第37話 祭りを喰う祈り
ティアナの指先が僕から離れるより早く、広場で一人の男が膝をついた。
酔ったように身体を揺らし、そのまま地面へ手をつく。
「大丈夫ですか?」
近くの生徒が駆け寄る。
その直後、別の場所でも、子どもを抱いていた女性が座り込んだ。
一人ではない。
広場のあちこちで、人々が急な疲労へ襲われている。
「アルト?」
視界が傾いた。
僕が欄干を掴むと、ティアナが肩を支えてくれる。
「僕だけじゃない。下を見て」
広場を照らしていた魔導灯が、一斉に暗くなった。
再び灯った光は、淡い七色ではない。
中心を黒く濁らせながら、不規則に明滅している。
「打ち上げ魔導具の過負荷だ!」
学院職員の声が響いた。
「昨夜の延期で再接続した箇所を確認しろ! 主回路を遮断! 補助術式も順番に停止させるんだ!」
最後の七色花火には、打ち上げ装置の限界に近い魔力が流されていた。
正規の手順に従い、職員たちが素早く動く。
外廊下の壁に埋め込まれた魔力線も、一度は光を失った。
けれど。
「止まってない……」
僕の左腕に、焼けた針を差し込まれたような痛みが走った。
制服の袖の下で、黒い紋章が脈打つ。
空腹だった。
胃が裏返るような、普通の食事では決して満たせない飢え。
広場にいる一人一人の魔力が、細い糸となって引き抜かれている。
その数百本の糸が束ねられ、巨大な一皿となって打ち上げ台へ流れていた。
『喰え』
獣じみた声が、頭蓋の内側を引っ掻いた。
『すべて流れてくる。口を開け』
唾液が溢れる。
左腕を広場へ向ければ、あの流れへ口を開ける。
けれど、この量を喰えば、閉じられない。
『宴を奪え』
僕は右手で左手首を握り締めた。
「開けない」
小さく言い、ティアナへ向き直る。
「下へ行こう」
「歩ける?」
「うん。まだ平気だ」
二人で階段を駆け下りた。
途中の魔導灯は、主回路が切られたはずなのに光っている。黒い明滅は隣の音響魔導具へ移り、さらに床の補助術式へ伸びていた。
「主回路、遮断完了!」
「なぜ止まらない!?」
「別系統から流入しています!」
職員たちは既に二つ目の遮断手順へ移っている。
それでも、広場から魔力が吸われる感覚は強まるばかりだった。
「バルト先生!」
避難誘導へ向かおうとしていたバルト教師を呼び止める。
「何だ、ロウェル!」
「魔導具の事故じゃないかもしれない。確認させて」
僕は紙より薄い第一階位防壁を作り、床の魔力線の上へ斜めに差し込んだ。
攻撃を防ぐ強度はない。
けれど、魔力の流れへ触れた瞬間、防壁の表面が大きく歪んだ。
打ち上げ台の方へ引かれ、端から崩れていく。
「事故じゃない」
魔導具の過負荷なら、制御を失った魔力は周囲へ散るはずだ。
これは逆だった。
「魔力が漏れてるんじゃない。集められてる。広場にいる人たちから吸い上げてるんだ」
バルト教師は僕の言葉だけでは動かなかった。
すぐに停止済みの魔導灯へ手を当て、自分の魔力を僅かに流す。
その魔力まで、打ち上げ台の方向へ引かれた。
「……主回路は切れているんだな!」
「間違いありません!」
「全員避難! これは事故じゃない! 職員は装置から離れ、観客の退避を最優先にしろ!」
広場へ避難を告げる声が響く。
停止手順に使った時間は長くない。
それでも、その僅かな間に座り込む者は増えていた。
「アルト」
ティアナが僕を見る。
問いかけるまでもなく、彼女の視線は打ち上げ台と避難者の間を往復していた。
「私はみんなの道を作る。アルトは流れを探して」
「分かった」
ティアナが地面へ手を触れる。
石床の継ぎ目から低い土壁が伸び、混乱する人々を出口の方向へ分けた。段差には土が詰められ、細い蔦が手すりとなる。
その上空を、幾つもの風精霊が駆け抜けていった。
「西の階段は煙が薄いです。北側は装飾が傾いています。東の通路はまだ空いています」
セルフィナが目を閉じ、風精霊から届く情報を拾っている。
「メルナ・アリエス。西、東、南東の順に人を分けてください」
「了解!」
メルナが両手を広げた。
広場の上へ、青、緑、橙の光の矢印が浮かぶ。
それぞれの矢印から人型の幻像が歩き出し、安全が確かめられた通路へ避難者を導く。
「青は西! 緑は東! 子どもは小さな星についてきて!」
足元には掌ほどの星が連なり、混雑していない出口へ走っていく。
出口が増えたわけではない。
けれど、見えなかった道が全員から見えるようになり、一か所へ集中していた人の流れが分かれた。
轟音が響いた。
魔力を失った補助術式が消え、臨時観覧席の上に残されていた装飾梁が傾いている。
「防壁!」
光が広がり、落下する梁を受け止めた。
その中心に、ユリウスが立っている。
光の防壁は軋み、梁は少しずつ沈んでいた。
ユリウスは身体強化を使い、肩と両腕でも梁を押し返している。
「こちらは貴族の家族がいる! 先に通せ!」
正装姿の男が叫ぶ。
ユリウスの青い瞳が、冷たく男を射抜いた。
「身分を確かめている暇があるなら、全員を退避させろ」
「しかし――」
「僕が支えている間に、そこにいる者を残らず動かせ。二度言わせるな」
貴族席と一般席の間にいた人々が、区別なく梁の下から逃げていく。
その横を、金色の雷が短く走った。
フィアだ。
彼女は倒れた女子生徒の肩を支え、メルナの示した道まで運ぶ。安全な場所へ引き渡すと、混雑を避けた短い加速でもう一人の元へ向かった。
「煙を上へ逃がす! 指示が聞こえた者は復唱しろ!」
レグルスの風が広場を抜ける。
花火の煙と崩落の埃が巻き上げられ、同時に彼の声が遠くの出口まで運ばれた。
「子どもがいないんです!」
母親らしい女性が、赤い布を握り締めている。
「これ、あの子の上着です!」
「貸して!」
ガルナが布を鼻へ近づける。
犬耳を立て、大きく息を吸った。
「二人いる。片方は客席の下、もう片方は幕の向こう!」
「右は私が行く」
フェリナが黒い尾を翻す。
二人の耳と視線が一瞬だけ揃った。
ガルナの嗅覚が捉えた方向を受け取ったフェリナが、倒れた仕切り壁を駆け上がる。
同時に、客席の下へ潜ったガルナは、フェリナの視界から奥の隙間を知る。
言葉を交わさず別方向へ消えた二人は、間もなく子どもを一人ずつ連れて戻ってきた。
「この子たち、頼む!」
「うん。こっちへ!」
子どもたちを受け取ったのはミナだった。
戦うための魔法は使っていない。
広場の端へ敷物を広げ、見つかった子どもたちを集めている。
「家族が分かる子は右側ね。まだ見つかっていない子は私の近くにいて」
泣いている子の前へ屈み、一人ずつ顔を見る。
「一人で走らないで。隣の子の手を離さないでね」
ミナが、メルナの作った星の列を指した。
「光の星を追えば出口へ行けるよ。大丈夫。急がなくても消えないから」
子どもたちが手を繋ぎ、星のあとを歩き始める。
今朝と変わらない、ミナの声だった。
僕は打ち上げ台へ近づきながら、床を走る魔力線を追った。
吸い上げられた魔力が、その地下へ集まっている。
黒い線は複雑に折れ曲がり、正規術式の隙間で繋がっていた。
左右から伸びた線が重なる。
まるで、両手を合わせて祈っているような形だった。
その祈りが、一度脈打つ。
魔力灯の黒い明滅が止まった。
一瞬の静寂。
「何……?」
セルフィナの周囲にいた風精霊が、怯えるように散った。
左腕の紋章が強く疼く。
けれど、今まで感じていた魔力の甘さとは違う。
冷たい。
何かが、人の魔力より奥へ口を開けた。
黒い文字が、床から魔導灯へ逆流する。
その先にいるのは――ミナと、避難中の子どもたち。
「ミナ、避けて!」
魔導灯から、針のように細い黒光が放たれた。
ティアナが作った蔦の手すりへ触れ、その表面を一瞬で黒く腐食させる。
避難列の最後で、一人の子どもが恐怖に足を止めていた。
ミナは黒い光の正体を知らない。
それでも、子どもへ向かっていることだけは分かったのだろう。
迷わず、その背中を押した。
小さな身体が光の星の方へ転がる。
代わりにミナが、その間へ入った。
黒い光が、彼女の肩から身体へ沈む。
「――っ」
声にならない息が漏れた。
制服の下から黒い紋様が這い出し、首元と左腕へ広がっていく。
それでもミナは倒れなかった。
振り返り、動けずにいる子どもへ手を伸ばす。
「走って……みんなの手を、離さないで」
子どもが泣きながら立ち上がり、仲間の手を掴む。
それを見届けた直後、ミナの膝から力が抜けた。
「ミナ!」
僕は駆け寄り、倒れる身体を抱き止める。
呼吸はある。
けれど柔らかな茶色の瞳は焦点を失い、黒い紋様だけが心臓の鼓動に合わせて脈打っていた。
バルト教師が駆けつけ、ミナの首元を見て息を呑む。
「魂蝕の呪いだ。治癒魔法だけでは止まらん!」
騎士になれなくても、誰かを守る方法はあるよ。
今朝の笑い声が、耳の奥で蘇る。
ミナは騎士ではない。
騎士団から勧誘もされなかった。
それでも子どもの前へ立ち、その小さな命を守った。
騎士の徽章を持たないミナの胸で、子どもの代わりに受けた黒い祈りが、彼女の魂を喰い始めていた。
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