
フィアが床を蹴った。
雷光とともに散らばった石片を蹴り上げ、圧縮魔力へぶつける。
黒い光がいくつか弾けた。
彼女は着地するより先に、眷属の次の放出位置を見た。
「違う。攻撃じゃない」
フィアの金髪が、黒い光に照らされる。
「食べさせてる!」
「その流れごと散らす!」
レグルスが銀槍を回転させた。
渦巻く風が通路を満たし、圧縮魔力を左右へ押し流す。
壁へ叩きつけられた光が弾け、黒い霧となって散った。
三人の力で、流れ込む量は減った。
それでも、止まらない。
広がった器が魔力を受け入れてしまう。
以前の僕なら、とっくに限界を越えていた。
けれど今の器には、まだ隙間がある。
その隙間を埋めるように、眷属は魔力を注ぎ続けていた。
「器を満たせ」
左腕の黒い紋章が、手袋の下から肘へ這い上がる。
魔力経路が焼ける。
胃が裏返り、喉の奥まで酸っぱいものが込み上げた。
冷たい汗が額から落ちる。
「主の飢えを目覚めさせろ」
《もっと口を開け》
ベルゼバスが笑う。
僕は歯を食いしばった。
「閉じろ……僕の命令だ」
《まだ足りぬ》
唾液が止まらない。
眷属から流れ込む黒い魔力が、熱い肉のように感じられた。
濃く、甘く、もっと欲しいと思わせる味だった。
違う。
これは食事じゃない。
魔力だ。
敵が流し込んでいるだけだ。
そう考えているのに、空腹はさらに深くなる。
《隣にも三つある》
視界の中で、色が変わった。
ティアナの土と植物の魔力が、焼きたてのパンのような温かさを帯びる。
フィアの雷が、舌を刺す香辛料のように輝く。
レグルスの風は、乾いた喉を潤す水のように澄んで見えた。
三人が僕を守るために使っている魔力だ。
絶対に喰ってはいけないものだ。
それなのに、暴食の口は、まだ完全には閉じていなかった。
敵が狙っていたのは僕の命ではなかった。一口だけ開いたはずの暴食は、今、僕を支える三人の魔力まで食べ物として見始めていた。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークといただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




