第36話 花火の下で
空になった木箱を抱え、僕は倉庫へ向かっていた。
七色の旗も、臨時客席も、昼のうちにほとんど片づけられている。
屋台は閉まり、競技場から歓声も消えた。
七彩祭は昨夜で終わったのだ。
ただし、閉幕を飾るはずだった花火だけは別だった。
昨夜は上空の風が強く、安全のため今夜へ延期された。そのため、打ち上げ用の魔導具と広場の照明だけは撤去されずに残っている。
日が傾き始めた中央広場には、生徒や学院職員、まだ王都に滞在していた家族連れが戻りつつあった。
「アルト!」
聞き慣れた声に振り向く。
制服姿のティアナが、こちらへ駆けてくるところだった。
「探したよ。もう片づけは終わった?」
「この箱を戻せば終わりだよ」
「そっか。じゃあ……」
ティアナは言いかけて、背中の後ろで両手を組んだ。
武闘大会で炎へ立ち向かった時より、少しだけ緊張しているように見える。
「アルト。今夜の花火、私と見てくれる?」
「うん。みんなも広場に集まるの?」
僕が尋ねると、ティアナは一瞬だけ視線を外した。
それから、頬を僅かに赤くして僕を見る。
「みんなとじゃなくて、二人で見たいの」
胸の奥が一度、大きく鳴った。
周りでは木箱を運ぶ音も、花火を待つ人々の話し声も続いている。それなのに、ティアナの言葉だけがはっきりと残った。
「うん。僕もティアナと見たい」
「本当?」
「本当だよ」
ティアナの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、いい場所を見つけてあるから。箱を戻したら行こう」
倉庫へ箱を返し、僕たちは中央広場の外周を歩いた。
競技や屋台が再開したわけではない。それでも延期された花火を待つ人々の声が重なり、広場には祭りの最後の名残が戻っていた。
「敷物、まだ足りない人はいない? 飲み物はこっちにあるよ」
ミナが片づけを手伝った生徒や子どもたちへ、余っていた敷物と水を配っている。
朝から動き続けていたのに、その声は明るい。
けれど一通り配り終えると、自分の分の敷物へきちんと腰を下ろした。今夜はミナも、裏方だけではなく花火を見るつもりらしい。
その隣では、メルナが指先を動かしていた。
小さな光の星が三つ、子どもたちの頭上をくるくると回っている。
「こっちは予行演習。本物はもっとすごいから、ちゃんと空を見ててね」
子どもたちが歓声を上げる。
メルナは僕たちに気づくと、ティアナへ小さく片目をつむった。
大声でからかわれるかと思ったけれど、何も言わずに見送ってくれた。
広場の外れには、フィアとレグルスがいた。
フィアの腰まで届く金髪が、魔導灯の光を受けて淡く輝いている。
彼女は並んで歩く僕とティアナを一度だけ見た。
左手が胸元へ近づきかける。
けれど、その手はすぐに下ろされ、視線も打ち上げ台へ戻った。
「来年は花火を見上げる側ではなく、最も注目を集める側に立つ」
隣でレグルスが腕を組んでいる。
「花火より目立つのは難しいと思うけど」
「誰が光量の話をしている」
フィアが静かに返すと、レグルスの眉が寄った。
少し離れた木のそばには、セルフィナが立っている。
淡い銀緑色の髪を、小さな風精霊が揺らしていた。
「ずいぶんと騒がしいですね」
そう言いながらも、帰ろうとはしていない。
貴族の生徒たちが集まる場所にはユリウスがいた。
武闘大会での敗北を経ても、背筋は真っ直ぐに伸びている。周囲に何か尋ねられても、冷たい青い瞳を夜空へ向けたままだった。
彼は僕たちへ一度だけ目を向けたが、口を挟むことはなかった。
「フェリナ! そっちから見える打ち上げ台も見せて!」
広場の反対側からガルナの大声が飛んでくる。
低い外壁へ腰かけたフェリナが、呆れたように黒い猫耳を伏せた。
「自分の目でも見えてるでしょ」
「二方向から見た方が得だろ!」
二人の耳と視線、尾の動きが一瞬だけ重なる。
次の瞬間、ガルナがまだ見えていない打ち上げ台の裏側へ顔を向けた。
花火を見るためだけに感覚共有を使うあたり、実に双子らしい。
近くにいたバルト教師が、広場に散らばる生徒たちを見回した。
「まったく。今年の十回生は、卒業する頃には手に負えん世代になりそうだな」
呆れた口調だったが、その顔は笑っていた。
学院最速の剣士。
学年最高峰の精霊弓。
銀槍の後継者に、光炎の貴公子。感覚を分かち合う双獣と、幻像を操る投擲士。
競技場を花園へ変えた少女もいれば、戦う力が目立たなくても、泣いている子どもを日常へ帰した少女もいる。
そして、その間を歩く僕は、少し前まで戦闘順位最下位だった。
誰も完成してはいない。
勝つ者もいれば、負ける者もいる。
それでも同じ学年に、これだけ違う強さを持つ生徒たちが集まっている。
今はまだ、互いに競い合う同級生でしかないけれど。
「こっちだよ」
ティアナに案内されたのは、広場に面した校舎の外廊下だった。
昼間、飾りを外している時に見つけたらしい。
立入禁止の場所ではなく、足元も整備されている。広場から少し離れているため人の声は遠いが、打ち上げ台と夜空はよく見えた。
周囲に、他の生徒はいない。
「本当に二人だけだね」
「う、うん。嫌だった?」
「嫌じゃないよ。ただ、舞踏会の時より緊張するかもしれない」
「私も」
ティアナが笑う。
そこで会話が途切れ、二人で欄干へ並んだ。
楽団もない。足の順番を数える必要もない。
それなのに、昨夜より自分の立ち方が分からなかった。
やがて、地上の魔導灯が一斉に弱くなる。
夜空へ一筋の光が昇った。
わずかな静寂のあと、青い花火が大きく開く。
遅れて届いた音が、胸の奥まで震わせた。
「綺麗……」
青い光に照らされたティアナの横顔を見てから、僕も空へ目を戻す。
次は黄色。その次には白い光が枝分かれし、星のように降ってくる。
「忙しい七彩祭だったね」
ティアナが言った。
「武闘大会に、三人迷宮競技。買い物もしたし、昨日は踊ったし」
「舞踏会では、ティアナの靴を踏みそうになったけどね」
「踏まれてはいないから大丈夫。それに、私も笑って足を間違えたもの」
二人で小さく笑う。
七彩祭が始まった時、僕が約束したのは、まず一勝することだけだった。
それが予選を突破し、ユリウスと戦い、三人迷宮競技では三位に入った。
だからといって、僕が急に上位生徒と同じ強さを手に入れたわけではない。
できないことも、危うい力も残っている。
それでも、祭りが始まる前の僕とは違う。
結果を変えられるか確かめるため、自分で競技場へ立った。
「みんなと見るのも、きっと楽しかったと思う」
ティアナは広場を見下ろした。
「でも、競技の時も、買い物の時も、舞踏会でも一緒だったから」
そこで言葉を切り、僕の方へ向き直る。
「七彩祭の最後の景色も、アルトの隣で見たかったの」
赤い花火が開き、その光がティアナの頬を染めた。
僕の顔も、きっと同じくらい赤くなっている。
けれど、聞こえなかったふりをする必要はなかった。
「誘ってくれてよかった」
一度息を整え、続ける。
「僕も、この景色をティアナと見られて嬉しい」
「そっか」
ティアナはそれだけ答えて、また空を見上げた。
欄干の上へ置かれた手が、少しだけ近づく。
僕の小指と、ティアナの指先が触れた。
どちらもすぐには動かない。
手を握ったわけではない。
それでも、触れた場所だけが花火より熱く感じられた。
「ねえ、アルト」
「何?」
「次は、アルトから誘ってほしいな」
今まで、買い物も、デートも、踊りも、ティアナが先に手を差し出してくれた。
次も待っているだけでは、きっと駄目なのだ。
「分かった。次は僕から誘う」
「約束だよ」
「うん」
緑の光が夜空へ広がる。
高い場所からは、広場の様子もよく見えた。
メルナが作った小さな幻像の星と、本物の花火を交互に見て子どもたちが笑っている。
その後ろで、仕事を終えたミナも飲み物を手に笑っていた。
フィアの金髪が白い光を受け、雷のように輝く。
レグルスは腕を組んだままだが、打ち上がるたび目で軌道を追っていた。
セルフィナの周囲では風精霊が煙を運び、翡翠色の瞳が僅かに細められている。
ユリウスは背筋を伸ばし、誰より堂々と空を見上げる。
ガルナの歓声が広場の端から端まで響き、遠くのフェリナが呆れながら笑った。
異なる場所にいても、見上げている空は一つだった。
やがて、最後の光が打ち上がる。
赤、青、黄、緑、白。
幾つもの色が重なり、巨大な七色の花となって夜空を埋め尽くした。
広場から、この夜で最も大きな歓声が上がる。
「来年も見られるといいね」
ティアナが囁いた。
僕は七色に照らされた横顔を見て、頷く。
「うん。来年は僕から誘うよ」
花火の音に消されないよう、今度ははっきりと答えた。
◇ ◇ ◇
最後の大花火へ最大量の魔力が流れた瞬間、打ち上げ魔導具の内部で異変が起きた。
正規の術式を刻む淡い光。
その下に隠れていた髪の毛ほど細い黒線が、静かに繋がっていく。
黒い術式は打ち上げ装置から、広場の照明用魔導灯へ移った。
音を届ける魔導具を通り、観覧区域を囲む補助術式へ染み込んでいく。
爆発は起きない。
警報も鳴らない。
七色の光に見入る人々の足元で、黒い線だけが脈打った。
子どもを抱いていた母親が、小さくあくびをする。
片づけを終えた生徒が、急に身体の冷えを覚えて肩を抱く。
立ち上がろうとした職員の膝から一瞬だけ力が抜けたが、疲れたのだと思って座り直した。
外廊下にいたアルトの視界も僅かに揺れた。
けれど、それは競技と片づけの疲れに紛れ、異変として認識されることはなかった。
一人から奪われる量は、ごく僅かだった。
だから、誰も倒れない。
誰も助けを求めない。
誰も足元の黒い術式を見つけられない。
七色の花が夜空を埋めるその下で、観客たちの魔力は、誰にも気づかれないほど少しずつ吸われ始めていた。
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