第38話 死者を蘇らせない世界
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
「ミナ!」
崩れ落ちた身体を、僕は地面へ触れる寸前で抱き止めた。
返事はない。
明るい茶色の髪が腕から垂れ、閉じた瞼がかすかに震えている。呼吸は残っていた。けれど、あまりにも浅い。
黒い紋様が肩から首筋へ這い、制服の下へ潜り込んでいた。
まるで、内側にある何かへ食らいつこうとしているように。
「寝かせろ!」
駆けつけた医療担当者の声に従い、僕はミナを救護用の寝台へ下ろした。
淡い白金色の治癒光が、幾重もの輪となってミナを包む。
光が傷ついた身体へ染み込む。
止まりかけていた心臓が、かすかに強く脈打った。
だが、黒い紋様は止まらない。
治癒光を浴びるほど、その下を潜るように深く入り込んでいく。
「どうして……治癒魔法が効かないの?」
追いついたティアナが、震える声で尋ねた。
医療担当者は術式を維持したまま、険しい顔で答える。
「肉体には効いている。心臓も肺も、まだ維持できる。だが、これは肉体の傷ではない」
その指が宙へ複雑な術式を描く。
治癒光がミナの胸元へ集まり、その奥から淡い輝きを浮かび上がらせた。
それがミナの魂だと、説明される前に分かった。
光はまだ身体の内側にある。
けれど、黒い根のようなものが絡みつき、少しずつ外へ引きずり出そうとしていた。
「魂はまだ身体から離れていない」
医療担当者が唇を噛む。
「だが完全に離れれば、もう戻すことはできない。この世界に、死者を元の本人として蘇らせる魔法はない」
その言葉が胸へ突き刺さった。
死んでからでは、遅い。
どれほど強い治癒魔法があっても、失われた魂からミナを作り直すことはできない。
ならば、まだ生きている今しかない。
「魂と身体を、あとどれくらい繋いでいられる?」
「分からない。数分か、それより短いかもしれない。だが、最後まで保たせる」
諦めた声ではなかった。
治癒担当者は、今できる最大限の処置を続けている。
足りないのは治癒の技量ではない。
あの呪いを、魂から引き剥がす手段だ。
左腕が、焼けるように疼いた。
手袋の下で黒い紋章が脈打つ。
魂蝕の呪いが、ひどく濃い食べ物に感じられた。
広場中から集められた魔力を圧縮し、魂へ食らいつく形へ変えたもの。
暴食なら喰える。
だが、呪いの根はすでにミナの魂へ絡んでいる。
『魂ごと喰えば早い』
獣じみた声が、頭蓋の内側を撫でた。
『呪いだけを選ぶ必要はない。女ごと喰え。魂も滋養になる』
左手の指が勝手に開きかける。
呪いだけでなく、そこに絡んだ淡い光まで食べ物に見えた。
ミナの魂まで喰えば、呪いを切り離す必要はない。
すべてを一口で奪える。
『すべてお前のものにしろ。もっと口を開け』
「違う」
声が喉から漏れた。
ティアナが振り向きかけたが、僕はミナから目を離さなかった。
「喰うのは呪いだけだ」
暴食へ言い聞かせたのではない。
僕自身が、選ぶための言葉だった。
魂を守ったまま、呪いだけを剥がす。
そのためには、二つが僅かでも離れる瞬間を見つけなければならない。
僕は紙より薄い第一階位防壁を作り、ミナの肩に浮かぶ黒い魔力線へ差し込んだ。
防ぐためではない。
呪いが動く順番を測るための目盛りだ。
防壁は触れた瞬間、端から黒く染まって砕けた。
速すぎる。
二枚目を首元へ。
今度は胸元の紋様が脈打った直後に侵食された。
三枚目は腕へ置く。
肩、胸、腕。
同時に動いているように見えた黒い紋様には、ほんの僅かな順番があった。
「何か分かるの?」
ティアナの声へ、すぐには答えられなかった。
四枚目が砕ける。
五枚目も呪いへ呑まれた。
僕自身の魔力が削られていく。その間にも、ミナの呼吸は弱くなっていた。
焦りで指先が震える。
急げ。
でも、間違えればミナの魂まで喰う。
黒い紋様が脈打つ。
肩から胸、胸から腕。そして再び魂の奥へ沈む。
その直前、治癒光に押し戻された根が、髪の毛一本ほど浮き上がる瞬間があった。
短い。
一呼吸どころか、瞬き一つにも満たない。
けれど、ゼロではない。
「周期がある」
僕は六枚目の防壁を消しながら言った。
「呪いが魂の奥へ食い込む前に、一度だけ根が緩む。治癒魔法で魂をもっと身体の内側へ引ける?」
「危険だ。出力を上げれば、肉体へ負担がかかる」
「寝台と身体は私が支える」
ティアナがすぐに両手を床へついた。
土が低く隆起し、寝台の脚を包んで固定する。さらに細い根が伸び、治癒術式の外周へ絡みついた。
「魔力の揺れも抑える。お願い、続けて」
医療担当者は一瞬だけ迷い、強く頷いた。
「合図をしろ」
僕はミナの黒い紋様を見つめた。
一度。
二度。
呪いの脈動を数える。
「まだ……今!」
治癒光が一気に強まった。
ミナの身体が小さく跳ねる。
ティアナの土と根が寝台を支え、治癒術式の揺れを押さえ込んだ。
淡い魂の光が、胸の奥へ引き戻される。
それに遅れて、黒い根だけが表面へ浮いた。
僕は制服の袖を引き下ろし、身体で左腕を隠した。
黒い紋章を、一呼吸だけ開く。
世界から音が消えた。
ミナの身体に広がっていた黒い紋様が、無数の糸へほどける。
糸の先には、まだ淡い魂の光が触れていた。
『すべて喰え』
ベルゼバスが吠える。
『もっと口を開け。女の魂まで寄越せ』
左腕の奥で、底のない口が開こうとする。
僕は意識を黒い糸だけへ絞った。
温かな光には触れない。
ミナの身体にも、記憶にも、魔力にも触れない。
魂へ絡んだ最後の一本が引かれる。
その瞬間、僕は暴食の口を閉じた。
黒い糸だけが左腕へ吸い込まれ、淡い光はミナの胸へ戻った。
「呪いが……崩れた!」
医療担当者が治癒魔法へ集中する。
ティアナもミナの顔を見たまま、根へ魔力を流し続けていた。
二人とも、僕の左腕を見ていない。
暴食の内側で、魂蝕の呪いが暴れた。
魂へ食らいつくための術式。
命を侵す黒い性質。
祭典用魔導具が集めた、膨大で濃密な魔力。
それらが牙で噛み砕かれるように崩れ、さらに細かく潰されていく。
魂を蝕む形は残らなかった。
呪いの術式も消えた。
残った魔力だけが、熱い濁流となって僕の奥へ落ちてくる。
それは一時的に空の器を満たす魔力ではなかった。
器の壁そのものへ染み込み、内側から押し広げた。
胸の奥に、今までなかった僅かな余白が生まれる。
細かった魔力経路が熱を帯び、以前より強い流れへ耐えられる形へ変わっていく。
左腕の紋章も深く脈打った。
次に暴食を開いた時、一度に受け止められる量が増えている。
身体強化や短距離加速へ流せる魔力の上限も、ほんの僅かに広がっていた。
元へは戻らない変化だった。
それでも、僕の器は同級生たちと比べればまだ小さい。
急に高位魔法が使えるわけでも、上位生徒の身体能力を得たわけでもない。
小さかった器が、少しだけ大きくなった。
ただ、それだけだ。
そして器が広がった分、底にある空腹も深くなった。
胃が裏返るような飢えが込み上げる。
吐き気と冷や汗が同時に襲い、左腕へ焼けた杭を打ち込まれたような痛みが走った。
目の前の治癒光が、甘い匂いを放つ食事に見える。
僕は右手で左手首を掴んだ。
もう開かない。
ミナの魔力も、治癒担当者の魔力も、ティアナの魔力も喰わない。
「黒い紋様が消えていく……」
ティアナの声が震えた。
ミナの首元から、腕から、黒い痕が薄れていく。
治癒光が今度こそ遮られず、身体の隅々へ染み込んだ。
呼吸が少しずつ深くなる。
弱かった心臓の鼓動も、確かな間隔を取り戻した。
医療担当者は何度も術式を変え、魂と肉体の状態を確認した。
やがて、その険しい表情が僅かに緩む。
「魂に欠損はない。呪いも残っていない」
「ミナは……?」
「助かった。肉体の損傷も治療できる。後遺症は残らない」
その言葉を聞いた途端、脚から力が抜けかけた。
それでも倒れず、僕は寝台の脇へ膝をついた。
やがて、ミナの瞼がゆっくり開く。
柔らかな茶色の瞳が、僕とティアナの間をぼんやりとさまよった。
「……あの子たちは?」
最初に尋ねたのは、自分の身体のことではなかった。
ティアナが涙を拭い、ミナの手を包む。
「全員、出口へ向かったよ。あなたが守った子も、家族のところへ戻った」
「そっか。よかった」
ミナはほんの少し笑った。
それから安心したように目を閉じる。
「眠っただけだ。魂も身体も安定している」
医療担当者の確認に、僕はようやく息を吐いた。
死者を蘇らせることはできない。
だから、死者になる前に救わなければならなかった。
僕たちは間に合ったのだ。
その時、救護区画の端で小さく靴音が止まった。
救助を終えたフィアが立っていた。
金色の髪には埃が残り、呼吸もまだ整っていない。
彼女の視線はミナではなく、僕の左腕へ向けられていた。
「消えたんじゃない」
誰にも聞かせるつもりがないほど小さな声だった。
「あの腕へ、入った……?」
僕が顔を上げると、フィアは口を閉じた。
問い詰めてはこない。
周囲へ告げることもしない。
ただ、何かを確かめるように、黒い紋章を隠した袖を見つめ続けていた。
呪いは消え、ミナは助かった。けれど、それがどこへ消えたのかに気づいたように、フィアだけが僕の左腕から目を離さなかった。
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